人とは違う花を咲かせたい。身体が動く限り、妥協なきダリア農家として。

【株式会社パークコーポレーション・福島県塙町提供:another life. × 地域 町民全員で花を咲かせる「ダリアの町」福島県塙町特集】福島県塙町にて、ダリアの生産を行う農家の石井さん。服飾業界での仕事や出産結婚を経て、40代で出会った農業という選択肢。農家として生活していく厳しさを感じながらも、「人とは違う花を咲かせたい」と情熱的に語る背景には、どのような思いがあるのでしょうか?お話を伺いました。

石井 とし子

いしい としこ|福島県塙町のダリア農家
福島県塙町にて、ダリアの生産等を行う。

※この特集は、株式会社パークコーポレーション・福島県塙町の提供でお届けしました。

青山フラワーマーケットと姉妹ブランドでは9月22 日~ 10月25日(順次展開)まで「ダリアフェアを開催中」
詳細は青山フラワーマーケットホームページより

「はなわのダリアフェア」は青山フラワーマーケットの空間デザイン事業「parkERs」のプロデュース。
「parkERs」のホームページはこちら

結婚・出産を経て27歳で見つけた、自分だからできる仕事


私は福島県塙町に生まれ、小中学校は地元の学校に通い、高校からは埼玉県に引っ越し現地の学校に通い始めました。あまり裕福でなかったこともあり、普段の生活で精一杯、将来の夢などを考える余裕はありませんでしたね。

それでも、一緒に暮らしていた祖母から和裁を習ったほうがいいと薦められ、高校卒業後は、祖母の知り合いが経営する呉服屋を紹介してもらい、そこで働くことに決めました。着物に関わる一連の知識を覚えられることは大事だという話で薦められたのですが、明治生まれの男勝りの祖母が言うならば間違えないという思いもあり、言うことを聞いて就職を決めました。気持ちを裏切れない面もあり、自分の意志はあまりありませんでしたね。

しかし、実際に働いてみると仕事は非常に楽しいものでした。高級品を扱う店だったこともあり、自分と比べて非常に裕福なお客さんと接する機会も多く、「自分には知らない世界がたくさんあるんだな」と感じましたね。着物の展示会で迷い無く買っていくお客さんを見て驚く毎日を過ごしました。

また、接客業務を通じて、客商売の面白さにも気づいていきました。元々、大人しい性格で陰に隠れて目立ちたくないタイプだったのが、仕事でお客さんと接することで、人と前向きにコミュニケーションを取れるようになっていったんです。

その後、一つの区切りと考えていた3年間働いてからは、同じく福島県塙町出身の相手と結婚し、2人の子どもに恵まれ主婦業を営むようになりました。

ところが、しばらくそんな生活を続けていると、ずっとこのままでは良くないと感じるようになったんです。子どもとだけ接する日々に、世間から疎外されている感覚を抱くようになり、「このまま歳をとってもいいのかな」という危機感がありました。

そこで、仕事を探し始めると、託児所付きで働ける紳士服を扱う企業を見つけたんです。求人の募集は無かったのですが、飛び込みで働かせてくださいと頼み込み、こんな強引な人初めてだと言われたものの、なんとか働かせてもらえることに決まりました。

27歳からの職場復帰は、お客さんの背広の修理のため、型をとって裁断するパタンナーの仕事だったのですが、和裁の仕事をやっていた分、細かい仕事は得意でしたね。客商売とは違った神経を使う面はありつつも、他の人にはできない仕事だったこともあり、仕事に対して評価をいただけることで自信もついていきました。人に負けたくないという思いが強い性格だったので、非常にやりがいのある環境でした。

46歳、ダリア農家としてのスタート


ところが、仕事を続け42歳を迎えると、夫の両親が体調を崩したことをキッカケに家族で福島の塙町に戻ることになりました。再び塙町で暮らし始めてからは、知り合いに声をかけていただき、新しくオープンした道の駅で働くことにしました。主人の実家は農家だったのですが、私自身初めて農業の現場を見たこともあり、最初は「こんなに働くんだ」という驚きがありましたね。

その後、勤務先で異動があり、「湯遊ランドはなわ」という宿泊・レジャー施設のフロントで働くことになりました。再び接客業に戻ったことで楽しさは感じつつも、正直何か物足りないという感覚もありました。紳士服の仕事を通じてものを作るやりがいを知ってしまったことで、何も残らないことに違和感を感じるようになってしまったんです。

そこで、次第に自分で何かやってみようと考えるようになっていきました。とはいえ、洋服作りを商売として福島で行うのは難しい、何をすべきか考える日々が続きました。

そんな時、埼玉にすんでいた頃からガーデニングを趣味で行っており、人に見せて喜んでいたことから、お花を育てたいという思いを抱くようになったんです。いずれ親が歳をとることを考えても、家で出来る農業はちょうどいいのではないかという思いもありました。過去に親が怪我をしたものの、仕事を休めず対応ができなかったこともあったので、そういった面も含め、農業はいいのではないかと考えたんです。

すると、たまたまそんなタイミングで、町役場の方からダリアの試験栽培をしてみないかという話をいただいたんです。ちょうどいいタイミングだと思い、46歳のタイミングでダリア農家として、農業のスタートを切りました。

農業の厳しさと3年目の挫折


ところが、ダリア栽培を初めた初年度は1本も花を咲かすことが出来なかったんです。やはり、趣味のガーデニングと生活の糧である「農業」は全く異なりました。

特に、自分だけではどうにもならないことがあることを痛感しましたね。天候は言うことを聞いてくれないし、路地で作っているので、風も吹けば虫も来ます。時には仕事が間に合わず、頭に電気をつけて夜10時頃まで仕事をすることもあり、中々うまくいかない日々が続きました。

しかし、そんな調子で3年が過ぎると、一緒に生産を行っていた農家の方が、1年目に素晴らしい花を咲かせたんです。私は3年もやっているのに、成果には大きな差があり、すごく悔しく感じ、なんだか恥ずかしくなってしまいました。「なんで抜かれてしまったんだろう?」と自問を繰り返しました。

正直、最初は自分の土地の性質のせいにして、自らを顧みることをしていませんでした。毎年同じことをして同じ失敗をして、進歩が無い状態。特に教えられたことは守るものの、応用がきかないような状況だったんです。

それに対して、その農家の方は、「塙町一番のダリア作りになる」という目標を掲げており、その言葉が私の頭にこびりついて離れませんでした。私はそんなことを考えたこともなく、仕事だから育てるというような考え方だったんです。だからこそ、天気が悪かったら諦めてしまい、成果も出ていませんでした。

その人の育て方を見ているとやはり私とは全く違ったんですよね。自分の中で考え方に大きな変化が起こりました。

人とは違う花を咲かせたい


それからは積極的に他の人の畑を見て回るようになり、その素晴らしい花を咲かせた農家の方からも生産方法について教わるようになりました。それまでは聞く耳を持たなかったのが、段々と変わっていったんです。

根底にあったのは、負けたくないという思いでした。最初に始めたのに、こんな結果のままリタイアしたくないし、他の生産者の人が辞めるまで続けたいという意地もありました。それが原動力になり、自分を鍛え直そうと真剣に考えるようになったんです。

昔からの信条で、継続は力なりということを大切にしてきました。だからこそ、続けることに重きを置きつつ、農業への姿勢も変わっていきました。

現在は路地での栽培だけでなく、農地にビニールハウスも作り、以前より確実に良いものができるようになってきました。それでも毎年勉強で、満足することはありません。質に対して妥協を許さない自分ができたことで、厳しい姿勢でダリアと向き合っています。

正直、いつまで身体が動くのかという怖さはあります。でも、農業を続けられる限りは辞められないという思いがあるんです。

人とは違う花を咲かせたいんですよね。その負けず嫌いな気持ちを、自分が誰よりも一番強く持っていたいんです。それが、頑張れる理由なので、何かのせいにせず、自分だけの花を追求していきたいです。

2015.09.18

ライフストーリーをさがす
fbtw

お気に入りを利用するにはログインしてください

another life.にログイン(無料)すると、お気に入りの記事を保存して、マイページからいつでも見ることができます。

※携帯電話キャリアのアドレスの場合メールが届かない場合がございます

感想メッセージはanother life.編集部で確認いたします。掲載者の方に内容をお伝えする場合もございます。誹謗中傷や営業、勧誘、個人への問い合わせ等はお送りいたしませんのでご了承ください。また、返信をお約束するものでもございません。

共感や応援の気持ちをSNSでシェアしませんか?