人をハッピーにするハンドボールを!目の前の人に懸ける想い。

ハンドボールの選手として、ハンガリーのプロリーグでプレーする銘苅さん。目の前の人をハッピーにしたいと考え指導者を目指す中、海外に出て改めて感じた、日本で必要なこととは?お話を伺いました。

銘苅 淳

めかる あつし|ハンドボール選手
ハンドボールのプロ選手として、ハンガリーの二部リーグでプレーする。また、日本各地での講習会や、動画配信など、育成にも力を入れる。

求められていると感じたハンドボール部への転部


僕は沖縄県浦添市で生まれました。生まれた時から4160グラムと体格に恵まれ、4月生まれだったことも幸いし、小さな頃から同じ学年の中では、運動も勉強もできる方でした。

小学生の時に野球を始め、中学校でも野球部に入りました。バレーボールに興味があったのですが、バレーボール部はあまり強くなく、先輩が結果を出していた野球部の方が、しっかりとプレーできると思ったのです。

ただ、2年目になると、野球部の空気も少しだらけてしまっていました。そんな時、ハンドボール部の顧問の先生に、練習に誘われることがありました。雨の日に「ちょっと練習に行こう」と体育館に連れ去られ、見学することになったんです。

その顧問の先生はハンドボールの国体選手で、実業団でプレーしていた旦那さんもコーチとして部活に来ていました。ハンドボール部は僕が入学する年に新設されたのですが、そのふたりのおかげで、県大会でも上位に食い込むような勢いのある部活でした。

また、顧問の先生はどんなチームにしたいかとビジョンを熱く語ってくれて、「お前がいたら全国大会に出られる」とも言ってくれました。その先生の魅力に惹かれたし、自分が求められていると実感もできたので、転部を決意しました。

ハンドボールのことなんて何も分からなかったので、初めは先輩に怒られてばかりでしたね。それでも、とにかくがむしゃらに練習していくと、半年ほどで県の選抜選手に選んでもらえたんです。初心者で、しかも3年生を差し置いて2年生の僕が選ばれるのは異例のことで、周りからは良く思われないこともありました。それでも、自分の強みを活かした役割を見出すことができていたんです。

ハンドボールを人生の軸として考える


3年生の時には、学校のチームでは全国大会で3位になり、県の選抜チームでは全国大会で優勝することができました。さらに、全国で3人しかいないオリンピック有望候補選手にも選ばれました。

ハンドボールを始めて2年足らずだったので、正直どこの実業団チームが強いかも分からないし、選手の名前も一人も言えないような状況でしたが、さすがにこの期待を背負って辞めるわけにはいかないと思い、ハンドボールを軸に人生を考えるようになりました。

そして、先生の勧めもあり、筑波大学でハンドボールをプレーすることを念頭に置き、高校も「筑波大学に行ける学校」という観点で進学しました。そのため、部活が忙しい中でも、勉強も疎かにはせず、図書室で後輩に教えるほどでしたね。

また、将来は教師になりたいと考えていました。父が教師だったこともあり、学校の先生としてハンドボールの指導を続けられたらと思っていたのです。

ただ、教師は素晴らしい仕事だと思いつつも、学校の中の世界に縛られてしまうことに、もったいなさも感じていました。特に、地元沖縄で教師になってしまうと、中心地に行くのも難しくなってしまいます。そこで、教師だけではなく、別のかたちでハンドボールと関わることも考え始めるようになりました。

もちろん、そのためには選手として自分が高いレベルで競技した経験がなくてはと思い、日々の練習を行っていました。様々な機会にも恵まれ、インターハイに出場したり、年代別の日本代表に選ばれたりもしました。

ただ、自分の意見を主張する性格なので、周りと揉めてしまうこともありました。想いを届けられなかったり、自分の考え方を否定された時など、腐っていた時期もあります。それでも、自分のことを真剣に考えてくれる人との出会いなどで、また自分を奮い立たせてもらっていました。

チームに良い影響を与えるプレー


高校卒業後は、目標通り筑波大学に進むことができました。高校1年生の時、全国大会の応援席で話した人がたまたま筑波大学の女子ハンドボール部の監督で、そこから名前を覚えてもらえたりと、運もありました。

大学では毎日の練習に加えて、アルバイトもしていました。沖縄にいる恩師や家族を、函館で開かれる全日本学生選手権に招待したかったんです。その強い想いがあったので、大変なことがあっても乗り越えられました。

個人的に毎日朝練をすること決めていましたが、冬の朝はやっぱり寒いし、グラウンドが凍りついてしまっていて、大変だと感じる時もあります。ただ、「自分で決めた目標すら守れないなら、人間やめてしまえ」と思っていたので、負けるわけにはいかないんです。常に自分が決めた目標との戦いでした。

4年生の時には、朝練して、ビデオを見て、ウエイトをして、昼寝をして、夕方の全体トレーニングに備えてと、自由な時間を全てハンドボールに使えるプロのような生活を送っていました。そして、大学時代には二度の全日本学生選手権の優勝や、個人で優秀選手としての表彰など、結果も残すことができました。

ただ、費やした練習量に対して、僕はそこまでの選手ではありませんでした。もっとポテンシャルのある選手は周りにたくさんいたんです。そのため、卒業後は日本リーグからのオファーも来ないと思っていて、指導者として専門的に学ぶため海外へ行こうかと思っていました。

しかし、トヨタ車体の監督から、「お前しかいない」とチームに誘ってもらうことができたんです。試合中、得点を決めた後にガッツポーズをしながらニコニコ戻ってくる選手は他にはあまりいなくて、その姿がチームに良い影響を与えると言ってくれたんです。そこで、大学卒業はトヨタ車体に入社し、日本リーグでプレーすることになりました。

海外への挑戦を決める


社会人のチームでは、学生時代よりも選手の年齢の幅が広く、視野を広げてもらうことができました。それまでは、自分のトレーニングにばかり目が向いていたのですが、チームとしてどうあるべきかと考えられるようになり、自分の中でハンドボールも整理されていったんです。また、指導者になることは念頭に置き続けていたので、各地で子ども向けの講習会を開催したり、大学院に通って教育学修士を目指すようにもなりました。

ところが、3年目になり、僕を呼んでくれた監督とは別の監督がチームを主導するようになってからは、試合に全く出られなくなってしまいました。ベンチにすら入れませんでした。それでも試合前にコートに出てレギュラーと一緒に練習すると、ワークショップで出会った子どもたちが、「銘苅選手頑張って!」と大きな声で応援してくれるので、一層惨めな気持ちでしたね。

そんな状況を打開するため、海外に挑戦することに決めました。ハンドボールを始めた時に、「海外では君は小さい方だよ」と言われたことがあり、それ以来「いつか海外に行くだろう」とは常に思っていました。そして、「海外で挑戦する」というより高い目標を設定することで、目の前でどんなに大変な状況でも「こんなのは乗り越えられてあたりまえ」と思うようにマインドセットし直したんです。

海外では、お金をもらえなくてもいいので、指導者の勉強をさせてもらおうと思っていました。しかし、ハンガリーから日本に来ていた友人に、「プロ選手として活躍できる」と後押ししてもらうことができ、2012年7月より、その友人の紹介でハンガリーの一部リーグでプロ選手としてプレーできることになりました。

ハンガリーの選手は自分より身体が大きい人ばかりで、これまで得意としていたステップシュートは全く通じませんでした。しかし、日本ではそこまで得意としていなかったフェイントが、逆にハンガリーでは通用するんです。日本とは全く違う考え方を学ぶことができましたね。

そして、最初のチームが3ヶ月で破綻してしまうなど、ハプニングだらけではありましたが、3シーズン目には、ついに一部リーグの得点王になることができました。

目の前の人をハッピーにするために


2015年9月のシーズンからは、ハンガリー二部のチームに移籍してプレーすることにしました。毎年チームからは残留のオファーをもらっているのですが、色々な指導者の元でプレーしたいと考えているので、単年契約でチームを移動することにしています。

いくつかの一部チームからオファーをもらっていたのですが、コーチのライセンスを取りつつ、ジュニアチームのコーチもさせてもらえるという話があったので、二部のチームへの移籍を決めたんです。選手に専念していたのとはまた違った視点でハンドボールを学べるので楽しみですね。

ハンガリーでプレーすることで、日本のハンドボールの良い部分も悪い部分も見えるようになってきました。その中で、決定的に日本に足りていないものは、指導者の認識。ハンガリーでは監督と選手に主従関係はあるのですが、それでも同じチームの仲間であり、お互いをリスペクトしています。その間隔は、日本では薄いと感じる部分です。

実際、監督の存在によって、ハンドボールを純粋に楽しめていない人もたくさんいます。指導をする時、技術的なことを言語化することができず、ただ選手を批判することになってしまうのも少なくないんです。

そのため、僕は少なくとも自分の目の前に現れた人には全力でより良いものを提供して、ハンドボールを通してハッピーライフを提供していくことを目指しています。講習会も可能な限り開いています。

ハンドボール自体の認知を広めていくためにも、まずは日本に10万人いると言われているハンドボールプレイヤーがハッピーになることが大事だと考えています。選手がハッピーでなければ、見ている人だって同じで、誰のためにもならないんです。

現在は、選手としてより高いレベルでプレーしつつ、様々な指導者から学んでいきたいと思っています。将来は、「修造チャレンジ」みたいな選手養成を行おうと考えていたのですが、色々な人と出会う中で別の方法もあるかもしれないと、今は様々な選択肢を模索しているところです。

僕は、ハンドボールによって様々なことを学ばせてもらったし、素晴らしい出会いを得ることができました。そこで出会った人とは、人間と人間のお付き合いをさせてもらっているので、ハンドボールがなくなっても僕は生きていくことができると考えています。そういう意味でも、「ハンドボールを教えてほしい」ではなく、「銘苅に会わせてあげたい」と言ってもらえることは、この上なく嬉しいですね。

そして、これからも目の前の人にハッピーになってもらって、それを見て僕自身もハッピーに生きていきたいです。

2015.08.27

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