子ども達が生きる力を探究型学習で楽しく育む。勉強も将来設計も悩んだ自分だからできる塾を。
横浜で小中学生を対象に、探究型学習の塾を開業した神﨑さん。自らの進路に摸索する中で出会った教育業界に飛び込み、予備校講師として実績を重ねていく日々。そんな中、「自分の授業は子ども達の健全な教育につながっているのだろうか?」と疑問を抱き、新しい挑戦を決めた背景とは?お話を伺いました。
神﨑 史彦
かんざき ふみひこ|大学受験予備校講師、探究型学習塾経営
東進ハイスクール、栄光ゼミナールnavio等で小論文講師を務める傍ら、横浜のセンター南で小中学生を対象に、「いつもの学び」としての個別指導塾に「これからの学び」である探究学習塾を掛け合わせた「ThinkAct!」という新しい形の学習塾を運営する。
受験での挫折と、浪人でつかみ取った推薦合格
私は新潟県で生まれ、3歳からは横浜で育ちました。小さい頃から目立ちたがりな性格で、はじけるタイプではないものの人の前に立つのが好き。真面目な性格も合わさって、小学校の文集には、将来の夢をアナウンサーと書くような子どもでした。
中学に進学してからは1年生から生徒会の副会長を2期務めることに。ただ、目立つようになると、自分が前に出ていることを良く思わない人もいましたね。時にはそんな反発からいじめられてしまうこともあり、以前よりも前に出ず、足並みを合わせるようになっていきました。
その後、高校受験の時期を迎えると、私が住んでいた神奈川県では、中学2年生の時に受けるアチーブメントテストという試験と内申点で7割方結果が決まるような入試制度でした。そして、私は内申点がそれなりに高いものの、勉強の習慣がなく塾にも通っておらず、アチーブメントテストの結果が思わしくなく、志望していた学校に出願できなくなってしまったんです。
元々、父が小学5年生の時に独立して、家庭的にも滑り止めで私立校に行くという選択肢を取れなかったこともあり、確実に合格できる学校まで志望校を下げることに。それまでの調子にのっていた日々から一変、投げやりな気持ちになってしまい、勉強を止めてしまいました。プライドが高い部分もありましたね。
そんな背景で入学をしたため、高校にワクワクしながらいくといったことはありませんでしたが、文化祭の実行委員長を務めたり、放送委員のPA班でアナウンスや音響の設営等を行ううちに学生生活に楽しみを見いだしていき、途中からは吹奏楽部にも入り充実した生活を送ることができました。
また、そういった入学経緯だったこともあり、学校内の成績は良く、上位を保つことができていました。そのため、特別勉強をしているわけではないものの、大学受験には自信がありましたね。放送委員の経験からもやはり将来はマスコミ関係の仕事に就きたいと思い、社会学部を中心に受けて回りました。おそらく、親は家業を継いでほしいという気持ちもあるのではないかと思いながらも、進路について何か言われることは無かったので、自らの関心で道を決めていきました。
ところが、根拠の無い自信を持って臨んだ大学受験の結果は全滅、浪人をすることになってしまいました。親と一緒に合格発表に行って番号が無かった瞬間は本当にいたたまれなかったです。がっくりしながら帰路につきました。
想像もしていなかった浪人生活が始まってからは、予備校のMARCH志望コースに通い、1日14時間以上勉強するようになりました。すると、ある時、法政大学の入試のパンフレットを見ていて論文と志望理由書、英語・面接で受験を行う論文特別入試があることを知ったんです。出願締め切りの10日前に知ったのですが、公募推薦自体少なく、浪人生で受けられるものは更に少なかったので、チャレンジしてみようかなと軽い気持ちで受けてみることに決めました。
その結果、特別手応えがあった訳ではなかったものの、法政大学の法学部に合格することができたんです。思わぬ形で結果が出て驚きましたが、そのまま入学することに決めました。
生徒と楽しみながら学ぶ塾で感じたやりがい
大学に入学してからは、元々関心を持っていたDJサークルに入ろうと思ったものの、部室に行ってみると誰もいなかったため、いいやと思い帰ることに。高時給に惹かれた補習塾での講師のアルバイトに精を出すようになりました。妹が通っていた塾ということに加え、個人的に教えることに苦痛もないため、いいかなという思いで国語・社会・理科を教え始めました。
その塾はエンターテイメント系企業を親会社に持ち、アクティブラーニングに積極的な塾だったこともあり、課外授業や実験等、かなり裁量を持って授業をさせてもらえました。私自身、何か楽しく出来ないかなと常に考えて授業をするようになり、教室でタイ米を炊いたり裁判所見学に行ったり様々な授業を企画しました。純粋に生徒が楽しんでくれるのが嬉しく、あまり教えようという気持ちではありませんでしたね。楽しんで、それをキッカケに何か社会を知ることに繋がればという思いでした。
その後、就職活動の時期を迎えると、塾での経験は楽しかったものの、教育業界には関心がありませんでした。飽くまでその塾の「楽しんで学ぶ」という主旨に共感しており、それがない学習塾にあまり魅力を感じなかったんです。
とはいえ、憧れていたマスコミに対して特別な対策をしてきた訳でもない状況。就職氷河期ということもあり、なんとか内定を取らなければという思いから、様々な業界を受けて回り、最終的には大手衣料メーカーから内定をいただくことができました。ちょうど、大学3年生からは塾のバイトに加え、このアパレル店舗でもバイトをしており、店長からいずれ入社するならと、先に店長候補の研修等もしていただくことができました。マスコミ志望だったこともあり、いずれは企業広報に回るため、なるべく早く店長になって、社内公募に応募しようというビジョンを描いていました。
就職せずに大学卒業、引きこもる中で訪れた転機
ところが、もっと経験を積もうと別の店舗に移ってアルバイトを続けていくと、その会社に就職することに違和感を感じるようになってしまったんです。その会社が目指すような「商売人」に自分はなりたいのだろうか、と。悩んだ結果、大学4年生でまだ進路の修正が出来るという思いから、内定を辞退し12月に就職活動を再開することに決めました。
その後、広告代理店に内定をいただきながらも、希望した編集の業務ではなく営業の配属となることを知り、その会社にも就職をしないことに。結局、内定を持たないまま大学の卒業を迎えることになりました。
それでも、塾講師の仕事自体は卒業後も続けており、上司の転職も重なって、アルバイトながら教育主任の職を任せていただけることになりました。しかし、ずっと現場で頑張っていればいつか認めてもらい、正社員になれるのではないかという思いで仕事に臨みながらも、依然待遇は変わらず。結果的にはけんか別れをすることになってしまいました。
それからはどこか自暴自棄になってしまい家に引きこもるようになっていきました。「もういいや、どうせ家にいればいいんでしょ」というパラサイトな気持ちで、就職氷河期だからということに甘えている自分もいました。
しかし、さすがにこんな状況を続けてはまずいという思いもあり、以前お世話になった方に近況の連絡をしていくと、浪人時代の予備校の担任の先生から、「小論文の添削の仕事をしないか」と声をかけていただいたんです。そんなありがたいお誘いから、計らずも教育業界に戻ることになり、翌年からは小論文以外にも、現代文等の講師として予備校で働き始めるようになりました。
そんな中でも、以前の経験から何か楽しさがなければという気持ちは持ち続けており、なるべく自由度を持って教えられる教科を考えた結果、国語を教えることにしたんです。
子ども達の健全な教育に繋がっているのだろうか?
講師を始めてからは、現代文の解法や小論文の書き方を仕組み化していくことに力を注いでいきました。正直、私自身授業を聞いていても解き方が分からなかったからこそ、何か解決策があるはずだと摸索していくことにのめり込んでいきました。
また、講師として経験を積んで単価を上げていこうと考え、資格予備校で法科大学院の適性試験講師を務めたり、看護医療系の講師等も経験しました。他にも、参考書の企画を出版社に持っていき、実際に出版にこぎ着ける等、自らの働く環境を変えていきました。
その後、2012年からは株式会社カンザキメソッドという名前で自分の会社も立ち上げ、大学受験向けのAO推薦入試の対策の授業や、東進ハイスクールでの小論文の講師、書籍の出版等、活動の幅を広げていきました。
しかし、20代で注力した仕組みづくりが一段落つき、自らのメソッドをこなれて利用できるようになってきたタイミングで、ある時から「自分はなぜこれをしているのだろう?」と感じるようになったんです。本当にこれがやりたい仕事なのだろうかと。
というのも、予備校講師として査定される環境で生徒の満足度ばかり追いかけた結果、短期のニーズにばかり答えるように迎合してしまい、「自分の授業は子ども達の健全な教育につながっているのだろうか?」と疑問に感じてしまったんです。気づけば、例えば推薦入試の志望理由書であれば無理をして志望動機を固めて受験に通す、小論文であれば「これを書けば受かる」とネタだけを提供するような仕事の仕方をしてしまっていたんですよね。
本来、未来は自分の力で切り拓いていくもの。自ら課題を決めて解決アプローチをしてくのが小論文の意義でした。しかし、今の授業の仕方では、自分の力で物事を解決する力を養えないのではないかという危機感を抱くようになりました。毎年高校生の進路相談を受ける中で、ずさんなキャリア意識に触れるうちに、逆に子ども達のキャリア設計を邪魔しているのかもしれないとすら考えるようになっていったんです。
学校よりも楽しい、探究型学習の塾を
そんなことを思い悩んだ結果、私はこれまで身を置いてきた教育業界で新しい挑戦を行うことに決めました。現在、知識偏重だった教育業界は大きく変わるタイミングを迎えており、2020年には大学入試制度の変更も予定されています。そこで、小中学生を対象に、「いつもの学び」としての個別指導塾に「これからの学び」である探究学習塾を掛け合わせた「ThinkAct!」という新しい形の学習塾を横浜のセンター南に開校することに決めました。
この学習塾では、教師が一方的に行う授業ではなく、生徒が自分なりの考えをまとめて実践する「アクティブラーニング」と、ICTを用いて学習内容や方法を生徒一人一人にカスタマイズする「アダブティブラーニング」を根幹に据え、子ども達が主体的に学ぶ環境を整えていこうとしています。特に、個人的な経験からも、高校生以前の段階からこのような教育を始める必要性を感じたからこそ、より若い世代から育めるような仕組みを作っています。
現在、未知なる課題を自分たちの力で解決する「探究学習」は火がつき始めています。そのため、この分野では新しい教育を行う先駆者の方が多数いるものの、私が実際にお話を伺ってみると、「天才を育てる学校」に近い印象も感じています。私自身、勉強に面白さを感じていなかった学生だからこそ、もっと身近な塾にしていきたいという思いがあるんです。
そのためにも、面白い課題を子どもたちに提供し、楽しんで取り組んでもらおうと考えています。電子工作キットやプログラミングを用いた授業や、横浜で中華料理のメニューを考えて試食・改善を経て審査発表まで行うフードビジネス・マーケティングの授業も企業とのコラボレーションで企画しています。探究学習は過程を大切にする学びで成果が見えにくい、だからこそ必ず成果物を作ることを前提としており、宿題を出すことで学習習慣も形成していきます。成果物・過程を見つめる学び・課題解決型の学習という3点を軸に、楽しく学ぶ中で21世紀に必要なスキルを養える学習塾にしていきたいですね。
もちろん、ビジネスの観点から言えば仕組み化は必ず必要です。ただ、ある種発散的に楽しさを残した仕組みにしたいんですよね。「ここに来たら学校よりも楽しいぞ」という塾にしたいという意気込みです。子ども達をこのまま放っておいたらだめになる、そんな危機感があるからこそ、私教育から変えていきたいと考えています。
2015.10.07