QOLを高く維持し、なるべく楽に長生きする。がんの「兵糧攻め」で、人を幸せにする医療を。
血管内治療のスペシャリストとして、がん細胞への「兵糧攻め」の技術を用いて、大阪で乳がんや肺がん・肝臓がん等の治療を専門的に行う堀さん。医療の目的は人を幸せにすることだと話し、QOLを高く維持した治療を目指す背景にある思いとは?お話を伺いました。
堀 信一
ほり しんいち|がん等の疾患のカテーテル治療(血管内治療)
大阪府泉佐野市に拠点を構え、乳がん・肺がん・肝臓がん等のカテーテル治療(血管内治療)を専門的に行うゲートタワーIGTクリニックの院長を務める。
※本チャンネルは、TBSテレビ「夢の扉+」の協力でお届けしました。
TBSテレビ「夢の扉+」で、堀 信一さんの活動に密着したドキュメンタリーが、
2015年10月4日(日)18時30分から放送されます。
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「自由」に憧れて医者を目指す
私は静岡県島田市に生まれ、7歳からは大阪で育ちました。小さい頃から飛行機が好きで、将来はパイロットになりたいと考えていました。自らの操縦で空を飛ぶという自由さに憧れをいだいていたんです。
しかし、中学生になり模型飛行機を作って遊ぶようになると、操縦するよりも設計をするほうが面白いのではないかと感じるようになりました。ちょうど、目が悪くなってきてしまったこともあり、作る方にいこうと考えたんです。ところがそんな矢先、国内の飛行機製造が中止されてしまい、航空系の学校に進学しても希望する仕事に就けないことが分かりました。
そこで、悩んだ結果、思いついたのは医者になろうという新しい選択肢でした。自分の性格上、大きな会社に入ってラインに乗るというサラリーマンは違うという思いがあり、自ら開業できる医者に魅力を感じたんです。会社勤めをする父の働き方が、自分にとっては前向きに映らなかったため、リスクを取ってでも面白いことをしようと決めました。
しかし、急にそんなことを言い出したので、担任の先生からは「お前みたいな不真面目な奴じゃ無理だ、医者を目指す人はみんな高1から勉強している」と、ボロクソに言われることに。それでもやってみますと、高校3年生の秋から本格的に勉強を始めました。
そんな背景で迎えた受験本番、志望していた大学には落ちてしまったのですが、開示された成績は、不合格者の中では悪くないものだったんです。それを糧にもう1年頑張ろうと決め、浪人を経て徳島大学の医学部に合格することが出来ました。
実際に入学してみると、医学といってもバリエーションに富んだ授業で何を勉強しても深く面白みがあり、自分に向いているなと感じましたね。ただ、その分自らの専門をどの分野にするかは定まらずに卒業間近を迎えました。そこで、25歳のタイミングで改めて自らの人生を考えて進路を考えると、自分は外科も内科もどちらも向いていないような感覚がありました。できれば、その中間が無いかなと摸索していたんです。
すると、ちょうどそんな時に本屋で「画像診断」の教科書を見つけました。その中の一つに、太ももの付け根や腕の動脈から細い管(カテーテル)を通し、造影剤を血管に流しながらX線撮影をすることで、血管の状態や血液の流れを調べる「血管造影」という検査の項目がありました。そして、その説明文の下に、「将来は造影剤の変わりに薬を入れて、新しい医療技術になる可能性がある」という一文を目にし、その可能性に非常に惹かれたんです。
血管造影を行う放射線科は、画像診断で病気の検査を行う領域以外にも、放射線治療を行う領域もあり、科を選択した後もまだ選択肢が残ることも前向きに映り、私は放射線科の専門医となることに決めました。
血管内治療の可能性と、スイス留学のチャンス
大学を卒業後は、叔父が大阪大学の附属病院にいたこともあり、そこで2年の初期研修を受けました。それまでは学生で教えられた通りに行動するだけだったのが、自ら考えて動きその責任も取るという環境に、とにかくドキドキしましたね。注射もメスもやらなければいけない状況に身を置くことで学んでいき、学生時代よりも勉強をすることになりました。特に、自分が阪大出身ではないため、認めてもらうために必死に努力していました。
その後、所属していた放射線治療のボスの異動の際に誘っていただき、大阪府成人病センターの放射線科で働き始めました。正直、まだ放射線診断か治療かの専門を決めかねていたのですが、「お前は何をしたい?」と聞かれたことで、学生時代に勉強いた血管造影の専門家になりたいという気持ちが固まり、週4はボスの直下のもと放射線治療を行い,残り2日は特別に血管造影を勉強させてもらうことになりました。
実際に両方を勉強していくと、元々ぼんやりと感じていた血管内治療の可能性により強く惹かれるようになりました。また、放射線治療は何億円もする機械を使って治療するため、自分の腕というより機械の腕のような感覚があり、機械の使い方にしか自由度がないことに相性の悪さを感じていました。それに比べて、血管内治療はまだ未発展だったこともあり、自らの裁量を持って押し進められるのではないかと考えたんです。それからは、血管造影・血管内治療を専門とすることに決め、大阪大学に戻り助手として働く日々を過ごしました。
そんなある時、仕事の一環で、スイスから来た教授が学会で講演を行う補佐のため、教授夫妻を学会期間中案内する役回りを務めることになりました。すると、その教授が帰国する時に、「何を専門にしているのか?」と聞かれて血管造影だと答えると、「お前はスイスで働く気があるか?」と声をかけていただいたんです。元々いつかは留学したという思いがあったため、これは大きなチャンスだと思い、すぐに行きますと即答しました。
衝撃の治療法と1ヶ月のパリ修行
それからは、1年間家族を連れてスイスに渡り、スイス・ベルン大学医学部放射線科にて常勤医師として働き始めました。スイスではいかに沢山の仕事をこなすかが価値だと考えていたため、日常診断での血管造影に打ち込みました。周りの評価を得るためにも、必死に仕事に明け暮れましたね。
しかし、正直面白い仕事ではなかったこともあり、途中であまりに働き過ぎて半分ノイローゼのような状態になってしまったんです。「何のためにスイスに来たんだっけ?」と。快適な生活で給料をいただき経験もできてと、充実はしていたものの、終わりが近づくうちに、阪大に戻った際に持って帰るものが無いのではないかと不安を抱くようになっていきました。
すると、ちょうどそんな折、フランスの教授がスイスに講演にいらしていたので参加してみると、それまで見たことの無いような技術を持っていたんです。それは、足の付け根からカテーテルを入れて頭まで繋げ、脳の治療を行う血管内治療だったのですが、まるで魔法のような技術に「なんやこれは!」と驚愕しました。
そして、即座にこれを持って帰らなければ来た意味が無いと感じ、その教授に勉強させてほしいと頼み込んでみることにしました。すると、手紙で返事をいただき、パリの病院で1ヶ月ちょっと勉強をさせていただけることになったんです。さらに、その間は先生の家に下宿していいというお話までいただき、早速パリ渡りました。
病院では基本的に見て勉強をさせてもらったのですが、どの診察をとってもまるで今まで見たことが無いもので、目から鱗という言葉以上の状態でした。「これを絶対日本でやってやろう」と、とにかくメモを取り、帰国の際にはマイクロカテーテルという日本に無い医療器具も譲っていただくことができました。
夢を叶えるための決意
ところが、帰国し意気揚々とその技術を病院内に報告すると、思いの他、周りの反応は冷ややかなものでした。「お前に教わらなくとも、本に書いてある」と。その画期的な治療法をなんとか日本で再現したいと考えていたからこそ、正直ものすごくショックでしたね。
それでも、脳外科の先生等、他の科の先生の中にはすごい技術だと注目していただける方もおり、一緒にその治療法をやってみようと話を進めてもらえることになりました。フランスで譲り受けたカテーテルを日本でも手に入れるため、医療メーカーにも協力を仰ぎ、本格的に新しい血管内治療に注力していきました。
ただ、フランスで見た脳内を対象とした治療は、日本では放射線科だけではできないような分野だったため、同じ技術を他の部位にも適応しようと、乳がんや肺がん・肝臓がんの治療に活用するようになりました。
その治療は、塞栓という技術を用いて血液の流れをゆっくりにする、又は止めた上でカテーテルで薬を適所に運び、抗がん剤の量を減らした局所的な治療を行うことや、がん細胞に運ぶ養分を止める「兵糧攻め」のような方法でした。技術を磨かなければいけないのはもちろん、ハード面でも随分高価な器具を使わなければいけないというハードルもありながら、全身に抗がん剤を投与しなくていいことで、局所で大きくなるガンの治療には向いているという感覚がありました。
というのも、現在多くのガン治療ががんの根治のために全身への投薬を行っていますが、局所を叩く方法を用いることで、1月に2・3日入院をするだけで治療ができ、仕事も続けられる選択肢が取れるのではないかと考えたんです。もちろん、患者さんがどちらを選択するかにゆだねる部分はあるのですが、医療の目的は人を幸せにすることだと考えているので、QOLを高く保ちながら治療をすることができると感じたんですよね。
その後複数の病院を経て、新しい病院の立ち上げの担当になり、3年ほどの準備期間を経て新しい病院が完成し、私は放射線科の部長になりました。そこで、自ら考えていた治療を実現するため、治療器具を全て揃え、夢に描いた施設が完成したような気がしました。
しかし、いざ運用する段階になってみると、ある疑問が浮かんできたんです。それは、公立病院の一部門としては自分の自由度を持って治療方針を決められないのではないかということでした。例え院長になったとしてもそのイメージは持てず、公務員でいる限り自分の夢は叶えられないかもしれないという不安を抱くようになりました。
そして、悩み考えた結果、ここで一発、自らの裁量で何でもできる施設を作ろうと決めたんです。お金が必要なのはもちろん、大変な冒険でしたが、自分のやりたいことを優先しようという思いでしたね。色々な人からものすごい反対を受けるような状況でしたが、場所借りから人選・チーム作りや、カテーテル会社と取引等を進めていき、2002年にゲートタワーIGTクリニックを開院しました。場所は関西空港の対岸に、今まで治療が難しくて苦しんでいた全国の方が少しでもアクセスし易いようにとの思いでの決断でした。
なるべく楽に長生きする、人を幸せにする医療を
しかし、当初は経営危機のような状況の連続でした。初めての病院経営、かつ資産がものすごく必要なモデルの挑戦ということで、患者さんからの認知が無いことに本当に苦しみました。それでも、なんとか危機を助けてくれる方との出会いが重なり、少しずつ軌道にのっていきました。
現在は、乳がんや肺がん・肝臓がんの治療を中心に行っていますが、カテーテルや塞栓材料に放射線を扱う機器等の設備、それを用いる医師の技術等が全て満たされないと提供できない治療法のため、まだまだ簡単に世の中に広がらない状況です。
ただ、一方で日本人の2人に1人がガンにかかるような状況で、患者さん側のニーズは確実に大きいのが現実。大きながんセンターや大学病院で治療したけれども根治できなかった方が来院いただくケースも多く、そういった方を助けたいという一心で治療を行っています。
それでも、一般の方々が私たちの病院を知ることはとても難しいため、他の病院と連携し同じ血管内治療を提供いていくことや、広報活動にも力を入れています。特別儲けたいという訳ではなく、病院自体が回っていけばいい。設備への投資が大きい治療法だからといって治療費を上げてしまうと全てが破綻してしまう。だからこそ、私立病院として分野を絞って集中的に治療を行い、医師一人一人の腕を上げることで治療時間も減らしていき、一人でも多くの方の治療を行うことができるように注力しています。
私は、何かとても崇高な思想があって今の医療を行っているわけではなく、自分がベストだと思う治療法を極めようとしていて、その効果に自信があるからこそ広めていきたいと考えているんです。根底にあるのは、医療を通じて人を幸せにすること、なるべく楽に長生きすることのサポートです。そのため、がんは治るという前提のもと徹底的に根治を目指すだけでなく、なるべくがんに悩まない形で天寿を全うするような選択肢も提案できればと考えています。
今後は、自分の夢だといって作った病院が、自分が働けなくなったら終わりという状況にならぬよう、後継のチームを作っていくことに力を入れていきたいです。この10年は、病院として、医者としての信用を築くための期間でした。ありがたいことに周りの方々のスタンスも変わってきた今、ここでサボったら次は無い。だからこそ今出来ることに一生懸命に取り組んでいきます。
2015.09.28