「いい庭」を作ることで、人を喜ばせたい。苦難を乗り越えて掴んだ世界一と、自らの使命。

商業施設や学校・病院・個人邸等のガーデニングを行う、ランドスケープアーティストの石原さん。バイクを乗り回しモトクロス選手として世界一を目指した10代から一転、生け花への感動から花の道へ。園芸との出会いと、様々な苦難を乗り越え手にした、世界最高峰の大会での金メダル。「いい庭を作ることで人を喜ばせたい」と語る背景にはどんな思いがあるのか、お話をうかがいました。

石原 和幸

いしはら かずゆき|ランドスケープアーティスト
商業施設や学校・病院・個人邸等のガーデニングを行う株式会社石原和幸デザイン研究所の代表を務める。

※本チャンネルは、TBSテレビ「夢の扉+」の協力でお届けしました。
TBSテレビ「夢の扉+」で、石原 和幸さんの活動に密着したドキュメンタリーが、
2015年11月8日(日)18時30分から放送されます。

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モトクロス選手の夢を諦めて、花の道へ


私は長崎県長崎市の酪農農家を営む家庭に生まれ育ちました。学生時代から父の乗っていたバイクに関心を持ち始め、高校生になってからはバイクのレースに参加するようになりました。すると、私がバイクを乗り回す姿を見て、モトクロスのプロチームの方から練習に誘っていただいたんです。初めて見るプロのレースは衝撃的で、ものすごいスピードで野山を駆け上がっていく姿に強く憧れました。そこで、日本一・世界一のモトクロスレーサーになりたいという夢を抱え、弟子入りして練習をするようになりました。

そんな背景もあり、高校を卒業後は、近隣で唯一2級整備士の資格が取得できた、福岡にある久留米工業大学の交通機械工学科に進学しました。新聞配達をしながら大学に通い、モトクロスの練習をして、と多忙な日々を過ごしました。

しかし、そんな生活を続けて20歳を迎えると、視力が落ちてしまったんです。かなり激しい競技で少なくとも1.2は必要なため、「ああもうこれは無理だな」と感じましたね。趣味でならば続けられるけど、プロは難しいと。それからは将来を摸索しながら生活する日々が始まりました。

とはいえ、新聞配達をしていて根性もあるということで、卒業後は長崎の自動車販売会社から声をかけていただき、見積もり整備士として働き始めました。ところが、社会人になってすぐさまオイルショックが起こり、世の中はCO2削減の風潮に、エンジンはどんどん機械化される時代に。また、モトクロスをしている時のように自分が勝負に出ていないことに、物足りなさも感じていました。

すると、そんなタイミングで、実家で酪農から生花に方針を転換し、段々畑で花を植えて市場に出荷するようになりました。そこで、私もそれを手伝おうかなと思い、生け花の教室に足を運んでみたんです。初めて見た生け花には、モトクロスとの出会いを思い起こさせるような感動がありました。たった3本の枝で、また花数本でカッコいい世界を作っていき、花は止まっているものの、切った次の瞬間には変わってしまう「静と動」の感覚も、モトクロスに似たものがありました。

それを見て以来、「これにかけてみよう」と思いを決め、会社を1年で退職し、生け花の本流「池坊」に入門することを決めました。

路上販売からのスタート


会社を退職してからは路上販売の花屋で修行をさせてもらい、実務を学ぶ日々を過ごしました。200円で買ってきた榊を2つに割って、1つ200円で売るという、商売の原点のようなものを学ばせてもらいました。また、路上販売ということもあり、花を売るというよりは自分を売るということに近く、挨拶等を心がけて可愛がってもらえるような技を身につけていきました。

そして、1年の修行を経て、24歳のタイミングで自ら独立し、実家の牛小屋を改造して作った小さな花屋を開業したんです。しかし、そんなタイミングで長崎大水害の被害が直撃。花畑も店も全て流されてしまい、結局また他の花屋さんで修行を行う日々が始まりました。夜は生け花教室にも通い、30歳までにはまた花屋を出したいという目標を掲げ、仕事に打ち込みました。

その後、29歳で結婚し、再び独立し、路上販売を行うようになりました。それまでとは異なり、路上でアレンジを作ったりブーケを作ったり、音楽を流してパフォーマンスのような形で販売を始めたんです。すると、どんどん人が集まるようになり大ヒット、テレビにも出演することができました。

ただ、路上販売は法律が厳しいこともあり、場所を変えなければいけないことに。バブルで土地は高い中、どうしたら花屋ができるだろうと考えた結果思いついたのは、自動販売機のスペースでした。オーナーに頼んでそれ以上のテナント料を払うことで、1メートル四方のスペースで花屋を始めることにしたんです。すると、次第にお客さんが増えていき、他にも階段の下やビルのエントランス等、デッドスペースを利用して店舗を増やしていきました。

その後、長崎の花の消費量は日本一になり、店舗自体も福岡・熊本・神戸・富山・東京・仙台とフランチャイズを含めた全国展開を進めていきました。2年間で30店をオープンし、商社との合弁会社も作り、事業を広げていったんです。

美しい庭を作ることが生き残る方法だ


しかし、一時を境に徐々に売上が下がっていき、「今から」という時にバブルが崩壊。大きな負債を抱えるとともに、2年で合弁会社はたたむことになり、店舗等も全て売却した上で、個人で抱えた借金は数億円規模にも及びました。正直、どうやって返していこうという計画が見えない状況でした。

また、ちょうどその数年で父ががんを患い亡くなりました。それまでは働いている父の姿しか見た事が無かったのですが、最期は、皆に囲まれ、「ありがとう、楽しかった」と言って亡くなったんです。その後もものすごい数の人が長崎の教会に集まって、すごくカッコ良かったんですよね。それを見て、自分ももう一度長崎でやり直そうと覚悟を決めました。原点に戻って、借金を返していこうというエネルギーを父からもらったんです。

それから再び自分で仕入れをして、現場で売り始めるようになると、様々な気付きがありました。直接市場に足を運んでみると、環境は以前と変わっており、実際にお客さんと接することで、直接声を聞く機会から離れてしまっていたことに気づいたんです。

そして、心機一転し現場に立って仕事をしていると、植木や園芸についての依頼を受けることが増えていきました。更に、未経験ではあるものの、お客さんからの声を受けて挑戦してみると、非常に褒めていただくことが出来たんです。切り花の消費自体は減っていたものの、趣味としての園芸は市場としても伸びており、次第にその可能性を強く感じるようになっていきました。いつしか、「美しい庭を作ることが生き残る方法だ」と感じるようになっていったんです。

世界最高峰、「チェルシー・フラワーショー」での金メダル


新しく園芸に挑戦する中で、自ら全て行うことは難しいため、自分の役割はプロデュースすることだと定め、良い職人の技術を、お客さんの要望と合わせていく部分を担うことに徹底しました。何を欲しがっているのか、それを予算で収めるためにはどのように依頼すればいいのか、身体で学んでいく日々を経て、少しずつ事業が軌道に乗っていきました。

とはいえ、長崎での仕事はあまり規模が大きくない状況。もっと大きい仕事をどうしたら取れるか考えた結果、大会等で目立つことで、ブランドを築こうと決めたんです。モトクロスに打ち込んでいたときのように、もう一度世界一を目指そうと。

そこで、41歳の時『TVチャンピオン』というコンテスト番組のガーデニングの腕を競う回に参加し、ある程度いい線の成果を出せたことで、自分の中でも手応えを掴めました。「ここで、本気で勝負をしよう」と改めて感じたんです。

そして、私が志したのは、世界一権威のある庭と花のコンテストであるイギリスの「チェルシー・フラワーショー」でした。元々、イギリスは人口当たりの庭師が最も多い国で、モトクロスもヨーロッパの発祥だったため、私にとっては憧れのような場所でした。実際にチェルシー・フラワーショーを初めて目にした時の感動は、プロのモトクロスを初めて見た時以上のものでした。この世のものでないような世界を目の当たりにし、「ああ、ここだ!」と感じました。10×20メートルの庭を約2億円もかけて作り、1週間で壊してしまう。しかし、「いい庭」は説明がいらないんです。見た瞬間に驚いたり感動したり、5階建てでエレベーターや滑り台が着いた庭もあれば、プールが組み込まれているものもありました。

そんな環境のため、挑戦を決意してからも、最初は資金調達やスポンサー獲得に苦労しましたね。抱えていた借金返済のど真ん中だったため、最終的には実家を売却して臨むことに決めたんです。家族に悪いといういたたまれない気持ちと、絶対に成功しなければいけないという思いとの戦いでした。

それでもお金が足らなかったので、結局現地で材料が買えず、長崎から持って来たカステラを渡して他の国からおねだりをして材料を集めました。しかし、初出場かつ人からもらった材料で臨んだチェルシー・フラワーショーで、シルバーギルドという2位に当たる賞をいただくことができたんです。「とんでもない、やった」という気持ちで一杯でした。ヨーロッパの庭は花をたくさん使うので、あえて花を一本も使わない庭にしたんです。自分の生まれ故郷長崎のイメージも取り入れ、自分らしさをぶつけた作品でした。

そして、その2年後、もう一度臨んだ同大会で今度は1位を獲得することができました。前回大会後、図々しくも「何故一位じゃないのか」と聞いてみた所、「ラブリーさに欠ける」と言われたんですよね。その経験から、あやめの花を咲かせて臨み、世界一を掴むことが出来ました。それからは、この分野に命をかけようと思い、同大会に12年間出場を続け、その後も2回金メダルを取ることができました。花で人が集まることに絶対の自信を感じるようになり、自分が日本の園芸文化を変えるんだと思うようになっていきました。

いい庭を作ることで、人を喜ばせる


初めて世界一を取ってからは拠点を東京に移し、退路を断つことに決めました。しかし、チェルシー・フラワーショーの金メダルを持って東京に移り住んだら夢のような世界が待っているという希望とは反対に、地道に最初は仕事を営業しなければいけない日々が続きました。長崎に比べて家賃も駐車場も移動費も高い、こんな中どうやって仕事ができるんだろうと焦りながらも、食事に行く先、飲みに行く先等、行く先々で自分の作品の写真を渡していき、どんな小さな仕事でもいいから引き受けていきました。

ただ、そうやって耐えていい作品を出していると誰かが見てくれているもので、次第に人からの紹介で仕事の依頼をもらえるようになっていったんです。また、最初は長崎の会社の一事業部として東京に進出したのですが、リーマンショックの影響から会社の意向で同事務所を閉めることになり、それからは周りの方の支援を受け、株式会社石原和幸デザイン研究所として、渋谷にオフィスを構えるようになりました。すると、自ら100%判断ができることや、渋谷や代官山等、出会う人が変わったことで、次第に大きい仕事をいただけるようになっていきました。

現在は、商業施設や病院や学校・個人邸等のガーデニングを行っています。過去の作品を見て依頼をいただけるケースが多く、庭を通じて人が集まること、経済効果が生まれることに寄与できるような提案を行っています。メンテナンスのコストも含め、多くの人を集めて経済効果を上げる仕組みを作っています。そういった側面があるため、町おこしの支援等も行っており、9カ所でふるさと大使を務め、年間300回程飛行機に乗るような日々です。

やはり、いい庭を作ると皆が笑顔になり、喜んでもらえるのが一番嬉しいですね。それが結果的に集客になりますし、次はもっと集めてやろうという活力にもなります。庭を見る人の顔を見ているのが快感ですね。
これからは「庭ってすごいよ、人が喜ぶよ」ということを日本の人たちにもっと伝えていきたいです。庭は作った時点がスタートで、メンテナンスをすることでどんどん良くなっていくんです。

また、大きな夢ですが、いつか、ディズニーランドを越えるような集客を誇る庭を造りたいという思いもあります。何かの施設の付帯ではなく、あくまで庭。サグラダファミリアのようなイメージが近いです。この仕事をずっと続けることで、いい庭をつくって人を喜ばせ続けたいです。

2015.11.02

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