グローバルかつユニバーサルでありたい。多様性が活かされる社会を目指して。

アプリの開発を行うモンスター・ラボ、またグループ企業でグローバルソーシングを行うセカイラボにて広報・ブランディングの責任者を務める椎葉さん。10歳の時に行った中国、高校時代に留学したデンマーク、大学院卒業後に働いたリトアニア。様々な環境に身を置き、多くの人と出会う中で、どのような価値観が養われたのか?お話を伺いました。

椎葉 育美

しいば いくみ|多様性が活かされる社会に貢献する
モンスター・ラボ、セカイラボのPR・ブランディングマネージャーを務める。

「変わっている」と言われることへの違和感


私は母の実家の熊本で生まれ、大阪、奈良、京都と関西圏で育ちました。生まれた時に、産科医の先生から「この子は頭が良い」と言われたらしく、それを真に受けた両親は、鉄は熱いうちに打てと言わんばかりに、教育にかなりの力を注いでくれました。

2歳の頃に「公文式」を始め、幼稚園生の時には因数分解を解いたり、古文で竹取物語を読んだりするほどで、10歳の時に、「ママが勉強しなさいというのは卒業よ」と言われるまでは、毎日毎日30分ほど机に向かっていました。

また、10歳の時に、半月ほどの中国内蒙古へのキャンプ・プログラムに参加しました。そのプログラムに参加しているのは、年上の中学生や高校生の人ばかりで、同じ年の女の子なんて他にはいませんでした。両親は、「自分が生きている環境以外の方法でも人は生きているということ」を伝えたかったと言っています。

その頃の中国は、道路や電気も整備されていなくて、もちろんシャワーもなく、たらいにお湯を入れてもらって顔を洗うような状況。食事も、それまで食べたことのないようなトマトの砂糖がけなどがたくさん出てきて、日本とは全く違う生活が営まれていました。

それでも、その違いを気にすることなく、何でも受け入れていましたね。一方で、違う暮らしの中でも、みんなでうたを歌ったり踊ったり、笑い合ったりと、人間として持っている共通のユニバーサルな感覚や愛情に触れることができたのです。

また、学校の休暇時には毎度熊本の祖父母のところにずっといて海や川、山を走り回る生活。そんなギャップのある育てられ方をしていたので、周りからは、「変わっている」と言われることが多くありました。通っていた大阪の私立女子校の「良妻賢母を育てる」という教育方針の中では、息苦しさを感じて異端児扱い。浮いていた部分もあったでしょう。

ひとはみんなそれぞれ違うのに、どうして私だけ変わっていると言われるのか。モヤモヤした気持ちや、自分には欠陥があるのではと悩んだりもしました。

すると、本当は生徒を減らしてはいけない立場である小学校の先生が、「このままだと育美さんの良いところを伸ばせないから」と、私に合うような自由な校風の学校と、そこを目指すための塾を勧めてくれたのです。

不安から、デンマークへ留学


その先生のアドバイスに従って塾に通い始め、中学受験をして京都の同志社中学校に進学しました。同志社には自由を重んじる歴史と校風があり、初めは先生に対して自分の意見を主張する先輩たちを見て驚きましたが、自分らしくいられる場でのびのび育つことができました。

ただ、内部進学で大学まで進めてしまうため、いわゆる勉強はしなくなりました。それでも、「やりたいことを見つける6年間にしなさい」と学校も親も見守ってくれていたので、「人と社会を場所という観点から考える」視点を教えてくれた地理にのめり込んだり、部活やおしゃれに熱中していました。

しかし、高校2年生時の陸上部の大会では、全く結果が出ませんでした。この時、「このまま進んでいいのか?」と強い不安を感じたのです。一貫校なので大学までの道のりは見えている。だけど、このまま何となく流されているだけでは、何もできないまま10年間の同志社生活が終わって、社会に出てしまうのではないかと。

そこで職員室に駆け込み、「何かないですか?」と、そこら中の先生に尋ねました。すると、留学の募集が来ていると教えてもらえたのです。締め切りは翌日でしたが、迷うことなく申し込み、デンマークへの留学が決まりました。

デンマークは、教育や介護など社会基盤が、「個」を中心に成り立っている、個人主義が尊ばれる社会。社会保障など、日本だと世帯や家族に紐づくものが、ほとんど個人に紐付いていました。「個人の集合体としての社会」という理念で個々の自立を促進する文化があり、日本とは成り立ち自体が違う。そのため、「普通でなくてはいけない」という同調圧力は圧倒的に少なく、みんなそれぞれ個性を持って存在していることが嬉しくて、水を得た魚のように暮らしていました。

もちろん、これまで自分が思ってきた「常識」が通用しない社会でとまどいを感じる時もありました。そんなときは何も気にせずに全てを受け入れていた中国の時のことを思い出して、「同じようにできたらいいのに」と考えましたね。

また、デンマーク人だけではなく10カ国以上から来た留学生と一緒に一年間を送ったので、けんかしたり仲直りをしたりしながら「常識」は一種類ではないのだと実感する場面は多かったです。お互いの持つ違い、多様な部分を理解せざるを得ない環境だったので、「自分の価値観もグローバルに存在する様々な文化の一部である」という感覚は、それなりに持てるようになりました。また、それぞれの「常識の違い」がなぜ生まれてくるのかを、お互い切磋琢磨しながら話しあったり教え合ったりしたので、宗教や歴史についてのグローバルな知識を得ることもできました。

一方で、何より、彼ら、彼女らと人生においてかけがえのない友人となったことで、異なる文化背景を持った人たちでも、共通して持つ感覚があるとも感じることができました。そして、様々な人が一緒に生きていくには、まずひとりの人としてどう考えるべきか、というユニバーサルな感覚について深く考えた時期でもありました。

どんなに違う文化でも、助けてくれる人がいる


デンマークでは、自分の個が認められていると実感する一方で、デンマーク人はもちろん、留学生や移民・難民など、様々な背景を持った人々による社会の一員として暮らしていました。そのため、それまで遠くに感じていた外国の戦争や平和、歴史や文化がいきなり身近になり、この世界で起こっていることやその理由をもっと知りたい、理解したいという気持ちが強くなったのです。そこで、帰国後は、国際政治を勉強し、大学院にも進学して、民族対立や移民政策について研究しました。

東京でふたつの大学院に通い、計3年かけて修了。その後は、海外の大使館で2年間働ける、外務省の「在外公館派遣員プログラム」に応募しました。学んだことの実情を現地で見たい気持ちや、デンマークの経験が薄れてきていることへの焦りがあったと思います。

プログラムに合格して伝えられた派遣先は、リトアニア共和国でした。電話で連絡があった時、「首都はどこですか?」と聞いてしまうほど遠い存在の場所。それでも、他に選択肢はなかったので、行くことへの迷いはありませんでした。

それには、このタイミングで結婚した夫が、半年後には仕事を辞めてリトアニアに来てくれると言ってくれたからでもありました。夫は常に私を受け入れてくれる、私にとって一番の大きな支えでした。

とはいえ最初は、リトアニアの言葉も歴史も知らなかったので、この国でやっていけるのか、多少の不安も感じていたのです。案の定着任してすぐの頃には、ひとりで食材を買いに行くと、吹雪が激しく道に迷ってしまいました。

心細い気持ちの中、立ち往生して地図を見ていると、ひとりのホームレスのおじいさんが近づいてきて、建物の壁に積もった雪を払いながら、私の頭をなでてきました。正直、「ああ、変な人に絡まれてしまったのか」と思いました。しかし、それはストリートプレートに積もった雪を払って、ここがどこか教えてくれていたのです。手袋もしない手で、必死に。

そのとき「この国で絶対にやっていける」と確信を持ちました。どんなに環境や文化が違っても、本当に困っていたら助けてくれる誰かがいる社会なのだと、リトアニア全体への信頼感が沸いた瞬間でした。

「できること」と「やりたいこと」を書き出した先に


リトアニアでは、運良く広報文化担当官として日本文化などを伝える仕事を任せてもらえました。たくさんの挑戦的な出来事をひとつずつ乗り越えていき、日本映画祭を満席にしたり、現地のスタッフと働きチームワークの醍醐味を味わうことができたのは、とても幸せな体験でした。

そして、2年の任期を終えて帰国した後は、外資系ホテルチェーンで広報・マーケティングマネージャーとして働き始めました。ここでも人に恵まれ、海外の系列ホテルの立ち上げなど、やりがいのある仕事を任せてもらえました。

しかし、忙しい分、家のことには手が回らなくなってしまいました。気がつくと、強靭な精神力を持っている夫が、寂しそうにしていたのです。その姿を見た時に、仕事に追われて大事なものを軽んじていたと、強く反省しました。

その上、2年ほど働き、仕事に対してのワクワク感が薄れていると感じていたこともあったので、会社を辞めることにしました。専業主婦として家のことを整えつつ、これからの人生で何に取り組んでいきたいのか改めて考え、「できること」と「やりたいこと」をノートに書き出すことにしたのです。

まず私の経験値として、「海外で得たこと」はあるように思いました。それは、語学ができるという意味ではなく、相手の文化や違いを理解した上で、交渉や折衝をしてきたこと。これまで出会った本当に様々な立場の人たちとの繋がりや、学ばせてもらったことはとても価値のあるもので、それも大きな経験だと感じていました。

一方、やりたいことは何かと考えると、「地域の活性化」が浮かんできました。昔から遊びに行っていた母の実家の熊本の街が、どんどん廃れているのを目の当たりにしていたのです。地方が「東京のコピー」になるのではなくて、「その地域の特徴や個性を活かして盛り上がれる方法」を見つけたいと考えていました。

地域の魅力を世界中に伝えていくためには、ITやインターネットを活用する力が必要。そう考え、次の一歩はIT系の会社に勤めることにしました。そして、いくつかの企業の話を聞く中で、代表の夢が叶う世界を一番見てみたいと思い、かつ社風が合うと感じた、「モンスター・ラボ」に入社することにしたのです。

多様性が活かされる社会のために貢献する


現在は、グループ会社のセカイラボも含めた企業広報とブランディングの仕事をしています。会社の魅力を言語化して、魅力的に伝えていくのが私の仕事。すると、深く考える時間が多いので、改めて自分自身のことを考えたり、言語化する機会もできてきました。

その中で、これまで私は目の前にあったことに飛びつき、大局観を持ってキャリアを選択してきませんでしたが、根底にある想いは、「多様性を活かせる社会の実現のために貢献すること」だったと気づくことができたのです。

私は、育った家庭や学校の環境、海外で生活する経験の中で、「多様性」について考えたり、学ぶ機会を多くもらいました。だからこそ、その過程で得ることができたグローバルな知見やユニバーサルな体験を、もう一度社会に還元してくことが私の使命だと考えています。

地域を活性化したいのも、今の会社で働くのも、それが「多様な社会に繋がる」という意味では同じことなのです。そのため、現在の仕事としては、理念通り、多様性を受け入れるカルチャーが根付いているこの会社を多くの人に知ってもらいつつ、会社が持つ「多様性を理解し、活かす」価値観を、世界中に広めていきたいと思います。

また、この世界に溢れている多様性と同じくらい、誰にでも通用するユニバーサルな視点も大切だと信じています。どんな文化や環境でも、人として共通に感じたり考えたりすること、またそれを通じてビジネスや社会を鑑みる視点、グローバルとユニバーサル、ふたつの側面を両輪として進んで行きたいです。

私は、これまで本当に運が良くて、たくさんの素晴らしい出会いがありました。その出会いの中でもらってきたものを、自分なりに社会に還元していきたいです。仕事としては、色々な形があると思います。ただ、いずれにせよ、多様性が活かされ、個人や会社が生き生きと暮らす社会を実現するために考え、生きていきます。

2015.11.06

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