生きている時間を楽しく使いたい!途上国のために働く、国際協力のプロとして。

JICAの職員として、途上国のために働く加納さん。幼い頃より「冒険」に憧れつつも、一歩を踏み出せない少年時代を過ごしていました。そんな加納さんが海外に出るには、どんなきっかけがあったのか。お話を伺いました。

加納 大道

かのう ひろみち|途上国の支援
JICAの職員として、主にASEAN諸国へ事業展開するための企画等を行う。
【8月25日(火)イベント登壇!@二子玉川 蔦屋家電】日本と世界をつなぐ挑戦者たち!

生きている間にもっと楽しいことを


私は東京で生まれ育ちました。父は、駐在こそないものの、海外出張に頻繁に行っていたので、その姿を見て何となく海外に関心を持っていました。そして、テレビ番組の『グレートジャーニー』を見たり、書籍の『深夜特急』を読んだりして、旅や冒険に憧れを持つようになっていきました。

高校1年生で社会科見学先を選ぶ時も、海外青年協力隊の訓練所で話を聞くことにしました。普段の生活では見聞きしない国での生活や仕事の話は、刺激的でしたね。

その冬に、北海道最北端の宗谷岬まで、ひとり旅をしました。電車を乗り継ぎ目的地までひとりで行くのは、私の中ではちょっとした冒険でした。

ただ、冒険家のように、破天荒な生き方に憧れつつも、それを抑えつける一面もありました。中学受験をして進学校に通っていて、勉強を優先するのが当然だと思っていたんです。

そんな高校2年生の秋、サッカーの練習中に大怪我をしてしまいました。おでこや鼻を粉砕骨折、数ミリずれていたら視神経を傷つけ、失明するところでした。怪我の直後はおでこが腫れ上がってしまい、しばらく目も見えませんでした。

ただ、手術が終わり、家族の声が聞こえたり、祖母に手を握ってもらったりしたことで、「生きているんだ」と実感を持つことができたんです。

その後、サッカー部の練習に復帰できるまでには3ヶ月ほどかかりました。しばらくは勉強もままならなかったので、怪我の後に受けた期末試験はかなり悲惨な結果でした。

それでも、落ち込むというよりも、「生きていて良かった」という想いが強くありました。そして、勉強だけでなく、生きている間にもっと楽しいことをしたいと考えるようになったんです。

違う価値観の中で生きるとは


高校卒業後は、理系で地質学を学ぶ大学に進みました。そして、強豪サッカーサークルに入りつつ、長期休みやサッカーのオフシーズンには海外へ旅に出るようになりました。

初めての海外は、大学2年生の夏休みに友人とふたりで行ったアメリカ横断旅行でした。ロサンゼルスでレンタカーを借りてニューヨークを目指すんです。

英語はあまり喋れなかったので、なるべく人と話したくなかったし、できるだけ節約しようと思っていたので、車の中で寝泊まりしていました。スーパーで肉とバーナーを買い、駐車場で焼いていると「暗いだろ」と言って、ライトで照らしてくれるトラック運転手など、暖い人との出会いが多かったですね。

ただ、ルート66沿いの南部のアルバカーキという街では、ガソリンスタンドで車を当て逃げされてしまいました。アメリカでも特に治安が悪いとされるその街では日常的に起こることだったのでしょうが、恐怖心や怒りが湧きましたね。

しかし、その気持ちをどう表現していいか分からず、「違う価値観の国で生きるとは、こういうことなのか」と感じました。

その後、1ヶ月ほどでニューヨークに着き、そこから飛行機でチリまで飛び、今度はバスなどを使ってペルーやボリビア、アルゼンチンの最南端のウシュアイアに行きました。ボリビアとペルーの国境の街コパカバーナで見た、青くて綺麗な空は衝撃的でしたね。

2ヶ月ほどの旅を通じて、人も、土地の雰囲気も、文化も、今まで見たことも感じたこともない価値観に触れることは、心から楽しく、もっと旅に出たいと思うようになりました。

途上国で感じた日本との繋がり


翌年には、タイとカンボジアへひとり旅に出ました。せっかくだから面白い旅をしようと、バンコクからアンコールワットまで自転車で行くことに。

ただ、タイはバイク文化の国なのであまり自転車は売っていないし、買えた自転車も品質が悪く、道すがら現地の人に助けてもらいながら進みましたが、国境に行くまでに壊れてしまいました。

そのため、カンボジアに入ってからはピックアップトラックに乗り、シェムリアップまで行きました。その道中の田舎の町並みは、まるで歴史の教科書で見た弥生時代の高床式の家のような景色で驚きました。また、乗り合わせた地元の人は、支援品と思われる日本語の書かれたTシャツを着ていて、日本との繋がりを感じることができましたね。

その後、日本の旅人と意気投合して、バンコクまでの帰り道は、ふたりでヒッチハイクで行くことにしました。初めてのヒッチハイクでしたが、人は優しいに違いないと、妙な自信もあったんです。

そうやって旅する生活を送りつつも、サッカーの練習や学校での勉強も真面目に取り組んでいました。サークルは、一時期は旅で休みましたが、3年生からはまた力を入れていました。1軍には程遠い実力でしたが、それでも楽しかったですね。

また、理系は学部で卒業しても、勉強したとは言い難いと感じていたので、大学院に進学することに決めました。「断層」の研究をするなかで、フィールドワークに出て地図を持ちながら実際に山を歩いて調査し、岩を採取したり、研究室で分析して新たな仮説を立てたりと、面白かったですね。

豊かな日本より困っている途上国のために働きたい


研究も好きでしたが、社会に出たいとは思っていたので、大学院卒業後は就職しようと考えていました。

特に、途上国のための仕事や、国際協力の仕事を志望していました。様々な国を旅すると日本の豊かさを実感するようになり、むしろ「日本はこれ以上何を求めるのかな?」と疑問に感じていました。そのため、長い時間費やす仕事では、豊かな日本ではなく、困っている途上国のために働きたいと思ったんです。

だだ、日本と途上国を繋げたい気持ちもありました。旅をしていると、日本の車やバイクをいたるところで見かけるし、日本のアニメを知っているのか、「あちょー」とか言って日本語で声をかけられることもあって、日本との繋がりを大切にしたいと思っていたんです。

さらに、インドでの経験から、自分の目指す「国際協力」の形をイメージするようになりました。バルカラという南部の町に数日滞在した時、宿の前にあった商店が火事で全焼してしまうことがありました。すると、欧米人がそのお店のオーナーのために寄付を集め始めました。

その時に、強烈な違和感を感じてしまったんです。はたして、火事で全てを失ってしまった人を助けるのに、お金を渡すことが最適なのかと。

もしかしたら、必要なのは、商品の仕入れやお店を建て直す手伝いや、衣服を提供すること、もしくは子どもの教育の面倒を見てあげることかもしれない。保険が必要なのかもしれない。その人の状況を複合的に考えて、どういう順番で、何を手助けできるかが大事なのではないかと感じたんです。

国際協力も同じで、それを考えられる「国際協力のプロフェッショナル」になりたいと思うようになり、仕事を通じて答えを見つけられるかもしれないと感じたJICAに就職を決めました。

国際協力のプロフェッショナル


1年目の夏からは、海外のオフィスで研修がありました。私は今まで行ったことがないアフリカに希望を出し、ウガンダに行くことになりました。8ヶ月ほど現場での経験を積ませてもらい、その後はアジア・大洋州地域で廃棄物管理、下水・土壌汚染等のプロジェクトへ参加したり、総務部で組織運営の仕事をしました。

その後、2011年から2年ほどサモアに駐在し、大洋州のゴミ問題を改善するプロジェクトに取り組みました。さらに、会社の制度を使ってイギリスの大学院で1年ほど環境政策を勉強した後、現在は東京の本部で、主にASEAN諸国へ事業展開するための企画等を行っています。

また、会社のサッカー部に所属していることがきっかけで、今まで携わってきた地球環境問題とは少し毛色の違う、スポーツを通じた国際貢献などにも携わっています。2010年の南アフリカW杯の時には、サッカーを通じてアフリカを知ってもらう体験型のイベントを企画し、多くの集客を得ました。

最近では、政府主導で途上国のスポーツ分野発展事業「スポーツ・フォー・トゥモロー」が始まり、JICAも一緒に動いているのですが、カンボジアではハート・オブ・ゴールドというNPOや青年海外協力隊が「体育」の普及をしています。日本のように体系的な体育の授業はまだ一般的ではないので、カリキュラム作成や各学校でのワークショップを通じて広めようとしています。

そのカンボジアで、2015年9月、サッカーを通じてカンボジアに貢献をしてきた学生団体「WorldFut」、アルビレックス新潟プノンペン、ソニーがスマオン村という所で、現地の子どもたちのために、サッカーW杯2次予選日本対カンボジア戦のパブリックビューイングイベントを企画しており、JICAも事業連携を予定しています。電化率が非常に低く、TVで普段は中々見られない試合を見てもらうことで、サッカー選手を目指す子どもが夢を実現するきっかけを掴んでもらえたらと思っています。

JICAは国の機関なのでお固い調整仕事も多いですし、企業でマネージャーとして、また起業して活躍している同級生や友人を見て焦る気持ちもありますが、今の仕事でしか得られないやりがいや面白さを感じています。

現地の人と一緒に働くことで、その人たちが自国を良くしていくためにとイニシアチブを取って仕事を始める時など、人が変わっていく瞬間が嬉しいんです。動くお金の規模ではなく、人との触れ合いがやりがいですね。

私たちの仕事は、JICAのスタッフだけでなく、常に現地の人や国、日本のNPOや企業などと一緒にプロジェクトを行っていきます。そのため、私自身、経験を積んだゴミ問題の領域を強みにしたいとは思いますが、それだけの専門家になりたいわけではありません。

どうしたらその国が抱える問題を解決できるか、プロデュース・コーディネートするのが私たちの役目だと考えています。それが、国際協力のプロフェッショナルだと。これからも途上国のための仕事をしていきます。

2015.08.22

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