「日本のいいね!」を「世界のいいね!」に。企画と編集の力で、社会を面白く。
日本の「いいね!」を見つけ出して発信する、「いいね!JAPAN」の編集長を務める小田さん。バブルの崩壊、震災による業績不振など、多くの苦労を経験。そんな中、「そういう時期なんだ」とポジティブに考えることで乗り越え、編集、企画、出版と様々な実績を積んできた小田さんが、今目指すものとは?
小田 実
おだ みのる|企画、編集、出版プロデュース
いいね!JAPAN編集長。企画制作会社株式会社ダブルクレイン代表取締役。インバウンドに特化した海外専門広告代理店インフィニティコミュニケーションズ株式会社取締役。2015年ミラノ国際博覧会日本館展示ディレクター。
作家になる夢を抱き編集者になる
私は山形県酒田市で生まれました。実家では祖父母が本屋を営んでいたので、小さな頃から本に囲まれていました。本を読むのが大好きで、将来は本に関わる仕事がしたいと考えていました。ただ、いきなり作家になるのは難しいと考えていたので、35歳までに自分の本を出版すると決め、大学卒業後は大手の出版社に就職しました。
しかし、そこは法律関係書類を中心とした出版社。仕事内容は、官報などを読み、法律や条例の改正点を調べて修正していくこと。正直、全く面白みを感じられなかったんです。一緒に働く人は好きだったものの、さすがにやりたかったこととは大きくずれていたので、2年ほどで会社を辞めることにしました。
その後、タウン誌を発行する出版社に就職しました。5人ほどの会社で、小さいながらも雑誌を作る全ての工程を経験できました。企画から、取材、執筆、レイアウト、版下作り、広告販売、書店への営業まで、本当に全てに関わりました。
入社した年は、ちょうど創刊15周年を迎えた年。記念イベントや特集企画も行い、土日返上で鬼のように働きました。それでも、これからどんどん大きくしていこうと勢いもあって、楽しかったですね。
ところが、10ヶ月ほど働いたタイミングで、協賛企業の業績悪化に伴い、会社が倒産することになりました。突然の出来事に驚きましたが、私にはどうすることもできません。そこで、すぐに「次だ」と気持ちを切り替えて、企業が発行する︎PR誌を制作する会社に入りました。
バブル崩壊に伴い、企画の道に
社内には、編集者だけでなく作家や放送作家など個性的な人もたくさんいて、仕事はPR誌を作るだけでなく、イベントの企画など様々なことを行っていました。また、社長は、以前は松下幸之助の秘書を務めていた人で、財界・政界に人脈がありました。私は社長に気に入ってもらい、社長に連れられて様々な場面に触れさせてもらい、一気に表舞台に出たような感覚でしたね。
ところが、バブル崩壊に伴い、業績は大きく傾きました。クライアントとなる大企業の中で、景気が悪くなった時に真っ先に削られるのは広告宣伝費だったんです。そして、人もどんどん辞めていき、この会社ももうダメかもしれないと感じていました。
しかし、社長への恩や会社への愛着があり、今回は少し抵抗してみようと考えていました。そこで、営業に転属することにしたんです。印刷物の仕事を取ってきたら、会社は持ちこたえるだろうと。そして、企画書を作って提案営業を行うようになりました。
すると、仕事仲間から、ユニフォームのカタログ制作は、数千万の規模のお金が動く仕事だと教えてもらいました。そこで、試しに企画を練って提案にいくと、受注することができたんです。社長に褒めてもらえ、かつ会社の業績にも貢献できたのは嬉しく、企画の魅力に取りつかれていきました。
また、印刷物の営業の他にも、収益を生むために、中小企業経営者の勉強会コミュニティを作ったりと、様々な企画を行っていきました。しかし、3年ほどもがいても、それ以上の成果はあげられず、会社の業績は悪くなる一方でした。そのため、さすがに責任を取らなければと思い、5年ほど勤めた会社を辞めることにしました。
広告代理店への出向と、夢の実現
その後は、企画に自信を持っていたこともあり、「プランナー求む!」と求人を出していた会社で働き始めました。企画とデザインを扱う会社で、私が入社した時には万博のプランニングに関わり、広告代理店と一緒に仕事をしていました。
社長はとても魅力的な人で、アンディ・ウォーホルのような白髪の見た目に加え、プランナーでありながら詩人でもありました。社長の影響を受けて、私の企画書も、詩を引用したり、物語調にしたりと、感情に訴えるスタイルになっていきました。
すると、広告代理店のプロデューサーにその企画書が気に入られ、出向することになりました。出向先では、私を引き抜いてくれたプロデューサーがいた自動車メーカー担当のチームに所属することになりました。
しかし、仕事の内容は企画だけでなく、プロジェクトを実現するため、プロデューサーの下での調整仕事も増えていきました。ところが、プロジェクトを進めるなんて初めてのこと。映像チーム、造作チーム、演出チーム、イベントチーム、それぞれの人が話す専門用語すら分からなかったので、会議では周りから呆れられてしまいました。
正直、なんで自分が企画でもない仕事をしなければならないのかと思っていましたね。深夜から会議が始まることもざらで、肉体的にも精神的にもかなり厳しい状況でした。
それでも、メンバーの人たちに色々教えてもらいながら、少しずつ環境に馴染んでいきました。そして、次第に、各チームとプロデューサーを繋ぐ立ち回りをするようになりました。プロデューサーの一番近くにいる人間でもあったので、どうやって話を通すか、まず私に相談してくれるようになったんです。
一方で、そういった調整仕事をしながらも、企画も出す必要があったし、「35歳までに出版する」という目標のために、個人的に出版社に企画を持ち込むこともありました。すると、漫画『ブラック・ジャック』に出てくる病気を、現実の医学的観点で解説するという企画が通ったんです。小学生の時から考えていた構想で、実現できるのは嬉しかったですね。
それからは、仕事の合間を縫って寝ずに原稿を書き、2001年に『ブラック・ジャック・ザ・カルテ』を出版しました。それも、手塚プロダクションの公認本として出すことができ、手塚眞さんからサインまでもらうことができたんです。夢にまで見ていた出版。自分が面白いと思っていることを実現できるのは、心から嬉しかったですね。
地方・編集というルーツへの回帰
その間、出向元の会社が分裂してしまい、どちらに所属しても波風を立ててしまうと感じたこともあり、独立をした知人の会社に取締役で入ることにしました。と言っても、私自身は引き続き広告代理店に出向していて、万博の仕事が一段落ついた2005年に、8年ぶりにやっと出向元に戻ることになりました。
そして、シリコンバレーで開発されていた「脳波センサー」と出会い、脳波を使って女の子を振り向かせるiPad用アプリ「クルリン娘(こ)」を開発しました。すると、反響は大きく、2年連続で「東京ゲームショウ」に出て、テレビで紹介されたり、お笑い芸人版も作りたいと言われたりしたんです。これは大ヒット企画になると思いましたね。
ところが、どこの会社も口をそろえて、「商品化は難しい」と言うんです。面白いけど、脳波は個人差やぶれが大きく、人によって動かない可能性や、それまでできたことが突然できなくなる可能性もあるので、ゲームとして商品化はできないと。脳波を使ったゲームに魅了され、書籍との連動など様々な企画を構想していた私としては、残念な気持ちでしたね。
さらに、東日本大震災の影響で会社の業績は悪化して、脳波センサーにお金をかけられる状態ではなくなっていました。そればかりか、私自身もこのままどうなってしまうのかと思っていました。
そんな時、広告代理店から、日本を元気にするために、地方で行われているソーシャルプロジェクトをFacebook上で紹介する、「いいね!JAPANプロジェクト」に編集者として参加して欲しいと誘われたんです。
最初は、デジタルのことはよく分からないし、ライターも他にいたので、あまりすることがなく、プロジェクトから抜けたいと思っていました。ところが、本格的に動き出し、取材に行くようになると、編集者の血が騒ぎ始めました。また、私自身、地方出身だったので、地方の活動を紹介することが純粋に面白かったんです。そして、次第に中心メンバーとして、企画や取材、編集を行うようになっていきました。
しかし、プロジェクトは2年ほどで閉じる話が出てきました。そこで、私が権利を譲渡してもらい、「いいね!JAPAN」を継続させることにしたんです。地方から日本を元気にすることには可能性がある。また、23万以上の人がFacebookでいいね!をして応援してくれている。そう考えると、閉じてしまうのはあまりにももったいないと感じていたんです。
若者に地方の魅力を届けたい
現在、様々な企画の仕事を行う中でも、特に「いいね!JAPAN」に力を入れています。2015年4月にはサイトをリニューアルし、執筆体制やコンテンツを見直しているところです。
「いいね!JAPAN」を通じて、地方の魅力的なコトやモノ、場所や人を紹介していくことで、若い人に「地方でなにかやりたい」と感じてもらい、UターンやIターンが巻き起こるようにしていきたいと考えています。個人的には、昔の「藩」ほどの規模でコミュニティを再形成できるといいのではと思っています。藩を覗いていみると、特有の物産や誇りを感じられ、文化や歴史が見えてくるんです。そのような地域の魅力を再発見できたらと思います。
また、これからは、高校時代の友人が経営に関わる海外マーケティング専門の広告代理店とコラボレーションして、日本だけでなく、世界中に情報を発信したいと考えています。「日本のいいね!」を、「世界のいいね!」に変えるんです。そして、日本全体を元気にしていきたいですね。
個人的には本が好きだし、どんなに電子書籍が盛んになっても、紙の本はなくならないと考えています。本自体は自分の世界を広げてくれるツールだし、本屋には「偶然の出会い」があるので、その可能性を無限大に広げてくれる場所なんです。そのため、潰れゆく街の本屋を蘇らせて、本屋を中心に街を活性化させるようなこともしたいと考えています。
私は、自分の衝動から何かをはじめる以上に、会社が潰れてしまったり、バブルが崩壊してしまったりと、外圧で動かされることが多くあります。ただ、そんな時は、「今がそういう時期なんだ」とポジティブに捉え、その時々に面白いと思っている方向に向かって行動するようにしています。
今でも、面白いことがあるとすぐに飛びついてしまうので、まだ20代のような感覚ですね。これからも、私の座右の銘である、「おもしろきこともなき世におもしろく」に従い、どんな状況でも面白く生きていきます。
2015.10.13