スポーツで培った力を社会に活かせる仕組みを!元プロアイスホッケー選手・監督の次なる挑戦!

アスリートのセカンドキャリアを支援する事業を始めるため、選手、監督、スタッフとして17年間所属したアイスホッケーチームを辞めて挑戦を始めた村井さん。常に目標を高く持ち、努力を続けてきた村井さんが次に目指すものとは。お話を伺いました。

村井 忠寛

むらい ただひろ|アスリートのセカンドキャリアを整備する
公益財団法人日本サッカー協会 JFAこころのプロジェクトの講師も務め、全国の小学生に向けて講演活動を行う。スポーツの振興や障がい者スポーツの普及等を行うNPO法人セカンドサポートのアドバイザースタッフを務める。

アイスホッケーのプロ選手になって恩を返したい


私は北海道苫小牧市で生まれました。小さな頃から身体を動かすのが好きで、親にはピアノやそろばんの習い事を勧められましたがすぐに飽きてしまい、野球を始めることにしました。さらに野球の友達に誘われてアイスホッケーも始めました。

最初はアイスホッケーは上手くなかったのですが、小学6年生になった時からチームの同級生と朝練を始め、毎朝6時に起きて、走ったり筋トレしてから学校に行くことにしました。すると、最後の地区大会で優勝することができたんです。この時「優勝するのは、なんて気持ちいいんだ!」と思うと同時に、努力を続けたらある程度の結果を出すことができると肌で感じることができました。

それからは、アイスホッケー一筋の生活を送るようになりました。ただ、将来プロ選手になりたいと思うものの、身体が小さいこともあって現実的には難しいだろうと考えていましたね。

しかし、そんな私の夢を家族は応援してくれました。母子家庭であまり裕福ではなかったのに、母は海外へのアイスホッケー留学のお金を捻出してくれました。その時海外で見た光景が新鮮で、それまで憧れでしかなかったプロ選手という夢を具体的にイメージすることができたんです。さらに、私がアイスホッケーのため大学に行くかもしれないとなると、姉は自分の進学を諦めて私の可能性に賭けてくれました。

また、高校生になると、私をアイスホッケーの道に誘ってくれた友達が白血病で倒れました。闘病生活が始まり、彼はアイスホッケーはもちろん、学校に来ることもできなくなりました。私はきっかけを与えてくれた彼に恩返ししたいと考えるようになり、そのためにはプロ選手になって彼の分までプレーするしかないと感じたんです。

アイスホッケー選手として身体の小ささは致命的でしたが、以前より一層増して本気でプロ選手を目指し、努力を続けていきました。しかし、高校3年生の大会を終えても、実業団から声はかかりませんでした。

正直、家庭の経済状況もあって大学に進学すべきかは悩みました。しかし、「チャンスがあるなら諦めない方がいいんじゃない?」と母からの後押しもあり、スポーツ推薦で進学し、引き続きプロを目指すことにしたんです。

念願のプロチームで突然言い渡された「廃部」


私にできることは努力を続けることだけだったので、大学に入ってからも周りの人から見たら異常だと思われるほど、毎日練習を繰り返していました。常に「今日がベストであること」を心がけていて、昨日の自分を超えることを目標にしていましたね。

そして大学3年の春の大会を終えた時、ついにいくつかの実業団からオファーをもらうことができたんです。「やっと声がかかった」と、飛び上がるほど嬉しい気持ちでした。そして、いくつかのチームと話をする中で、身体の小さな自分でも貢献できそうな、パスで繋いでいく戦略を取っていた古河電気工業のアイスホッケーチームに進むことに決めました。

大学卒業後はチームの本拠地である日光に移動して活動を始めました。同じチームの中でも、チームを引退しても会社に戻れる「社員契約」と、そうではない「プロ契約」の人がいて、私は選手として引退した後の先が見えていなかったこともあり、社員契約としてチームに所属していました。むしろ逆に、プロ契約の人は引退した後どうしていくのか、不思議でもありました。

私は身体が大きいわけでもなかったので、チームにどうやって貢献できるか自分を客観的に分析して、チームの方針に合わせることを意識していました。そして1年ほど経つと、次第に試合にも出られるようになっていきました。

そんな矢先、チームが廃部になることを言い渡されてしまったんです。まさかチームが無くなるは思っていなかったし、それなら他のチームに入っていれば良かったと後悔も感じました。ただ、シーズン中だったし、できる限りアイスホッケーを続けたかったので、他チームからのオファーが来るように選手としての努力は続けました。しかし、リーグで最下位のチームだったこともあり、声はかかりませんでした。

自分で決めたことの責任を取るために動いていく


その後、市民クラブとしてチームを残す方向で話は進んでいました。しかしある日、数日後までに一定金額が集まらないと翌年のリーグ戦の参加資格が得られないということが分かりました。その瞬間練習を止め、チームメンバー全員でお金を集めるために走り始めました。誰一人として諦めようとしなかったんです。

そして、多くのファンの署名や募金、地元企業の協力のおかげで、日本初の市民クラブアイスホッケークラブ、「日光アイスバックス」が誕生しました。ただ、それからも何度も資金難でチームは潰れそうになったし、給料も不払いの状況に陥ってしまいました。その度、私は自分がなぜこのチームでアイスホッケーを続けるのか、自分の立ち位置を振り返っていきました。

お金のためだったらチームを出た方がいいのは明確でした。しかし、それよりも「このチームを存続させたい」という気持ちで私は突き動かされていたんです。こんなに地元やファンから愛されているチームはない。応援してくれるファンがいる限りはなんとしても努力を続けようと。そして、その決断をした責任は自分にあるので、言い訳せずにできる限りを尽くそうと思ったんです。

実際、選手として練習や試合に出るだけでなく、営業、PR活動、イベント、グッズを考えたり、生活費を稼ぐためにアルバイトをしたりと、様々なことをするようになりました。すると、その後も何度も危機はありつつも、次第にチームとして軌道に乗るようになっていったんです。

景気の影響で、同じ時期に300程の実業団スポーツチームは廃部になり、市民クラブ化しようと試みていましたが、ほとんどはうまくいかずに潰れてしまいました。そんな中、日光アイスバックスは存続し続けることができたんです。

ただ、30歳を過ぎると、イメージ通りのプレーができずに選手としての限界を感じるようになりました。それまでの貢献を評価されていたので、チームに所属し続けることはできる環境でした。しかし、そこに甘んじてはダメだと思い、33歳で11年のプロ選手生活を引退することにしました。

すると、その2週間後に日光アイスバックスから監督としてのオファーがあり、新たな挑戦をすることに決めたんです。

スポーツで培ったことの活かし方をイメージできない


監督になると、選手のスカウトも行うようになりました。すると、選手時代にも不安に感じていた「引退後のセカンドキャリア」が整備されていないことに対して、より強く問題意識を感じるようになりました。

私の周りにも、結果を出せずに個人の意志に反して引退せざるを得ない選手もいました。そして、アイスホッケーに関わらず、引退後にスポーツ業界に関わる仕事を探すのはかなり難しく、多くの人は進路で悩み、中には飲食店を開いたりする人もいました。しかし、うまくいかないケースも多々ありました。結局、就ける職業は限られてしまうんです。

体育会の大学生は、新卒で会社に入ればスポーツをしていたことが評価されて、安定した収入や社会的地位を得られることが多くありました。しかし、プロ選手は引退後の保障は全くありません。しかも、競技中では将来のキャリアについてイメージできず、不安を覚えるんです。私自身、引退後のキャリアが描けないことは事実だと感じていたので、「絶対にプロ選手になった方が良い」と自信をもってスカウトできませんでした。

ただ、優秀な学生がプロの道を選ばないと、スポーツ自体が盛り上がりません。そこで、アイスホッケーに関わらず、アスリートのセカンドキャリアを整備する必要があると考えるようになりました。

しかし、何をしていいかは分かりませんでした。私自身、4年で監督を引退することに決めた時、次のキャリアを考えるものの、自分の経験が社会の中でどう活かせるのか全く分かりませんでした。35歳を超えていると転職の需要は極端に少なくなっていて、今までスポーツで培ってきた、「努力を続けること」「組織の中でリーダーシップを取ること」等が一体何の役に立つのかと、これまでの自分を否定しそうになることもありました。

結局、私は日光アイスバックスのスタッフとして、スポンサー獲得の営業として働くことにしました。それしか道が分からなかったんです。ただ、実際に仕事を続けていくうちに、戦略的に物事を考え、相手の求めていることに応えていく仕事にも、監督と同じような楽しみを見出せるようになりました。

また、営業でクライアント企業から話を聞いていくと、どこの企業も「人材」の悩みが大きいことを知りました。それも、基本的な人材の悩みである、努力や継続、責任感などスキルの問題ではなく、アスリートに共通する素質が企業の課題として大きいと感じ、そこまでレベルの高い話ではありませんでした。それなら、引退したアスリートを企業の人材として活かすことができれば、企業とアスリート、どちらの役にも立てるのではないかと考えるようになったんです。

そして、40歳までにはアスリートのセカンドキャリア整備の挑戦を始めたいと考え、2015年3月で17年間お世話になったチームを辞め、39歳にして独立することに決めたんです。

アスリートのセカンドキャリアを整備する


現在は事業を作るために、色々と模索しているところです。

ただ、アスリートに特化して企業に紹介するだけではなく、その前に社会に適合するための「何か」を挟む必要はあると感じています。私自身、スポーツで養った力をどうやって社会に適合させていくのか全く分からなかったので、それを学ぶ期間は必要だと感じています。

そもそも、アスリートは人材としての価値は高い。しかし、育成と教育というアプローチを体系的にできている機関はゼロに等しいです。それをカタチするのが今の課題だと感じています。ただ強く思うのは、アスリートの引退後の価値はもっと輝いていいはずだと。

そこで、アスリートが社会で活躍できる人材になるための育成事業を柱にしようと考えています。まずは現役中から育成、教育をしていくことで、引退後にその人の価値が社会でも活かせる状態を作っていきます。企業や組織など、どんな分野においても「人」というキーワードは一番大切な要素なので、アスリートという人の価値を示せる根拠があれば、社会もっと豊かになると考えています。

そうやって、ひとつずつ丁寧に課題に取り組むことで、最終的にセカンドキャリアの課題解決が可能になる。そう信じています。

また、他にもアスリートを目指す子どもたちに競技を通じた人の育成と教育を行います。目的は、競技を通じた、人間力向上です。その中で「夢」を持ち、叶えるための機会を提供したいと思い、新しいプロジェクトを立ち上げ予定です。

未知なことだらけですが、これからの挑戦にワクワクしています。夢を実現できるかは、結局本人が強く思うかどうか、そのための努力を続けられるか次第だと思うんです。身体の小さかった私でもアイスホッケーのプロ選手になれたし、日光アイスバックスも諦めずにみんなで続けたから全日本アイスホッケー選手権で優勝できるほどのチームになりました。

これからも目標を高く持ち、世の中のためになる組織を作って携わった人がみんな幸せになってもらえるように、誰よりも努力を続けていきます。

2015.07.07

ライフストーリーをさがす
fbtw

お気に入りを利用するにはログインしてください

another life.にログイン(無料)すると、お気に入りの記事を保存して、マイページからいつでも見ることができます。

※携帯電話キャリアのアドレスの場合メールが届かない場合がございます

感想メッセージはanother life.編集部で確認いたします。掲載者の方に内容をお伝えする場合もございます。誹謗中傷や営業、勧誘、個人への問い合わせ等はお送りいたしませんのでご了承ください。また、返信をお約束するものでもございません。

共感や応援の気持ちをSNSでシェアしませんか?