あと10年、現場で花火の可能性を追求したい。29歳の転機、挑戦を続けると決めた人生。
花火大会やテーマパーク・著名アーティストのコンサート等、様々なエンターテインメントの場で、音楽やコンピューターを掛け合わせた花火の企画・演出を行う小勝さん。自らの方向性を摸索し続けた学生・サラリーマン時代を経て訪れた29歳の転機。「あと10年は現場で花火の新たな可能性を追いかけたい」と話す背景には、どのような思いがあるのか?お話を伺いました。
小勝 敏克
おがつ としかつ|花火エンターテイメントショーの制作
花火大会やテーマパーク・著名アーティストのコンサート等、様々なエンターテインメントの場で、音楽やコンピューターを掛け合わせた花火の製造・企画・演出を行う花火エンターテイメントショーの制作会社、株式会社丸玉屋の代表取締役を務める。
※本チャンネルは、TBSテレビ「夢の扉+」の協力でお届けしました。
TBSテレビ「夢の扉+」で、小勝 敏克さんの活動に密着したドキュメンタリーが、
2015年8月16日(日)18時30分から放送されます。
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生き方に悩む中で手に入れた自信
私は東京都府中市に生まれました。私が生まれた時から実家は株式会社丸玉屋小勝煙火店という花火屋を営んでおり、父も叔父も煙火の製造販売に携わっていました。ただ、私自身は、自分の人生は自ら切り開きたいという気持ちがあり、家業を継ぐことは考えたことがありませんでした。しかし、その一方で、将来何をしたいかは明確ではなく、時間だけが過ぎていくような焦りもありました。高校の部活で打ち込んでいた卓球や、大学時代は文学にのめり込むなど、その都度熱中するものはありながらも、自分への自信を持つことができず、「お前は何者なんだ?」と自問自答を繰り返していましたね。多少、頭でっかちになっている面もありました。
その後、大学の卒業を控えると、なんとなくの関心でマスコミ業界を志望するも、高倍率で不合格に。結果的には就職案内の中で見つけたスペインの物産を扱う商社に入社することを決めました。真面目そうな会社で自分に合っているのではないかと考えたことに加え、うまくいったらスペインに行けるのではないかという思いもありましたね。
入社してからは営業の仕事に携わることになったのですが、あまり仕事はうまくいきませんでした。自分に自信が持てなかったこともあり、色々と思い悩む日々を過ごしていました。
しかし、ある時、通い詰めた取引先の方から、「お前はとても真面目だから、お前が良いというなら買うよ」という言葉をいただいたんです。決して安価な商材ではなかったのですが、だからこそ、営業マンである私を信頼して買っていただくことができ、「小勝 敏克」を買ってもらえたような感覚がありました。ああ、俺でも役に立つんだな、と嬉しかったですね。正直、毎日仕事に打ち込みながらも明確な目標はなく、そもそもスペインの物産を売る意味はどんなものなのだろう?と冷めた目で見ている節があったのですが、お客さんに信頼していただき、自分の価値を見つけられたことで、自信にもつながっていきました。
29歳、アメリカのバックパック旅行と家業を継ぐ決断
ただ、世渡りがあまり上手くないのは変わらずで、社内で中々評価を得られなかったこともあり、3年間働いた後、教材の訪問販売をするセールスの会社に入りました。しかし、夢に期待を膨らませて飛び込みながらも、新しい商材の営業には違和感を感じる面もありました。
すると、そんな風に仕事に悩んでいるタイミングで、会社に戻らないかという誘いを受けました。それ以前にも何度か誘われることはあったのですが、やはり自分の人生は自分で切り拓きたいという思いで断っていました。ただ、父もいい歳を迎えたとことに加え、私自身29歳になり、このまま目標もなく色々な会社を渡り歩くのでいいのかな?という危機感も感じていました。また、若い頃に会社の手伝いで花火を打ち上げた経験があり、やってみる価値はあると考えるようになっていきました。
そこで、3年働いた教材セールスの会社を退職し、考えの整理も含め、3ヶ月間アメリカにバックパック旅行をすることにしたんです。海外は面白そうだな、という単純な動機で、飛行機に乗ることも初めてでしたが、ベトナム戦争が終わった3年後のアメリカを周遊してみると、なんだかアメリカの懐の深さを感じましたね。生活や考え方が非常にリベラルで、先入観を持たずに接してもらえたことで、会話の機会も増えていき、飛び込む度胸や英語自体も少しずつ上達していきました。
父は株式会社丸玉屋小勝煙火店の副社長として働いていました。戻ってこいという言葉をもらいながらも、私自身分家の立場であるが故に、無意識に本家のことを考えて足踏みしている面がありました。しかし、異国を自分の足で周る中で、あまり細かなことにこだわることもないのかもな、と考えるようになったんです。帰国後は実家に戻り、丸玉屋小勝煙火店で働かせてもらうことに決めました。
エンターテインメントとしての花火の新しい可能性
実際に働き始めてからは営業担当として働くことに決まりました。それまでの経験から、「お前の売るものだったら買いたい」という言葉を言ってもらえるような営業担当に、という思いが常に頭にありましたね。加えて、自分にしかできないことは何かを考えた結果、直前までアメリカをぐるぐる回っていたこともあり、海外営業であれば物怖じせず飛び込める感覚がありました。
そこで、日本では夏が花火の消費のほとんどを占めていたため、11月から2月などの閑散期に欧米を周り、日本の花火を輸出して回ることにしました。それから世界中に輸出していましたが、特にアメリカは市場が大きく、同業他社十数社を回ることで、売上の65%が輸出を占めるようになっていきました。これは自分だからできる仕事だな、という納得感を持つことができましたね。
また、アメリカで取引があったあるテーマパークが、日本でも事業展開をすることになり、そこでも仕事をいただくことができました。元々、日本ではテーマパークの文化が受け入れられないのではないかという疑念も持たれていたのですが、そんな予想に反して急速に浸透していき、特にその中で花火が果たす役割は大きなものでした。「またこの空間に戻ってきたい」とお客さんに感じてもらうために、花火の演出は不可欠なもので、日本の伝統花火とは異なり、音楽と花火のパフォーマンスを融合した新しい形態の演出だったんです。そういった新しい演出に触れる中で、次第にエンターテイメントとしての花火にそれまで以上に大きな可能性を感じるようになっていきました。これは面白いな、という感覚がありましたね。
また、1985年にカナダのモントリオールで花火のコンペティションがあり、伝統花火の部門に参加し、優勝を収めることができました。そして、2・3日後に、フランス人が演出した音楽花火のショーが行われていたのを見学してみることにしました。そのショーは花火と音楽とナレーションで進む男女のラブストーリーだったのですが、フランス語で内容は分からないながらも、「花火はここまでできるんだ!」という衝撃がありました。新しいエンターテインメントを見て、カルチャーショックを受けたような感覚でした。
新たな時代の可能性を追求する挑戦
それからは、フジサンケイグループが主催する大江戸花火祭りというイベントで、音楽のライブと花火を合わせたショーに取り組んだり、『となりのトトロ』の映画のワンシーンを花火にしたり、新しい演出の可能性に挑戦していきました。その他にも、東京都や他の自治体が海外の自治体と結んでいる友好都市提携記念や姉妹都市記念、外務省の日本文化週間や国際花火競技会など、海外でのパフォーマンスの機会も増えていきました。
また、横浜・八景島シーパラダイスオープン翌年のクリスマスでは「花火ファンタジア」というイベントを企画し、コンピューターのプログラミングで花火の発射をコントロールする新しい試みを行いました。10分のショーに40時間コードを入力したり、誤操作で全てのデータが消えてしまったりと、コンピューターの黎明期であるが故の試行錯誤もありましたが、これは新しいビジネスになるという確信もありましたね。
1990年、伝統花火の追求から新しい花火の可能性を目指す方向に舵を切るため、父と一緒に株式会社丸玉屋として独立し、新しい機材や人を入れて新たな挑戦を始めました。基本はクライアントワークで、いかにお客さんが要望する花火を供給できるかを目指していくのですが、業界自体は非常に保守的なこともあり、自社のようなベンチャー企業は煙たがられることもありましたね。
それでも、2002年に初めて自前の工場を作り、土台を積み重ねていってからは次第に周りからの評価も変わっていきました。また、既に大きなテーマパークやテレビ番組の仕事をしているという信頼感もあり、テーマパークのカウントダウンイベントや、著名アーティストのライブ・コンサート、全国各地の花火大会で企画・演出の機会をいただくようになっていきました。
現在、日本全国の花火屋さんでも音楽と花火の掛け合わせは皆取り組むようになり、私たちが出会った頃のような新しさは段々となくなっています。だからこそ、新たな花火演出をやりたいという気持ちが強いですね。それが何なのかは摸索しているものの、一つはオリンピックを通じて、世界に日本の芸術花火のみならず、日本の花火演出技術を圧倒的なパフォーマンスで示したいという思いがあります。北京でもロンドンでも素晴らしいパフォーマンスをしているからこそ、「さすが日本だな」と言ってもらえるようなものを目指したいんです。まず、オリンピックに携わる機会をいただくまでにたくさんの壁がありますが、業界内外の連携を通じて、なんとか挑戦してみたいですね。
また、個人的には、あと10年は現場で頑張りたいという思いがあります。成功は一瞬で過ぎ去ります。同じところにはとどまりたくないんです。年齢を言い訳にはしたくないんですよ。世の中では、「もうその歳なんだから・・・」と言われることもありますが、まだまだ人生はこれからだという感覚があります。
様々な業界で革新的なイノベーションが生まれているのを見ていると、何故花火ではできないんだ?と思ってしまうんです。だから、負けたくない、新しい挑戦を続けたいというのが強烈な原動力です。火薬や爆発物を扱う特殊な業界のため、我々と一緒に花火の仕事をする人には安全を最優先に仕事への責任と覚悟を持ってもらいます。花火現場を最強のスタッフで担い、その上で、新たな花火の可能性を追求し、挑戦していきます。
2015.08.10