人口2500人の限界集落に生まれた希望。教科書の無い仕事と習慣が生む、公務員の進化。

岐阜県加茂郡にある、東白川村という人口2500人の限界集落で公務員として働く桂川さん。最初は公務員の仕事に前向きになれなかったものの、あるキッカケを通じて考え方が変わっていき、村の基幹産業の危機を救う成果を残すまでに。「村をすごく栄えさせたい訳ではない」と話す桂川さんが大切にする、進化し続けるモチベーションとは?

桂川 憲生

かつらがわ のりお|岐阜県加茂郡東白川村 役場勤務
岐阜県加茂郡東白川村の東白川村役場にて、総務課課長補佐兼行政係長を務める。

※本チャンネルは、TBSテレビ「夢の扉+」の協力でお届けしました。

TBSテレビ「夢の扉+」で、桂川さんの活動に密着したドキュメンタリーが、2015年7月26日(日)18時30分から放送されます。
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「これが本当に一生の仕事かな?」


私は岐阜県加茂郡の東白川村という、人口2500人の村で生まれ育ちました。村は伊勢神宮にも使われている檜の産地で林業や建築業が盛ん、実家も木材の生産を行っていました。私自身、小さい頃からものづくりが好きで、建築士に憧れを抱いたこともあったのですが、長男として生まれ、家を継ぐんだろうなという考えが念頭にあったため、自らの想いを口に出すことはありませんでしたね。

そんな状況だったこともあり、あまり将来を考えるモチベーションもなく、学校の勉強も力を入れていませんでした。県立高校の進学クラスに所属しながらも、その中では落ちこぼれており、短大に進学してみたらという親の薦めから、岐阜県農業大学校という、農業系の技術者を養成する大学に進学しました。その学校は県の職員の輩出を担っていたので、大学を卒業したら岐阜県の公務員として働くつもりでいましたね。

ところが、卒業を迎えると、専門的に勉強をしたのにもかかわらず、その年は県の採用が無く、求人が出なかったんです。「どうしよう…」と当てが無くなってしまいました。ただ、知り合いから東白川村の役場を受けることを薦めてもらい、なんとか村の公務員として働くことに決まりました。

実家に戻ることになったため、公務員をしながら家業も継ぐことが出来ると喜ぶ両親に対し、私はあまり前向きではありませんでしたね。同じ岐阜県でもより栄えた場所にある大学に通い、遊びも覚えていたため、村に戻ることに、「また田舎か」と感じてしまったんです。大きい商社に務める親戚のおじさんの話を聞いても、田舎は縮こまっている感覚があり、「いつか辞めてやる」というくらいの気持ちで公務員になりました。

20歳で社会に出た私にとって、公務員として初めて配属された税務係での仕事はあまり面白いと思えるものではありませんでした。税条例を知らないと仕事にならないため、法律を紙に書いて覚えるのですが、「これが本当に一生の仕事かな?」と思ってしまったんです。

それでも、社会人になり、車に乗りお酒を飲み、人付き合いも始まり、仕事は生活のうちの一部でしかなかったので、絶望を感じることはありませんでした。それ以外の時間は、あゆ釣りをしたりスキーをしたり、高価な道具を揃えて趣味や遊びに没頭する日々を過ごしました。

また、仕事的にも公務員の特性上、林業・戸籍・農業・園芸と様々な分野を定期的に異動して回りました。もっと続けたいと思うこともありましたが、その都度違う職場に務めるような感覚があるので、その新鮮さがモチベーションに繋がっていましたね。

「教科書の無い仕事」がもたらした変化


様々な部署を転々としていたある時、地域内で利用する電話回線が老朽化し、テレビが見れなくなってしまうということがありました。そこで、撤去や新しい設備の導入を検討していると、電話やIT環境も含めて考えた結果、どうやらケーブルテレビを導入することが良いらしいという話になりました。しかし、そんな予算は村に無いため、全国で2枠しかない補助金に応募することにしたんです。

公務員の仕事は大概前年の事例があるのですが、42歳にして初めて教科書がない仕事を担当することになりました。加えて、村長とともに集落を回って、こういった設備を導入すると謳ってしまった手前、自分の企画書が通らず補助金が受けられないと、顔を立てることもできないという状況に。「もしダメだったらごめんなさいでは済まない、何が何でも通さなければ」という危機感を持っての仕事でした。

すると、なんとか通過することが出来、予算を確保することが出来たんです。正直、失敗したら公務員を辞める覚悟もあったため、一安心でした。しかし、大変なのはそれからでした。ケーブルテレビで毎日流す番組を作ることになったのですが、前例の無い仕事であることに加え、関わる人数も増え、それまでとは異なる環境で仕事に打ち込むことに。

他の地域ではケーブルテレビで行政情報の告知を中心とした報道番組を流していたのですが、もっと視聴者との双方向的なコミュニケーションに繋がる番組にしたいという思いがありました。そこで、村のお年寄りが自らの若い時の体験等を書く「白寿」という機関誌を、村の若い人たちの前で、写真を流しながら朗読のボランティアに読んでもらう番組を作ったんです。すると、それまでは知らなかった近所のお年寄りの考え方に触れられたり、白寿に寄稿する人が増えたりという反響を得ることができました。他にも、村だけの方言が文化として残るように、村に移住したばかりの人に対するクイズ番組形式で放送するなど、視聴者の目線を意識した番組作りを行うようになりました。

このケーブルテレビの仕事を通じて、私の中で「公務員の仕事の仕方」が変わっていく感覚がありました。公務員はどうしても手段を目的にしてしまう節があったのですが、新しいことに挑戦する中で、「ニーズを考えること」の重要性を強く感じるようになっていったんです。シンプルなことではありながらも、それまではできていないことでしたね。

また、自らが年長者になり、関わる人も増えたことで、リーダーシップいついての考え方も変わっていきました。色々な人と教科書の無い仕事を通じて接していく中で、どのように振る舞うと相手が仕事をしやすいかを考えた結果、「サーバント・リーダーシップ」と呼ばれるような、自ら支援・奉仕をする姿勢で組織を導くことで、良い関係が築けることに気づくようになったんです。身近な人を大切にできないと、遠くの人を幸せにすることはできないという感覚があったこともあり、身近なコミュニケーションから習慣を変えていきました。

それ以来、自ら変化することの重要性を気付き、ビジネス書や自己啓発本を多数読むようにもなっていきました。

限界集落の基幹産業の危機、失敗すると言われ続けた挑戦


また、ケーブルテレビの導入によって、ICTを活用して村の農作物の流通を活性化しようと、「東白川村天然素材カタログ」という、村内で提供できる素材を並べたカタログサイトを作ったんです。資産はたくさんあるものの、自分たちで利用者のニーズを予測しきれない面もあるため、場に出してしまおうと考えての施策で、実際にそのサイトから受注が入ると、各生産者に連絡が届き、発送まで一括で管理できるプラットフォームとして運用を始めました。その仕組みの導入以来、村外から「こんなものもあるのか」という反響をいただき、取引量が段々と増えていきました。

すると、そんな状況を見てか、村の工務店から、村外の顧客獲得のために「家も売ってくれないか?」という話をされたんです。さすがに家はインターネットで売れないだろう、冗談だろうと聞き流していたのですが、村の工務店は昔ながらの手法で大工が作る地域ブランドを持ちながらも、受注件数が減っている状況でした。そして、色々と調査をしていくと、年金不況による高齢者の建築減少や、webを介した注文による越境化・耐震強度偽装問題と、田舎の工務店は淘汰されるという予測がされていたんです。商工会の半数を建築業が占める東白川村にとって、基幹産業の危機という状況に、「これはやらないとえらいことになるな」と感じましたね。そこで、村の産業振興として、工務店の受注促進に繋げるための「Forestyle(フォレスタイル)」というweb事業を立ち上げることを決めたんです。

そして、色々なサイトを見ていると、ユーザー自ら間取りを投稿できるサービスがあり、しばらく見ていると、投稿数が急速に増えていることに気づきました。きっと、間取りを考えるのが楽しいんだろうなと感じたため、その間取りに対応した建築の金額がリアルタイムで算出・表示されたらもっと楽しいだろうと思い、フォレスタイルのサイト上にシュミレーター機能を設けることに決めました。

しかし、実際に事業の見積もりを取ってみると、予算は数千万円規模に。開発会社はなんとか技術力のあるベンチャー企業と縁あって出会えたものの、もちろん予算を全て村から算出することはできず、今度は別の総務省の補助金に申請をすることに決めたんです。

また、この事業に取り組むにあたり、色々な人に話を聞く中で、ほとんどの人から失敗すると言われ続けました。「公務員がビジネスに頭を突っ込んでもうまくいかない」という声もありました。しかし、だからこそ、「公務員の頭」で仕事をしないように、企業の研修を受けたり本を読んだり、自らに変化を起こそうと試行錯誤を続けたんです。大風呂敷を広げてしまい、失敗できない状況に追い込まれた、48歳の賭けとなる挑戦でした。

村の役に立つために、進化し続けたい


新しい事業では、30代・40代の新しい顧客層に訴求するために、22人の新しいデザイナーと協業を始めたのですが、それを工務店側で中々受け入れることができなかったり、「行政が営業をするのか」という議論が起こったりと、村の中でも前例の無い新しい挑戦に対し、様々な意見がありました。しかし、手を止めても状況が変わらないこともあり、始めた以上はなんとかやり切ろうという一心でしたね。失敗することには必ず理由があるのだから、それを一つ一つ潰していけば成功するだろうと。

その結果、なんとか補助金をいただくことができ、実際にオープンしたサイトを通じて、家が売れ始めるようになったんです。県内はもちろん、東京からの注文もあり、ばんばん注文が来るとまでいかないものの、工務店側のキャパシティ的にもちょうど良い増加でした。また、全国のモデルとなる地域活性化策を表彰する「村オブ・ザ・イヤー」や、総務省がICTを活用して地方創生に資する活動をしている事例を表彰する、「地域情報化大賞」など、外部の表彰をいただくという副産物もありました。

そして何より、その施策以来、工務店や大工さんの「もうダメだ」という絶望感を払拭できたような感覚があったんです。建築の分野でも光があると感じてもらい、2代目社長が継いで新たな挑戦も生まれています。世の中は数字だけでなく、気持ちの部分が大きいので、もうダメだと思えばそこで全て止まってしまいます。しかし、希望があれば、次の行動に繋がっていくんです。私含め、一人の能力はたかが知れているものの、地域は積み重ねで成り立ちます。限界集落と呼ばれる村の空気が希望にあふれることは、お金では決して買えない成果でした。

現在は所属が変わり、総務課にて職員の採用や教育・研修等、庶務的な業務に携わっています。年長者ということもあり、役職に就くことも増えましたが、これまでと変わらず「サーバント・リーダーシップ」を意識して、若い人にも敬語・丁寧なメール・困っていたら助ける等、自分が大切だと思うことを継続しています。まず身近な人を大切にするということは家族についても同じで、子ども達が少しでも田舎に暮らすことを価値に感じてくれるよう、日曜大工で石釜を作ったり、今はサウナを作ろうとしています。

私は、村をすごく栄えさせたいと考えているわけではありません。でも、例えば村に職がなくて子どもが帰って来ず、独居老人が増えてしまうというのは、すごく寂しいんです。それこそ、1日誰とも会わずに過ごすような状況になると、私自身耐えられないと思います。だからこそ、税金からお給料をいただきダラダラ仕事をするのではなく、もっと村の役に立ちたいという思いがあります。

あとは、自分自身が変化・進化していくことを単純に楽しんでいるということもありますね。ちょっとした習慣でも続けると結果が大きく変わるのが楽しいんです。それは子どもとの接し方も職場での振る舞いも同じです。だからこそ、常に何か新しい良い習慣を取り入れられないか、日々探してもいます。小さいことが出来ない人に大きいことは出来ないし、ある日突然ホームランを打つことなんてないですから。

2015.07.20

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