レールの上でなく、自分で決めた道を進む!僕が未経験のアパレル業界で起業した理由。

ニューヨークにてアパレルショップ「Rugged Road」を経営する柿澤さん。幼い頃から海外で過ごし、大学もアメリカに進学をするものの、卒業後は日本企業に就職が決まっていました。そんな柿澤さんが就職を辞め、起業することを決めた友人からの一言とは?お話を伺いました。

柿澤 洋介

かきざわ ようすけ|アパレル企業の経営
ニューヨークにてアパレルショップ「Rugged Road」を経営する。
【クラウドファンディングに挑戦中】ニューヨーク、ブルックリン発[Rugged Road] 日米で路面店を出店するための一歩を踏み出す!

物心ついた時からサッカー選手を目指す


東京で生まれましたが、父の仕事の都合で1歳の頃からイギリスのロンドンに住んでいました。父は駐在員として働くかたわらサッカーコーチをしていたので、僕も物心つく頃にはサッカーをしていましたね。

イギリスでは現地の学校に通っていたのですが、日本語が少し怪しくなてきたこともあり、7歳の時に日本に帰って来ました。10歳まで日本で過ごし、今度はドイツのデュッセルドルフに渡り、日本人学校に通い始めたんです。

サッカーも本格的に始め、プロ選手を目指すようになりました。ドイツ語は喋れなかったので、日常生活やサッカーでも周りとコミュニケーションを取るために、相手を笑わせたり楽しませたりすることを意識するようになっていきましたね。

5年ほどドイツで過ごし、高校生になる時には日本に戻ってきて、サッカーの強豪である帝京高校に進みました。それまでは、プロ選手になることを疑っていませんでした。しかし、強豪サッカー部だけあって、学年にひとりは年代別の日本代表選手もいて、自分よりうまい人ばかり。この時、初めて壁にぶち当たり、プロ選手になるのは難しいかもしれないと思うようになっていました。

それでも、まだチャンスはあったので、諦めずに努力を続けていました。ただ、練習は毎日厳しく、朝10キロ走り、昼も10キロ走るような生活。次第に、大きな目標を見つめるよりも、「毎日の練習を終えること」が目標になっていきました。

そんな状況だったので、トップチームとして試合に出ることは一度しかありませんでした。Bチームのキャプテンを務めていたので、努力が報われている感覚はありましたが、3年生で引退する時、これまで追いかけ続けてきたサッカー選手への夢を諦めることにしたんです。

英語で学ぶ環境を求めて留学を決める


高校卒業後は大学へ進学しようと考えていました。しかし、大学生の人に話を聞いても、みんな大学の勉強より、サークルなど周辺活動に力を入れている人ばかりでした。その姿を見ていると、お金を払ってまで大学に行く意味はないのではと感じるようになりました。僕自身が流されやすいこともあり、違う環境に行こうと考えました。

また、サッカーに区切りがついたといっても、他にやりたいことはありませんでした。視野を広げてやりたいことを見つけるため、大学前半の2年間は教養課程として様々なことを学べる、アメリカの大学に進学することにしたんです。

ただ、英語をネイティブレベルに使えるわけではななかったこともあり、まずはアメリカの大学の日本キャンパスに進学することにしました。アメリカの大学の授業を日本で受け、英語の力を蓄えつつ、3年生からはアメリカに行くコースでした。1年もすると「もう大丈夫だろう」と感じたので、ロサンゼルスのコミュニティカレッジに移ることにしました。しかし、ロサンゼルスには日本人が多くいて、学校でも日本人の友達が増えてしまったんです。気づけば日本語ばかり話している状態で、「英語を話せる環境に行かなくては」と焦りましたね。

そこで、日本人が少ない大学はどこか調べると、ウィスコンシン州立大学は、98%が白人、1%が黒人、1%がその他であることが分かりました。ここならほとんど日本人はいないだろうと考え、大学3年から編入することにしました。

友達と話して気づいたレールに縛られていた自分


大学では、マーケティングと広告の2つの専門科目を学んでいました。父が関わっていた物流の仕事や、テレビ業界に興味があったんです。また、勉強の他には部活でサッカーをしたり、クラブでDJをしたりして過ごしていましたね。

卒業後は日本で就職しようと考えていました。海外に住むのが長くなればなるほど日本について調べることも増え、日本の魅力に惹かれていたんです。また、英語が喋れるといっても、やはり日本語でのコミュニケーションの方が楽だったこともあります。

夏休みの間に帰国してインターンシップに行ったり、遠隔で面接をしてもらうことで、物流企業への就職が決まりました。その報告も踏まえて、日本キャンパス時代の同級生で、ニューヨークの大学に通っていた友達に連絡をすることがありました。お互いひとりでアメリカの大学に来ている身として、何かあれば連絡して相談をする仲でした。

しかし、日本での就職が決まったことを伝えると、驚いた彼に「それが本当にやりたいことなのか」と聞かれてしまったんです。僕は昔から、「DJでプロになる」などと大口をたたいていたので、一層驚かれたんだと思います。そして「もしプロサッカー選手になれるとしても今の仕事を選ぶのか?」と聞かれました。答えは当然ノーでした。その時、僕はその就職先での仕事がやりたいことだと勘違いしていたことに気づいたんです。

何をするかではなく、誰とするか


彼に一緒に起業しないかと誘われました。元々、彼はファッションのセンスが素晴らしく、僕が彼にファッション関係で起業した方がいいと勧めていたんです。そんな彼に、「やりたい仕事」はこれからも変わるかもしれないんだから、「一緒に働きたい人」と働いたほうがいいと言われたんです。

そう誘われて、「どうやって断ろう」と思ったのが正直なところでした。しかし、断る理由が見当たらなかったんです。

僕の家はサラリーマン家系だったので、起業とは無縁の世界でした。ただ、彼は歴史の教科書にも出てくる「田沼意次」の子孫で、彼自身も言ったことは何でも実現する人間。また、僕自身、彼のセンスを誰よりも信じていました。そこで、一緒にやれば面白いことができるだろうと考え、内定を辞退して、ふたりで会社を立ち上げることにしたんです。

僕たちはふたりとも日本が大好きなので、日本に戻りたいとは考えていました。ただ、これまで服飾を専門で学んだわけでもない僕たちが日本でアパレル企業を経営しても、成功するはずもありません。そこで、まずはアメリカで成功して、実績を持って日本に戻ることにしました。

服に関して学ぶために、ヴィンテージ服の販売から始めました。専門的なことを学んだことがない僕らには、これまでどんなものが良いとされてきたのか学ぶことがスタートだったんです。

そして、2014年5月に大学を卒業してからアメリカ中を回って価値のあるヴィンテージ服を集め、12月にニューヨークのウィリアムズバーグにてお店を出しました。

自分で決められるから楽しい


今は、ヴィンテージ服を販売しつつ、相方がデザインしたオリジナルグッズなども販売しています。将来的には服もオリジナルブランドにしていきたいので、服を作れるメンバーも雇いたいですね。

僕の役割は、相方がデザインに集中できるように、その他の仕事をすることだと考えています。元々はファッションに興味はありませんでしたが、知れば知るほどその面白さにのめり込んでいます。壁にぶつかることも多くありますが、その度に先に進める実感を持てるんです。

また、「やりたいことをする環境」を持てているので、起業して心から良かったと感じています。自分で考えたアイディアをすぐに実行に移すことができる「決定権」があるのが良いのだと思います。起業する前は難しいと思っていたことも、やってみればできることばかりで、人としても成長できる実感がありますね。

僕たちは日本に帰っても普通に就職できるとは思っていないので、絶対に成功しなくてはと考えています。そして、5年以内には日本に進出できるように事業を進めていけたらと思います。

個人的には他店舗展開する大きな企業となり、誰もが知っているファッションブランドを作りたいですね。また、ファッショにはずっと関わりつつも、さらには飲食店やクラブの経営にも興味があります。

これからも、誰かに決められた道を歩くのではなく、自分で決めて前に進み、人生を本気で楽しんでいきたいですね。

2015.08.19

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