先の見えたレールを降り、起業家に辿り着いた。高校中退・学者の限界を経て、次に目指すもの。

「深く知ることで、生きることを豊かにする」というビジョンのもと、気になるテーマを追えるキュレーションアプリ「カメリオ」を運営するシバタさん。「人生の先まで見えているのが許せなかった」という理由で高校を中退してからは、世界的な研究に携わる科学者になり、戦略コンサルタントを経て起業という異色の道を歩み続けました。どんな思いがシバタさんを突き動かしたのか、お話を伺いました。

シバタ アキラ

しばた あきら|キュレーションアプリ等の運営
気になるテーマを追えるキュレーションアプリ「カメリオ」等のサービスを運営する株式会社白ヤギコーポレーションの代表取締役を務める。

先の見えたレールへの違和感から高校中退、イギリス留学へ


僕は神奈川県川崎市に生まれました。小さい頃からどこか「賢い」ことへの憧れがあり、
小学生の時に通っていたスイミングスクールで、周りが中学受験のために学習塾に通っている話を聞いてからは、「どうやら頭がいい奴が行くところがあるらしい」と思い、自ら塾に通い始めました。

正直、塾での勉強は辛かったですが、自分とやると言った手前辞められず、最終的には聖光学院という横浜にある私立の進学校に入学しました。

中学生になってからは、自分の力を何に注ごうか悩む日々が続きました。学校のカラーとしては、ある種のエリート思考や、均一な価値観が強い雰囲気だったのですが、個人的には様々な人の考え方に触れようと本を読んだり、好きだった音楽を聴いたりすることが好きだったんです。

すると、ある時から、学校や親が語るような社会のレールに乗ることを当然だと思えなくなってしまったんですよね。村上龍の本で触れた考え方や、好きだったRadiohead(レディオヘッド)というUKのロックバンドが投げかける既存社会の価値観への疑問にも影響を受けていました。

そんな状況が続くと、次第に勉強が手に着かなくなっていき、自分にとっての救いは音楽だけになっていきました。その分、歌詞の内容をもっと知りたいと思い、英語だけは成績が良かったですね。ついには学校に出掛けるふりをして図書館に通うようになり、学校から家に電話がかかって来たことで親にバレてしまい、親と相談をすることになりました。

そして、親の反対を受けながらも、やはり人生の先までレールが見えている状況が許せず、先を決めないために高校を2年生で中退することに決めました。

いざ退学してからは、フリーターになり、好きなパンクロックのためにレコード屋に通ったり、アルバイトをしたり友達や彼女と遊んだり、それ以外は何も無かったですね。「無理に何かしないこと」を頑張るような状況で、惰性のような生活を2年程過ごしました。一応大検は取得したものの、高卒未満になりたくないというただの意地でした。

ただ、フリーターの生活もしばらくすると飽きてしまい、色々と考えた結果、音楽の影響からカルチャーが好きだったイギリスの大学に留学しようと決めたんです。英語も好きだし、ちょうど良いだろうと。

そこで、なんとか親の了承を得てロンドンの大学に進学すると、自分は英語が得意だと思っていたのが、全く言葉が伝わらず、「やばい、すごいところに来たな」と焦りましたね。今回に関しては100%自分の意志で来たからこそ、本当に頑張らなくてはと、目が覚めたような感覚でした。

先を決めず、研究にのめり込んでいく日々


大学では元々の音楽の関心から、電子工学などを学んでいました。しかしある時、物理学の授業を受ける中で、これまで享受してきた音楽の基盤となる理論の一端を理解できたような気がしたんです。そんな、物事の理屈や秘密みたいなものに惹かれ、もうちょっと掘ってみたいという思いから、2年生からは物理学部に入り学ぶようになっていきました。見たことの無い世界を探求していくような感覚はまるでハリーポッターのような世界で、どんどん「究極」に関心を持つようになっていきました。

また、理論を数学で担い、実験をプログラミングで担う研究において、特に後者のプログラミングの領域では、周りと比べても圧倒的に得意な分野だと自信を持つことが出来、
最終的には、実験素粒子物理学という、この世を作るものの最小単位の研究に従事するようになりました。

しかし、先が決まっているのは苦手という性格は変わらず、将来の選択肢は決めないでいました。個人的に、将来研究で食べていくイメージはあまり持てなかったのですが、卒業の三ヶ月前にある教授から、「大きい実験を博士研究員(ポスドク)として手伝ってくらないか」という誘いをいただいたんです。海外で就職することや、日本に帰ることも含め色々考えながらも、中々ピンとこない状況だったので、面白そうな実験をすることで給料がもらえるのであれば、それは良い話だと思い、そのまま同じ大学の博士研究員となりました。

その実験は構想15年、130カ国の研究者が携わり国家予算が関わるプロジェクトで、規模が大きい分、当初の予定から大幅に遅れている状況でした。「お前の実験は来年始まる」と言われながら結局3年ほど経ってしまい、その間は並行して大量のデータを分析する仕組みを作る、いわゆる「ビッグデータ」の領域で実験をしていました。正直、本来の実験が始まらないフラストレーションはありながらも、世界中の研究者とビッグデータの実験に取り組む日々は楽しかったですね。

その後、論文も書き終えて卒業を迎えると、一緒に研究を行っていた科学者の一人から「今度NYで助教授になり、アシスタントを一人つけるので来ないか?」と誘いを受けたんです。ちょうど卒業後の進路を迷っていた時期だったことに加え、一緒に実験をした中でも一番頭が良い人からの誘いだったので、すごく名誉に感じ、オファーを受けNYで研究者を続けることに決めました。

27歳で迎えた節目、生き抜くために賢くある起業家への憧れ


NYでは、実験統計学という、研究の成果の確からしさを証明するような学問の専門家として研究を続けました。すると、ついに待っていた実験が始まるという知らせを受けたんです。ところが、実験開始後、すぐに大きな事故が発生。「また待つのか・・・」というのが正直な気持ちでしたね。

また、実験の進捗についてのフラストレーションだけでなく、自分への限界も薄々感じ始めていました。27歳を迎え、多くのノーベル賞受賞者がそれまでに発見していたという「26歳」という年齢にこだわりを持っていた自分としては、同じ目標を目指しながらも、見つからなかったという感覚があったんです。特に、「人生の中で学者しかやってこなかったから学者を続ける人」に近づいているんじゃないかという、大きな危機感もありました。ありがたいことに、周りからの評価はいただきながらも、助教授になるとレールに乗ることもあり、「それは自分が目指したいものではないな」という感覚がありました。

ちょうどそんな時、妻・子どもと夏休みにアメリカ横断の旅行をする機会がありました。第二児出産が近かったこともあり、実質、デンバーからアメリカの半分を横断するというものだったのですが、その旅行は自分にとって非常に刺激的なものでした。行く先にはまるで火星みたいな場所があったり、満天の星空の下でご飯を作ってたべたり、ある時は湖に車がハマってしまい、どうして良いかわからず泣いてしまったり(笑)、これまで自分が感じて来なかった色々な感情を感じたんです。「自分はまだ人生の楽しみを謳歌してないな」と思うと同時に、自分を縛り付けていた「辞めない理由」が小さく感じられるようになりました。

また、ちょうど同じタイミングでNYで金融危機が起こり、社会的に不況の波が押し寄せたのですが、優先順位の高い実験に携わっていた僕には、特に影響が無かったんです。「何故自分には何も無いのかな?」と、社会と繋がっていないことへの違和感を感じるようになりました。もちろん、研究者でありながら、他の世界と積極的に携わる方もいたのですが、自分にはその選択肢を描けず、結局、研究者を辞めることにしたんです。

時を同じくして、NYでは金融危機の影響で会社を退職して起業する人が増え、起業家のイベントがよく開催されていました。僕の周りにも起業家が増え、接するようになったのですが、話をしていると、彼らのことをすごく面白いと感じるようになったんです。

というのも、自分が賢くあるのは論文のためだったのですが、彼らは生きていくために賢くあるという感覚だったんですよね。ある種野性的ながらもインテリジェンスを感じ、「自分が求めている賢さで勝負している世界があるんだ」と、そのカッコよさに憧れを抱くようになりました。これは自分のやりたいことだな、と。

しかし、研究しかしてこなかったこともあり、ビジネスを学ばなくてはという感覚もあり、周りにコンサルタントの友人が多かったことや、短期間で色々なプロジェクトに携われることに魅力を感じ、ボストン・コンサルティング・グループへ入社することを決めました。

これまで培って来た、自分の強みを活かした分野での起業


ボストン・コンサルティング・グループでは戦略の研究機関や現場のコンサルタントとして製薬業界やEコマース業界等を担当しました。実際にビジネスの現場で得るものは非常に大きかったですね。例えば、製薬業界は新薬開発の成功確率は低いので、「その実験は止めておけ」というのが確率論なのですが、将来のためにも不確定な情報をもとに、時には確率に反する決断をしなければいけないシーンがあることは、とても大きな学びとなりました。

そうしてコンサルタントとして独立を前提に働く中で、一番最初に決まったのは「誰とやるか」の部分でした。同じくコンサルタントとして働いていた渡辺との出会いが大きく、気が合うし、自分たちが一緒に会社をやったら面白い会社が作れるという感覚があったんです。互いに家族もいて辞めない理由はたくさんありましたが、自分の力で切り拓いていきたいという独立心も強かったので、二人で会社を立ち上げることを迷い無く決めました。

それからは、どんな事業をするかを色々と相談して考える日々を過ごしました。ジャンルはまちまちで幅広く考えてみたのですが、検討を続けていくうちに、コンサルタントであるが故に、特定の業界を現場レベルで深く知らないことを課題に感じるようになりました。正直、机上に並べたアイデアに価値を感じなかったんです。

そこで、改めて自分の強みに焦点を絞ると、やはり研究時代から行っていた情報処理の分野に一番力があることを再認識しました。また、「発明はフラストレーションから生まれる」という言葉にも表されるように、個人的に情報収集に課題を感じていたんです。例えば好きなアーティストのライブ情報を見逃してライブに行けなかったり、コンサル業務を行うクライアント先のニュースを知らずに苦い思いをしたり。

そんな背景から、個人の興味を深く理解し、それに合う情報を持って来るサービスを作ろうと考えるようになっていきました。この分野なら自分の培って来た技術を利用できるし、このアイデアに決まってからは、周りに人が集まり勢いが着いていく感覚もありました。

そして、2013年5月、31歳のタイミングで白ヤギコーポレーションを創業し、気になるテーマを追えるキュレーションアプリ「カメリオ」をリリースしました。

深く知ることで、人生を豊かにする


会社を立ち上げてからは、運良くインキュベーターやベンチャーキャピタルの方の支援にも恵まれ、「カメリオ」は2014年のAppStoreベストアプリにも選んでいただくことが出来ました。

現在は、サービスをより使いやすくしていく改善に加え、ビジネス化にも力を入れて取り組んでいます。良いサービスであるためには経済的な循環を生み出すことが必要ですし、そのためにはどのような方法が良いのか、色々と検証も進めています。やはり、営業の会社ではないので、これからも強みとするテクノロジーの部分を活かして事業を作っていければと考えています。

最終的には「深く知ることで、生きることを豊かにする」というビジョンを達成することが目標です。そのためにも、情報収集段階ではなく、その後の情報を利用する段階に重きが置かれるような社会にしていきたいですね。

また、個人としては、いいチームを作り大きなことを成し遂げていくためにも、もっと自分を磨かなければという気持ちです。昔から「賢さ」に憧れを抱きながらも、正しいことを言っても人が動かないケースは多々あり、逆に理屈でなく人を動かしてしまうこともあります。最近、人は信じていると動くんじゃないかという思いがあるので、賢さは追い求めつつも、信じてもらえるような人間になっていきたいですね。

2015.05.30

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