幸せになる鍵は、デンマークの成人教育にあり?「フォルケホイスコーレ」を日本にも広げたい。
デンマークで「自分と向き合うための成人教育」として広く親しまれている「フォルケホイスコーレ」を日本に広める活動を行う山本さん。日本で社会人生活を送りつつも、やりがいを感じられずに悩んでいた時に出会った一冊の本とは。フォルケホイスコーレの生徒、教師をどちらも経験した後、改めて研究のためにデンマークで学生となった山本さんにお話を伺いました。
山本 勇輝
やまもと ゆうき|デンマークの成人教育を日本に伝える
デンマークの成人教育「フォルケホイスコーレ」を日本に伝えるための活動を行う。
大学生活をこのまま終われないと、留学を決意
私は高知県で生まれました。サッカー少年で、将来はプロ選手になりたいと思っていました。ただ、中学生になる頃には現実が見えてきて、徐々にその夢は失っていきました。
高校生になると、友達の影響でブレイクダンスを始めました。夢中になり、毎日ビデオをコマ送りで見て技を練習しましたね。
しかし、ダンサーになることは想像していませんでした。かと言って他になりたいものはなく、具体的な将来像は考えていなかったんです。ただ、親には大学は出た方がいいと言われたこともあり、卒業後は大阪の大学に進学しました。
大学ではサークルでダンスをしたり、友達と麻雀をしたり、パチンコをしたりと、自由に過ごしていました。
そして、3年生の夏休みに、1ヶ月ほどアメリカのロサンゼルスに留学に行くことにしました。学校に留学生が多かったので、英語を喋れるようになりたいと思っていたし、エンターテイメントの中心地で本場のダンスを見たいと思ったんです。
現地では路上で踊っているおじさんもいて、「この人将来に不安はないのかな?」と思うほど、みんなのびのびと生きているのを感じることができました。英語はできなかったのですが、ダンスやサッカーを使ってコミュニケーションすることで、さほど問題はありませんでしたね。
ただ、帰国してから留学生と遊ぶ機会が増えると、もっと英語を勉強したいと考えるようになりました。英語が話せたら、より多くの人と話せると。そこで、4年生になる時に休学して、アメリカ留学を決意したんです。
周りの友達は就職活動をしていたので、取り残される感覚や、最後の1年を一緒に遊べない寂しさはありました。しかし、このまま何も残さないまま大学生活を終わるわけにはいかないと考えていたんです。そして、黒人差別にについて卒業論文を書きたいと思っていたので、アトランタに行くことにしました。
英語を使う仕事の理想と現実のギャップ
私が行った地域は、黒人ばかりでアジア人すらほとんどいない地域でした。そのため、常に「よそ者である」という視線を感じていました。しかし、私はダンスをやっていて、服装が現地の人たちと似ていたこともあって、仲良くしてもらうことができました。
留学中はステイ先の家を追い出されたり、泊めてもらっていた友人が帰国してしまったりと様々な問題も起きましたが、その分英語は上達しましたね。ただ、彼女が日本にいたこともあり、就職は日本でしようと考えていました。
そして1年で帰国した後は、「英語を使える」ことを軸に仕事を探し、国際貿易に関わる会社に就職が決まりました。しかし、研修の時点で、「この会社は合わないかもしれない」と思い始めていました。毎朝社歌を歌ったり、お辞儀の角度まで確認される社風に違和感があったんです。
主な仕事内容は、空港で輸出・輸入するための税関書類を作成することでした。パソコンを使った細かい作業は苦手だったし、単純な作業でもあったので、「もっと自分にしかできない方法で社会に貢献できるのではないか」と思っていましたね。
仕事にやりがいは感じておらず、毎日家では愚痴をこぼしてばかりでした。正直、将来子どもに見せたいと思える姿ではなく、なりたくない大人になっていたんです。
しかし、1年目の終わりには結婚したので、簡単に仕事を辞めるわけにはいきませんでした。また、5年ほど働くと海外研修に行くチャンスがあることを知っていたので、それを希望にしていました。
デンマークの「フォルケホイスコーレ」を体験したい
そんな時、友人から『世界一幸福な国デンマークの暮らし方』という本が送られてきました。普段はあまり本は読まない方でした。ただ、せっかく送ってもらったし、満員電車の中で気を紛らわそうかと読み始めると、どんどんデンマークに興味が湧いていったんです。
デンマーク国民の幸せを支える社会制度。その中でも、「フォルケホイスコーレ」と言う、成人教育の仕組みに惹かれていきました。
これは、民衆のための教育期間で、日本でいう私立大学に近いものです。ただ、単位や資格を取れる場所ではなく、「実生活に活きる教育」が掲げられていて、自分を見つめなおすような場所。そんな学校は日本にはなかったので、学校生活を実際に体験してみたいと思うようになっていったんです。
ただ、仕事を辞めてデンマークの学校に行くなんて、嫁からは当然反対されていました。しかし、仕事は限界でした。情けない話、家に帰ると自然と涙が出てくることすらあったんです。そんな状況を見かねてか、ついに嫁からも許可をもらうことができました。
そこで、3年半働いた会社を辞めて、26歳にしてデンマークのフォルケホイスコーレに行くことにしたんです。4ヶ月寮生活をするプログラムだったので、その先のことは期間中に考えようと思っていました。
実際に学校に行き始めると、そこには16カ国もの人が集まっていて、毎日知らない国の人の話を聞けるのが面白かったですね。また、自分と向き合う場なので、夕方には学校は終わり、自由な時間はたくさんありました。
ただ、嫁を日本に残してデンマークに来た身としては、時間があるからといって遊ぶわけには行かないと思い、ひたすら何かを勉強していました。常に、「何か掴まなければ」とプレッシャーに追われていたんです。
デンマークをより深く知るための選択
2ヶ月ほどそんな生活を続けた時、1人のデンマーク人と出会いました。私たちは英語でのクラスにいたので、デンマーク人は同じクラスにいませんでしたが、食堂や学校全体のアクティビティで顔を合わせるうちに打ち解けていったんです。
彼は、ネパール人の友人がサッカーをしている姿を見て、「プロになる実力があるかもしれない」「しかし、実力があってもサッカーの知識が足りない」と考えて、私にサッカーのコーチをしようと持ちかけてきたました。彼が監督、私がコーチでそのネパール人選手をプロ選手にしようと。(笑)
一緒にそのプロジェクトを進めていくうちに、30代半ばに差しかかりつつも、自分の夢を追いかける彼の生き方に惹かれていきました。そして彼と過ごしていくうちに、デンマーク生活でのプレッシャーから開放され、自由な時間をどう過ごすのか少しずつ分かっていき、「生きること」を学べたんです。私にとって、彼はデンマーク生活を変えてくれた恩人でした。
そして4ヶ月の生活が終わった時、改めて今後何をしていきたいか考えました。すると、このフォルケホイコーレやデンマークの価値観を、日本に伝えたいと沸き上がってきました。ただ、そのためにはまだデンマークのことを知らなさすぎる。そこで、ワーキングホリデーのビザで滞在できるかぎりは学び続けることにしたんです。
しかし、なかなか仕事は見つかりませんでした。そんな時、先生から、学校で働かないかと誘ってもらえたんです。そしてまずは食事作りや雑用から始め、次第に教師としてフォルケホイスコーレを運営する側に回ることができました。
ただ、ワーキングホリーで終了後は教師の仕事でビザを取るのが難しいことが分かりました。それでもまだデンマークで学びたかったので、また生徒として別のフォルケホイスコーレに通うことにしたんです。
日本にデンマークの価値観を伝えていきたい
現在も、一生徒として、フォルケホイスコーレについて学んでいます。しばらくはデンマークで学校に通いつつ仕組みを学び、将来的には日本にこの仕組を導入できればと思っています。
実際に自分で体験してみて、社会に出る前に「自分のことを考える時間」を持つことが日本人にも必要だと感じています。私もそうでしたが、日本では多くの人が社会のレールに乗り続けてきて、立ち止まること無くそのまま社会人として働き始めています。
しかし、幸せとは「社会が決めるもの」ではなく、あくまで「自分で決めるもの」で、社会が決めたレールに乗っていれば幸せになれるとは限りません。そのため、自分が何をしたいのか考えることは、非常に大切だと思うんです。特に、仕事は生活の中で多くの割合を占め、幸せに大きく寄与するもなのでなおさらです。
フォルケホイスコーレには試験はないし、そのため、資格も学位も取れません。その分、プレッシャーをあまり感じずに、現実社会で生きる力をつけることができます。この仕組を日本にも導入することで、日本の多くの人がより幸せを見つけられる社会にできればと思います。
また、デンマークの人たちの幸せへの価値観や、人への優しさなども伝えていきたいと考えています。
日本ではデンマークのことがあまり知られていないので、現在は「IFAS(アイファス)」「MADO-Berlin(マドベルリン)」「MADO-kalø Denmark(マドカロエデンマーク)」という3つの団体で情報発信を行っています。
奇しくも、このフォルケホイスコーレの概念を提唱した人と私は同じ誕生日なんですよね。その点からも、日本に伝えていくことが使命だとすら感じています。
そして、私ができたように、多くの人が自分の幸せになる方法を見つけられるように、デンマークの価値観を伝えていけたらと思います。
2015.05.26