フットサルと関わり続ける生き方を!子どもたちから憧れられる人になるために。

フットサルチームでの監督やコーチとして、地元の奈良や東京を拠点として活動する長本さん。夢を諦め地元で就職すると決めた時に、進路変更を決断させた「夢の中で聞こえてきた声」とは?お話を伺いました。

長本 大将

ながもと だいすけ|経営者、フットサル指導者
子供から大人までを対象にしたフットサルスクール「GOEN FUTSAL SCHOOL」、社会人フットサルチーム「FALANGITO」、社会人女子フットサルチーム「Basilissa奈良フットサルクラブ」などを運営する、株式会社IDNの代表取締役を務める。また、東京のジュニアチーム、高校生などへの指導も毎月行っている

サッカーだけに打ち込むものの・・・


僕は奈良県奈良市で生まれました。複雑な家庭環境で育ち、父は5歳の時に他界。母は働いていたのであまり家にいないし、学校では腫れ物のように扱われていたこともあり、だんだんと生活が荒れていきました。

ただ、小学1年生の頃からサッカーだけは必死に続けていました。県の選抜に選ばれたりもしていて、将来はサッカー選手になりたいと考えていました。中学生になり、学年が上がるにつれて授業にはほとんど出なくなりましたが、部活にだけは行っていました。先輩からは目をつけられることもあったのですが、顧問の先生が担任にもなってくれて、僕を守ってくれていたんです。その先生は僕にはサッカーしかないと理解していてくれて、練習メニューの作成など、ほぼ全てをキャプテンとして任せてくれていました。

卒業後は、サッカーが強い地元の公立高校に進みたいと思っていました。しかし、成績も悪く、内申点が足りず公立高校に進学するのは無理だと3年生の夏頃に気付きました。受験の仕組みすら知らなかったんです。そしてサッカー推薦をもらえた、私立の学校に進学することになりました。

そこは、奈良県で一番サッカーが強く、毎朝5時起きで朝練するような厳しい学校でした。しかし、僕はそれまでのだらしない生活が抜けていなかったので、朝まで遊んでそのまま学校に行くような生活を送っていました。

また、他のメンバーは中学時代から活躍していた実力者ばかりで、プロ選手になるのは無理だと痛感しましたね。さらに、監督に怒られるのが怖くて、目を気にしながら練習するようになっていきました。練習自体は楽しいものの、練習後には「なにか違う」といつもむしゃくしゃして、はけ口を探すように一層遊ぶようになっていたんです。

すると、高校3年生のインターハイ予選の前に、トップチームから外されてしまいました。この時、完全にサッカーが嫌いになってしまいました。また、そのタイミングで、これまでしてきた校則違反などが学校にばれてしまい、退学になってしまったんです。

フットサルとの出会い


学校を辞めてからは、母が家を出て行ってしまったこともあり、アルバイトをしてひとり暮らしをするようになりました。何となく通信制の高校を卒業しつつ、土建屋で働いていました。

しかし、アルバイト先では給料が未払いになることもありました。そこで、それなら自分で何かやった方が儲かると考え、19歳の時にたこ焼きの移動販売を始めることにしました。母が昔、たこ焼き屋をやっていたこともあり、自分でもできそうだと思ったんです。

実際、たこ焼き屋は普通に働くよりはかなり儲かりました。ただ、欲しいものがあったわけではなく、お金があっても嬉しくはありませんでした。何をしていいか分からないので、とにかく儲かりそうだと思えばアルバイトなどをしていましたが、常に無気力な状態が続いていました。

そんな時、友達に誘われて遊びでフットサルをするようになりました。ボールを蹴ることはやっぱり楽しくて、次第に夢中になっていきました。

そして、友達とチームを作って練習もするようになりました。たこ焼きの販売車は駐車場に置いたり、知り合いに任せたりして、フットサルの練習ばかりしていました。

そんな中、奈良出身の当時フットサル日本代表の、藤井健太選手のフットサルクリニックに通ったり、翌年から全国リーグの「Fリーグ」ができることを知ったり、奈良選抜として関西大会に出場したりするうちに、もっとうまくなりたいと思うようになっていきました。藤井選手は関東のチームに移籍したので、僕も関東に出てフットサルチームに所属したいと思うこともありましたが、具体的には想像できませんでしたね。

また、周りからはいい加減、定職に就くように言われていて、一緒に行動していた人たちからは、色々な仕事を紹介してもらっていました。そして、結局、給料が良かった運送会社へ就職することにしたんです。

心の本心に従い上京することに


しかし、3日後から働くという日の晩、夢の中で「このままでいいのか?」という声が聞こえて、はっとして目覚めました。その声は一体何だったのか。朝まで放心状態になりながら考えていました。

それは、僕の本心が呼びかけていたんだと思います。周りに流されて就職することにしたけど、心のどこかではフットサルを諦めきれてなかったんですよね。

また、その時の生活も恥ずかしいくらいに堕落しており、それはひどい生活を送っていました。ただ、本当は藤井選手のような憧れられる人間になりたいと思っていて、そのためには流されやすい自分は、この環境から出る必要があると考えていたんです。

そこで、夢を見てから一週間後に夜行バスに乗り、上京しました。

勢いで東京に来たものの、所持金は3万円しかありませんでした。そのため、上京1か月後にはプレデター浦安(バルドラール浦安の前身)のサテライトチームに練習参加を経て入団するものの、半年ほどはアルバイト先のフットサル場に寝泊まりしながらお金を貯める生活を送っていました。

Fリーグが開幕し3年目で初めて1軍に上がりましたが、Fリーグで活躍する事もできず、そのまま3年が経ちました。その中で、このままではダメだという感覚もありました。稼いだお金は全てフットサルのために費やしていましたが、他の仕事をしている時間も長く、練習の時間をもっと取る必要があると。

そこで、環境を変えるために中国に行くことにしました。中国のチームであれば、自分のレベルでもプロとして契約が出きる可能性があり、そうすれば生活のための仕事をせずにフットサルだけに集中できますから。

ただ、渡航費もなかったので、ブログでスポンサーを募集しました。すると、多くの人が応援してくれ、航空券を買うことができたんです。本当に言葉にはできないくらい嬉しかったですね。自分を大事にしてくれる人を、自分ももっと大事にしたいと感じられる出来事でした。

一生フットサルと関わり続けるための決断


中国ではプロ選手として契約することができ、1年間は修行しようと考えていました。しかし、監督が途中に反日感情の強い人に変わり、差別を受けたり、給料も未払いになってしまい、7ヶ月ほどで帰ることになりました。

帰国後は、バルドラール浦安に戻りました。2軍に所属することになったのですが、リーグにかかわらず全国のフットサルチームが優勝をかけて争うプーマカップでは、関東大会を勝ち上がり、全国の決勝トーナメントに進むことができたんです。

他のチームは全てFリーグのチーム。もし1回勝ち上がれば、バルドラール浦安の1軍と試合するトーナメント表でした。結局、初戦で負けてしまいチーム内対決は実現はしませんでしたが、久しぶりにたくさんのお客さんがいる中で試合をすることができ、震える感覚を思い出しましたね。

その後もずっと選手としてプレーを続けようと考えていました。しかし、移籍など、改めて自分の将来を考えた時、選手を続けることへの違和感を感じてしまいました。現状での自分自身の能力、技術、年齢などを冷静に考えた時に、日本のトッププレーヤーになるのは難しく、この土俵では勝てないと分かりました。

ただ、フットサルとは一生関わる仕事をして、身体能力や年齢などは関係ないことで勝負したいと思いました。そして、その道を見つけるため、選手を引退して指導者としての活動を本格化しようと、バルドラール浦安でコーチをすることにしました。

その後、戦う土俵を移し、奈良に帰ることにしました。今であれば、奈良に帰って来ても、周りに流されないで自分の道を進めると思ったんです。

子どもに憧れられる存在になるために


現在は、奈良で子ども向けのフットサルスクール、社会人の男子、女子チームの運営をしながら、監督、コーチとして指導者としても関わっています。いずれは、奈良からFリーグのチームをつくり、現在指導している子ども達が、「地元のFリーグの選手になりたい」と憧れを抱いてたら嬉しいです。

正直、僕がフットサルにこだわるのに理由なんてなくて、「好きだから」というのが大きいですね。自分でもよく分からないし、もしかしたら、他に何をしていいか分からないだけなのかもしれません。それでも、僕の人生はフットサルによって大きく変わったのは事実。だから、これがベストかは分からなくても、とにかく前に進んでいきたいですね。

そうやって次々と行動していけば、何かが起こります。僕自身、これまでも多くの人に助けてもらって生きてこれました。中国に行く時も、独立して会社を立ち上げる時も、多くの人にサポートしてもらっています。

ただこれは、周りの人のせいにしたり、環境のせいにしたりして、自分から何もしなければ絶対に起こらなかったこと。この生き方が正しいかは分からないですが、反応するばかりでなく、自ら発信して生きていくことを今まで以上に自らが取り組み、子ども達に見てもらいたいです。

そして、子どもたちから憧れられる存在になりたいですね。奈良から出たことがなかった時は、僕が憧れを持てた人は一握りでしたが、東京に出てからは、かっこいい人にたくさん出会って、多くの影響を受けました。僕が影響をもらったように、子どもたちに影響を与えられるようになりたいんです。

ただ、子どもは、好きなことだけをしていて、結果お金がなかったり、周りに仲間がいなかったりする人には憧れを抱かないと思います。なので、好きなことをして、お金も稼ぎ、仲間もいる。そんな、夢見がちだと思われることを、現実にしていきます。

2015.07.22

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