イキイキした高齢者を増やすため巣鴨から出発!認知症による悲しみを、少しでも減らすために。
【共同創業の選択特集】第一弾は、イキイキと自分らしく生きる高齢者を増やすため、「おばあちゃんの原宿」巣鴨にてお休み処を経営する「株式会社よかクリエイト」の木村さん。祖父が創った会社を3代目として継ぐ道と、自分自身が感じた「認知症」の課題を解決する道で悩みながらも、一歩ずつ前に進み、導き出した答えとは。木村さんの半生を伺いました。
木村 亮太
きむら りょうた|イキイキとした高齢者を増やす
株式会社よかクリエイト共同創業者。巣鴨にて「お休み処 かもてなし」を運営する。
親の会社を継ぐのか、それとも自分の道を探すのか
私は東京都の小平市で育ちました。祖父は食品会社の創業者、父はその会社の二代目社長として働いていました。そのため、長男である私は、直接言われることはないものの、将来は会社を継ぐものだと思っていました。
しかし、高校に入った頃から、音楽の教師になりたいと考えるようになりました。高校の音楽の授業が、中学時代と比べてあまりにも面白くなかったんです。地元の中学校は、合唱コンクールが近づくと、やんちゃな子でも気合いを入れて練習に臨むぐらい合唱が盛んでした。しかし、高校では授業には参加せず歌わない人ばかり。その姿を見て、将来、音楽教師になって「歌う楽しさ」を伝える仕事がしたいと考えるようになったんです。
ただ、その時私はラグビー部に所属していました。ラグビーを始めると、突き指をしていることが多く、小さい頃から続けていたピアノはほとんど弾けなくなっていました。また、音楽教師になるためには、ピアノ以外にも副科として別の楽器の演奏や、楽典など専門的な知識が必要でした。
そこで、高校2年生の夏に吹奏楽部に転部することに決めたんです。それからは、センター試験と実技試験に向けて、勉強と練習に励みました。
しかし、センター試験の7科目に加え、音楽専門科目の勉強をしながら、楽器や歌の練習をする日々。どうしても集中力が散漫になってしまう現実に、焦りを感じていました。さらに、業績が振るわない状態が続いていた実家の会社が、運悪く食中毒のニュースによる煽りを受け、浪人の選択肢も考えづらい経済状況に陥りました。
そんな最中で受けた3年生の夏の模試は、目標から遠い結果に終わってしまったんです。このことが、改めて将来のことを考える機会となりました。立ち止まると、ふと「このまま音楽教師の道に進んでいいのか?」という疑問が湧いてきました。もちろん、音楽の楽しさを伝えたい気持ちはありましたが、一生をかけてやっていきたいのかと言うと、それは違うんじゃないかと。
そして、考えた末、やはり父の会社を継ぐ道に進むことに決めました。これまで父は何も言わずに自由にさせてくれましたが、経営一家の長男として育ったことで、経営者としての人生を少なからず意識していたのかも知れません。それが自分の生きていく道として、一番しっくり来ていました。
認知症は社会で最も残酷な病気だと感じる
そして、3年生の秋に急遽、志望校を一般の大学に変更し、それまでにないほど集中して、一心不乱に受験勉強に打ち込むようになりました。しかし、結果的には、志望校に合格することができませんでした。そのショックは大きく、2日間ほどベッドの上で、天井を見上げながらぼーっとする時間を過ごすほどでした。
大学入学後は、窮地に陥っていた実家の会社もなんとか持ち直したので、仮面浪人で次の年も受験させてもらおうと考えていました。そのため、受験勉強に役立ちそうな教養科目、経営学を学べる専門科目、どちらにも力を抜かず、ほぼ全ての授業に真面目に出席していました。
そして、頑張った甲斐もあり、1年目の終わりには奨学金をもらえる成績優秀者に選ばれ、自信に繋がりました。また、学業以外の学生生活も充実していたので、次第に再受験したい気持ちは薄れていきました。
一方で、座学で学ぶことが果たして経営の現場で活きるのかと、2年生の途中から疑問を感じるようにもなっていました。ちょうどその頃、学外の団体である「起業サークル」に出会いました。座学ではなく、ビジネスを実践してみようという考え方に興味を持ち、すぐに所属することにしました。
その直後となる2年生の終わり頃、祖母が亡くなりました。亡くなる数日前から危篤の連絡を受けていたため、近親者はみんな集まることができました。そのこと自体は良かったのですが、祖母は認知症がひどく悪化した状態だったので、最期の瞬間になっても、人生の思い出を振り返ることもできず、ベッドの周りを囲む家族のことさえも分からなかったんです。
「ありがとう」とも、「楽しかった」とも言えずに、息を引き取って行く祖母を目の当たりにし、言葉では表しようのない衝撃を受けました。この時、生きながらに記憶を失っていく認知症は、人が患う病気の中で最も残酷なのではないかと感じました。
力をつける道か、それとも志す道に進むのか
祖母が亡くなったことがきっかけで、認知症に対して問題意識を持つようになりました。国内だけでも何百万人のお年寄りが認知症と診断され、それによって悲しむ人は何千万人いるんだろうと。そして、「認知症による悲しみを世の中から減らす」ことに少しでも貢献したいという気持ちが強まっていきました。
そこで、起業サークルでは3年生の春から、認知症をテーマにした活動に取り組み始めました。何の知識も力もない大学生ではありましたが、それでも何かできることはないかと、介護現場の声も聴きながら考え始めるようになりました。
一方で、就職活動の時期も迎えていました。父の食品会社を継ぐ気持ちは変わっていなかったので、将来に繋がりそうな、食品メーカーや食品系の専門商社、中小企業向けのコンサルティング企業などを中心に就職活動をしていきました。
ところが、最終的に選んだ会社は、あるITベンチャー企業でした。なんとなく参加した社長座談会で、直観的に「この会社に入りたい」と思ったんです。事業内容も人もとても魅力的に感じ、シンプルに面白い人と一緒に面白い仕事をしたい。そうすれば、自然にビジネスパーソンとしての力もつくだろうと考え、入社を決心しました。
しかし、4年生になり、起業サークルで進めていた活動が形になるに連れて、心が揺らいでいきました。起業サークルでは、高齢者や介護に携わる人たちがコミュニケーションツールとして使えるようなフリーペーパーを発行していたのですが、関心は認知症のみならず、介護業界や高齢社会における生きがいなど、より大きなテーマにまで広がっていきました。
そして、4年生の冬には、入社予定だった会社の内定辞退まで考えるようになっていました。ただ、その会社で働きたい気持ちは変わっていなかったし、勤めながらでも並行して自分のプロジェクトを立ち上げる道もあるとアドバイスをもらい、一旦は入社することにしました。働きながら、高齢者の生きがいに繋がるような活動をしていきたいと思っていたんです。
介護現場でのミクロな視点と、シンクタンクでのマクロな視点
新卒で入った会社は思った通り楽しく仕事ができました。しかし、仕事にのめり込むほど視野は狭くなり、高齢社会に関する情報は、ほとんど頭に入って来なくなっていました。
ただ、1年目の秋頃から、「高齢者の生きがいづくり」という同じ志を持つ人達と一緒にプロジェクトを始めたことで、本当に自分がやりたかったことを思い出しました。そして、そのプロジェクトを事業化することに専念するため、1年で会社を辞めることにしたんです。
しかし、事業をつくっていく中で、自分はチームメンバーと考え方が少し違うと感じ始め、会社を辞める頃には、そのチームからも抜けることにしていました。また、介護業界で事業をつくるには、現場の実状を知る必要があると痛感したので、一度介護現場で働くことを決めたんです。
ただ、現場経験のみではまた視野が狭くなってしまいがちなので、高齢社会の実情を俯瞰できたら良いなと、社会企業家のネットワーキング等の活動を行っているシンクタンクでも並行して働かせてもらうことにしました。
介護の仕事は1年間、現場職員として夜勤などもこなし、様々な課題を間近で感じることができました。また、シンクタンクの仕事も、自分にはない視点で社会を捉えることができ、こちらは1年4ヶ月ほど働かせてもらいました。
そして、短い期間ではありましたが、様々な経験を踏まえ、2014年の秋頃から自分自身が何をしていくかを考え始めました。何歳になっても「イキイキと自分らしく生きる高齢者」が増えて欲しい。そのために、介護の現場でできることもあったはずです。ただ、私は、介護を受ける必要もないくらい元気な人を増やしたいと考えるようになっていました。
高齢者とリアルな接点を持てる場所を作る
色々な手段が考えられる中で、「インターネット」は重要だと考えていました。インターネットを使えば、これまで知らなかった情報や世界に触れることができ、テレビや新聞など従来のメディアと比較すると、自然と主体的に何かを選択する機会が増えるだろうと。
また、「人との繋がり」も大切なキーワードだと感じていました。コミュニケーションツールがスマートフォンやタブレットに移行したことで、電話や手紙しか使うことができない高齢者は、どうしても社会から取り残されてしまいがちです。インターネットを使いこなせるようになることで、社会や家族など、人との繋がりを今よりも密にできるんじゃないかと考えました。
そして、高齢者に「インターネットの便利さ・楽しさを伝える」という1つの方向性を定め、高齢者向けパソコン教室の講師を経験しつつ、新卒で入った会社の同期と2人で創業することも決まり、具体的な事業内容を考えるようになりました。
ただ、アイディアはあっても「絶対にこれだ」と言えるものは思い浮かびませんでした。そこで、まずは高齢者との接点を持つため、実店舗を持つことにしたんです。
何をやるにも知ってもらうための接点が必要だし、逆に接点があれば、シニアマーケティングリサーチなどのBtoB事業を展開しながら、高齢者に求められていることを知ることができると。また、場所があれば、インターネットの楽しさを伝える教室なんかもできますし。
そして、2015年3月に、「おばあちゃんの原宿」巣鴨に「お休み処 かもてなし」をオープンしました。メニューの一つ、巣鴨のイメージキャラクター「すがもん」を冠した「すがもんのおしりまん」は、巣鴨の新名物を目指しています。その目的は、商店街を今よりもさらに盛り上げていくこと、そして、メディアに取り上げてもらうことで集客に困らないお店にしていくことです。
今後はかもてなしを高齢者が集まるオアシスとしていき、直接の接点があるからこそできるマーケティング事業や、スマホ・タブレット教室等も始めたいと考えています。お店は始めたばかりですが、思い描いていた空間が作れる瞬間もあり、手応えはあります。3年ほどで会社として安定した基盤を作り、掲げているミッション「最期まで咲き誇る人生を」に沿い、高齢者に求められる事業をたくさん立ち上げていきたいと考えています。
そして、いつまでも自分らしく生きがいを持って暮らせる社会をつくることで、間接的ではありますが、認知症による悲しみが少しでも減ったら良いな、と思っています。
共同創業者、柿沼さんのanother life.はこちら
2015.05.27