島根の田舎町を、世界中の希望に。ゴーストタウンで掲げた26歳の夢の軌跡。
世界遺産・石見銀山のある島根県大田市大森町という人口400人の町から、世界中で利用される医療用具の製造・販売を行う中村ブレイス代表の中村俊郎さん。高校を卒業後、義肢装具士として働きながら、単身での渡米経験を経て26歳で会社を創業。ゴーストタウンだった町から世界に価値を届けることを夢見て歩み続けた背景にある想いとは?お話を伺いました。
中村 俊郎
なかむら としろう|人工乳房等の医療用具の製造・販売
石見銀山のある島根県大田市にて、「人工乳房ビビファイ」などの医療用具の製造・販売を行う中村ブレイス株式会社の代表取締役社長を務める。
※本チャンネルは、TBSテレビ「夢の扉+」の協力でお届けしました。
TBSテレビ「夢の扉+」で、中村ブレイスの活動に密着したドキュメンタリーが、
2015年8月2日(日)18時30分から放送されます。
番組公式HPはこちら
番組公式Facebookはこちら
父からもらった2つの言葉
私は島根県大田市大森町という、石見銀山の麓にある小さな町に、5人兄弟の末っ子として生まれました。父は町役場で世話役を務めており、比較的羽振りの良い家庭だったのですが、農地解放で田畑を無くしてしまってからは次第に貧しくなっていき、少しずつ生活も変わっていきました。町自体も、石見銀山が銀の生産地として世界を席巻していた時と比べて活気が無くなり、人も減っている状態でした。
私が13歳になったある時、父から「マルコポーロを知っているか?」と声をかけられたことがありました。「世界的な銀山を誇った大森町と、マルコポーロを重ね合わせて考えると面白いかもしれない」と。端的な言葉で深くは語らなかったため、私の頭には「?」が浮かびました。ただ、同時に、廃れていく町に希望が湧いたような感覚があり、よく分からないながら、嬉しかったですね。家庭の状況的に大学への進学はできませんでしたが、漠然とですが、この町から世界に交わっていきたいと感じるようになったんです。
また、「俊郎、お前は実業家に向いている」と言われたこともありました。父は渋沢栄一氏を尊敬していたのですが、私は実業家と言われても何のことだろうと、こちらもよくわかりませんでした。ただ、父からもらった二つの言葉はずっと頭の片隅に残り続けていました。
その後、高校を卒業してからは、姉が務めていた地元の病院の医師から、京都の義肢装具メーカーを就職先として紹介してもらいました。姉曰く、その先生の息子が医学部に入らなかったら、義手やコルセットなどの医療用具を用いて患者の方々をサポートする「義肢装具」の仕事を薦めようと話していたとのことで、そう仰るということは、大事な仕事なんじゃないかと感じたんです。実業や世界という大きなキーワードは持ちながらも、具体的なイメージを持っていなかった私は、このいただいた縁から、京都の大井義肢製作所という会社に就職し、医療用具を作る仕事を始めました。
老舗の会社ということもあり、入社後は出会いに恵まれた環境で勉強させてもらいました。高度経済成長の盛り上がりと同時に労災事故も増えていたため、医療用具作り自体盛んになっており、とにかく仕事が忙しい状況が続きましたね。
私たち義肢装具士はお医者さんが出した処方箋に基づき義肢装具を作るのですが、中でも、整形外科学・リハビリテーションの最先端を走る京都大学に出入りできるのは非常に刺激的でした。皆さん非常に優秀な上に必死に勉強をして知識をつけており、海外に留学する方も多数いらっしゃいました。
そんな環境で仕事を続けていくと、次第に、普通高校を出て現場の経験だけで見よう見まねで仕事をし、勉強もままならない状況の自分自身に対し、危機感を抱くようになったんです。仕事はとても面白いけれど、このまま勉強せずに成長していける訳が無いし、周りの方のように知識も無いのにお金をもらっていいのだろうか、と。
自ら道を切り拓く、大学進学にアメリカ留学
ある時、出入りしていた京大の研究所の先生に、このままで良いのか迷っているということを相談したんです。すると、返って来た言葉は「中村君は幸せだなあ」。かわいそうだなと言われるかと思っていたので、再び頭に「?」が浮かび、どういう意味だったのか色々と考え続けました。
すると、今の私は、努力して勉強をすれば、自らオリジナルな道を切り拓くことができることに気づいたんです。それができる環境にあることが幸せだと。そう考え始めてからは、一人のブルーカラーの私にも日本の義肢装具の新しい道を拓く可能性があるのだと、俄然やる気が出てきました。
まずは大学に通おうと思い、仕事で忙しい合間を縫って通える通信制の大学を調べ、近畿大学短期大学部商経科に入学することを決めました。法学のコースもあったのですが、父の言葉もあり、ビジネスを学ぼうという気持ちでしたね。
実際に学校が始まると、京都で夕方に仕事を終えて、ご飯も満足に食べずに片道2時間以上かけて学校に通い、想像以上に大変な日々を過ごしました。それでも、周りにはもっと遠方から来ている人もいたため、歯を食いしばって努力しました。
その結果、2年のコースに4年間かかりましたが、なんとか卒業をすることができ、本当に大きな自信になりました。勉強自体が身になっている感覚もありましたし、これだけのことが出来たのだから、世界でもどこでもいけるなという感覚もあったんです。
そこで、23歳のタイミングで、社会勉強を兼ねて1ヶ月旅行アメリカに行くことに決めました。世界最先端の会社や大学を見て回りたい、お金は無いけれど学びたいという思いから、無鉄砲にも様々な環境に飛び込むことにしたんです。
シリコンバレーの世界的に有名な装具メーカーのホズマー社を見学させていただくと、言葉も十分でないブルーワーカーが日本から一人で来たという熱意を副社長の方に気に入ってもらい、サンタモニカで義肢装具の会社を経営する方を紹介してもらえることになりました。しかも、その会社で働いてみないかという声までかけてもらい、アメリカに留学できる機会を手にすることができました。まるでシンデレラストーリーのようで、世界を股にかけた冒険はマルコポーロを思い出させ、「ああ、このことだったんだ!」と感じましたね。
その後、6年間お世話になった大井義肢製作所を退職し、24歳のタイミングで再びアメリカに渡りました。アメリカでは、声をかけていただいた会社で働きながら、UCLAのメディカルスクールで義肢装具を学ぶ機会もいただきました。無鉄砲さに引っ張られた挑戦でしたが、周りの方の支えもあり、誰もが行けるわけではない環境で勉強をすることができました。
楽しい経験だけではなく、アメリカ滞在中には生死を彷徨う交通事故に遭ったこともありましたが、そのような経験からも、生かしてもらったのだから、世界の方々に喜んでもらえる義肢装具を作ろうという思いは一層強くなっていきました。そして、ビザが終了する2年数ヶ月のタイミングで帰国の途につきました。
26歳、ゴーストタウンで大きな夢を掲げて創業
26歳で日本に帰国してからは、地元の大森町に戻り、寂れた納屋の一つを改装して、「中村ブレイス」という名前で、自ら義肢装具業を営むことに決めました。希望に燃えて帰って来たものの、日本の義肢装具業界は、自分が学んだ技術を活用できるほど成長しておらず、オイルショック以降の不況もあり、高給で雇用される状況ではなかったんです。それならば自分でやったほうが早い、という感覚がありました。
何より、父からもらった言葉が心にあったため、あえて地元の島根で挑戦をしようと考えたんですよね。「昔は夢があったゴーストタウン」を義肢装具の会社を立ち上げることで変えたい、時間はかかるかもしれないけど、この町から世界を目指したいと。それまでのシンデレラストーリーから一転、寂れてしまったゴーストタウンでの再スタートでした。
電話すら通じない地域ということもあり、周りからは夢みたいなことを言っている人だと言われ続け、理解を得ることが出来ませんでしたね。私自身、それまでの経験から自信はありながらも、最初は仕事が全く無く、多くの人に心配されました。なんとか市内の病院から受注をいただくことができたものの、お客さんは月1人か2人、このままではやっていけないという状況でした。
そこで、山陰地域では、医学は米子の病院の方が中心だということもあり、片道3時間以上かけて挨拶に伺うことにしました。すると、伺った病院の副医院長の先生から、「君はアメリカで勉強をして、良い仕事をするんでしょう?うちの病院にいつから来てくれるの?」と尋ねられたんです。私は「来週から伺ってもよろしいでしょうか」と即答しました。車でも数時間かかることもあり、半分冗談で言われたのかもしれません、私の答えに先生は驚いた様子でした。しかし、それからずっと米子に通い続け、少しずつ仕事の信頼を得ていき、広島や他の地域にも展開できるようになっていったんです。
シリコーンとの再会が転機に
創業して10年程経つと、社員は15・6人まで増え、相変わらず世界中をお客さんにした仕事をしたいという夢を語って仕事をしていました。すると、ある時、工業プラスチックを用いた展示会に参加した社員が、シリコーンゴムで出来た灰皿をお土産でもらって来たんです。実は、アメリカで働いていた時に、シリコーンを医療用具に利用したものを見たことがあり、いつかこれを日本で作りたいと考えていたため、私にとっては久しぶりの再会でした。
その灰皿を見て、何かできないかと考えを巡らせた結果、シリコーンを用いて、靴の中敷を作れないかと考えるようになったんです。シリコーンの原液は非常に高価だったので、話をしてみると、誰もがもったいないという様相でした。しかし、通気性が良く、肌に優しい上に痛まないし臭いもつかないため、世界初の試みではあるものの、良い製品ができるんじゃないかという思いがあったんです。
長期間に渡る研究開発で山積みの課題に苦しみながらも、製品が完成してからは世界9カ国で特許を取得することができました。それは、参入を防いで競争で優位に立つという意味ではなく、世界初の製品がこの島根の片田舎で生まれたことの証明として、一人で大きな夢を掲げて立ち上げた会社について来てくれる仲間に向けての感謝のためのものでした。決して大きな産業ではないものの、世界中で困っている人のために、この地から誇りを持って全力を尽くそうという決意を表したものだったんです。
その後、全国の同業者の方々の協力もあり、委託販売という形でこの中敷の販売を広めていき、150万個以上を出荷する製品となることができました。また、シリコーンに見いだした可能性はより大きくなっていき、素材メーカーの協力もあり、他の装具にも利用することができ、商品数が増えていきました。
女性社員の数も増え始めた1991年、人工乳房の製作を始めるため、協力してほしいと社員に呼びかけました。ちょうど、乳がん患者の乳房切除が日本で社会問題になっていたのですが、元々、私自身、先に同じ課題に直面していたアメリカで、シリコーンを用いた人工乳房に触れていたんです。乳がんの方の悩みは男性では分からず、「女性を失ってしまう」と語られるような喪失感は本当に悲劇的な状況でした。だからこそ、そういった方々の生きる希望になるような製品を作りたいという思いがあったんですよね。具体的には、既に販売されていた既製品ではなく、「自分の分身」と思えってもらえるようなオーダーメイドの人工乳房を作ろうと考えました。
こちらもゼロからのスタート、かつ乳房という部位の特性もあり、周りからは冷ややかな目で見られることもありましたね。「あなたが何故そこまでやるの?」と問われることもありました。しかし、社名につけた「ブレイス(brace)」という言葉にあるように、世界中の誰かの支え、そして希望になりたいという思いがあったんです。患者さんの本音が分かるよう、最近では女性社員が中心となり新たな製品開発を続けていきました。
400人の町から世界に希望を
試行錯誤を重ねて、手作業を重ねて生み出す人工乳房は、製品というよりはもはやアートに近い領域でした。そのため、会社内に新しく「メディカル・アート」を扱う部門を作り、完成した人工乳房を「ビビファイ」と名付けて販売を始めたんです。販売後もお客様との対話を続けて改善を続けていき、時間はかかりましたが、ようやく求められているものを作れるようになってきた感覚があります。それまで以上にお客様からいただくお手紙も増え、人工乳房以外にも、指や耳・鼻など、他の部位への展開も始めています。
元々始めた病院を介しての義肢装具業に加え、中敷のような委託販売、人工乳房のような直接販売を含め、現在では75名のまで組織が増え、若い社員が多数活躍しています。日々の仕事を通じて、医療用具を必要とする状態にある方にとっての希望になることはもちろん、町全体の希望になることにも力を注いでいます。古民家を改装して若者のUIターンを活性化させたり、石見銀山遺跡とその文化的景観を世界遺産にするための活動にも尽力しました。
400人の町の仕事が全国・全世界に価値を届けていることで、地域にとっても「この会社があってよかった」と言ってもらえるような会社になりたいという思いがあります。元々は、この町から世界を目指すことで地域を支えようと考えていたのですが、気づいてみれば、地域に支えられていたんですね。だからこそ、世界に喜ばれる製品作りを通じて、地域・社会に貢献することを目指したいです。
今では、中村ブレイスの活動を多くの方に共感・評価いただき、様々な賞をいただく機会もありました。中でも、還暦を目前にしたタイミングでいただいた「渋沢栄一賞」には心から感動しました。マルコポーロの話をしてくれ、渋沢栄一氏を尊敬していた父がこの賞のことを知ったら、きっと喜ぶだろうと感じたんです。とはいえ、まだまだ夢はたくさんあり、これから発表する新製品への期待もあります。これからも、この町から世界に価値を届けていきたいです。
2015.07.27