世界中で誰もが楽しく学べる場所を!筆文字イラストで、楽しく分かりやすく。

佐賀県武雄市に住み、筆で文字とイラストを使ってその場の講演・会議、イベントの内容等を描く「グラフィックレコーダー」を広める活動や、パソコンやカルチャー教室「ひだまりOKKO堂」を経営する矢野さん。「楽しく学べる場をつくる」とミッションを掲げる背景には、どんな経験があったのか。武雄市の異端児と呼ばれる矢野さんにお話を伺いました。

矢野 億子

やの やすこ|楽しく学べる場を作る
佐賀県武雄市のパソコンやカルチャー教室「ひだまりOKKO堂」を経営する。

【クラウドファンディングに挑戦中】日本文化をNYで発信!楽しく「筆文字絵巻」作りを体験してもらうプロジェクト!

絵は好きだけど、数字の意味が理解できなかった


私は佐賀県で生まれました。昔から他の人と違うことをして目立ってしまうことが多く、親からは「目立たないようにして」と言われ、極力自分を隠すように生きていました。

小さい頃から絵を描くのが好きで、チラシの裏にいつも何かを描いていました。逆に、算数が大の苦手で「1+1」すら分かりませんでした。数字の意味が分からなかったんです。分からないことが苦痛で泣きながら計算問題に取り組み、好きでもないことを無理やり学ばされることに違和感を持っていました。

そのため、とにかく計算式と答えを暗記するようにしていたのですが、4年生の時に出会った先生が算数のポイントを教えてくれると、数字の意味が理解できました。そして0点だったテストでも100点を取れるようになったんです。この時、伝え方次第で、相手にとって学びは楽しいものになるし、楽しいと思いながら取り組めば学びも深くなることを身をもって感じました。

ただ、10歳の時に父が亡くなり母子家庭で育ったため、早く働いて自立したいと考えるようになり、「人に何かを教える仕事をしたい」とは思いませんでした。とにかく働こうと。そして高校卒業後は大阪の信用金庫に就職しました。

有限な人生だからこそ、常に学び楽しく過ごしたい


信用金庫ではそれまで知らなかったお金の知識を学び、「きちんと仕事をする」ことの基礎を学びました。そして3年ほど働いた時に結婚して妊娠したのですが、流産しました。子どもを欲しいと思っていたのでショックは大きく、少し落ち着いた生活をしたいと思い、信用金庫の仕事を辞めて夫の転勤先の神奈川県に引っ越すことにしました。

神奈川では県庁で事務の補助をする仕事を始めましたが、関西弁が抜けきらなかったこともあり、一層目立たないようにおとなしくしていました。

しかし、ある時、既に定年退職していた先輩たちと話す機会があり、「なんで喋らないの?」と聞かれました。私は関西弁だし、他の人と違うことを言ってしまうから喋らないようにしていることを話すと、「そんな事気にしないで、自分を出しなよ」と言ってもらえたんです。この言葉を聞いてから、「自分を隠すのは止めよう」と思い、それ以降は周りが驚くほど、自分を出していくようになりました。

しかし、24歳の時、成人を迎えたばかりの弟が車の事故で他界。恋人に間違われるほど仲が良かった弟を亡くした私は、どうして自分はこうも不幸が続くのだろうと、悲しい気持ちで精神的にかなり落ち込みました。

ただ、次第にこれもすべて与えてもらった学びだと考えるようになりました。 父も、初めての子どもも、弟も、みんな若くして命を落としました。このことから、いつ死ぬような事になっても後悔しないように、やりたいと思ったことは躊躇なくやってみよう。何からでも学び、貴重な時間を楽しく過ごそうと考えるようになったんです。

いつでも気軽に相談できる場所を作るため、独立する


その後、2人の子どもに恵まれました。また、趣味で描き続けていたイラストが仕事につながり、子育てや介護の情報誌で4コマ漫画を描いていました。本格的に絵を学んだわけではありませんでしたが、出会いとタイミング次第で仕事にもなるんだと学び、時々仕事を受けながらのんびり暮らしていました。

しかし30歳の時に夫と別居、子ども2人を連れて佐賀に帰省。自分はこの場所で何の仕事ができるかを考えた時、浮かんだのはパソコンを教えることでした。

私はパソコンを専門的に学んだわけでありませんが高校生の時から好きで使っており、信用金庫を退職した後に、知り合いに教えてもらっていました。そして私が暮らす武雄市にはパソコン教室がなかったので、行政や個人の依頼でパソコン講師としての仕事を始めたんです。

私は教える自信や高度なスキルがあったわけではないのですが、初めてで困っている人に寄り添うことはできました。パソコンに触ったことがなく「壊したらどうしよう」と不安に思っている人が安心できるように、些細な事でも気軽に質問してもらえるように、楽しく学べる場を意識して授業を行いました。 また、パソコン教室以外でも、利用者の方が「自治会のチラシを作りたい」等と言われれば、気軽に相談にのっていました。

ただ、教室と言っても決まった場所があるわけではなく、公民館などに教えに行く形だったので、「パソコンで困っている人がいつでも相談できる」状況ではありませんでした。そこで、丁度売りに出されていた格安の土地と建物を買って、自分で教室をつくることに決めました。

借金をして土地を買ったので、お客様が来なかったらどうしよう等と不安はありましたが、何よりもこの場所で必要とされていることだと思ったので、決断できたんです。

自分にしかできないかもしれない「グラフィックレコーダー」


そして、「ひだまりOKKO堂」を立ち上げ、パソコン教室を始めました。また、パソコンだけだと来づらい人もいると考え、チョークアートや羊毛手芸の教室も始めることにしました。絵や手芸などは、私自身が多趣味で色々やっていたものの中で、「教えて欲しい」と言われたものを教室のメニューとして教えていくことにしたんです。

将来は色々なことを学べるカルチャー教室にしたいとも考えていて、パソコンという左脳的なものと、イメージしながら手を動かす右脳的なもの、どちらも学べる場を目指していました。私ができるのなら他の人もできるだろうと思っていました。

そうやって色々な教室を展開するようになっていたのですが、その中でも私が個人的に描いていた「筆ペンで描く絵日記」は、真似できないと言われていました。

筆ペンを使ってイラストでその日の出来事を日記として描いていて、講演等に行った時も、その内容を何枚かのイラストでまとめていたんです。 それをSNS等で公開していると、「分かりやすい」「面白い」と言ってもらえることが多く、ある時自分のしている事が、「グラフィックレーコーダー」と呼ばれる技術と教えてもらいました。

次第に、「自分にしかできないものなんだ」と思うようになり、自分しかできないことで、他の人が楽しく分かりやすく学べる道具になるならと、色々な講演に行き、グラフィックレコーダーを描いて回ることにしたんです。

筆文字絵巻物を使い海外で日本文化を楽しく教える


現在、ひだまりOKKO堂での教室はできるだけスタッフの人に任せながら、私はグラフィックレコーダーを多くの人に知ってもらうため、様々な場所に繰り出しています。グラフィックレコーダーは、子どもが勉強するときなど、普通にノートを取るよりも右脳に働きかけ、記憶に残り、効率良く、楽しく学べる技術なので、多くの人に知ってもらいたいと考えています。

そして、2014年の12月に「クラウドファンディング」の仕組みを知り、「筆で文字とイラストを描く」体験をニューヨークで開催するためのプロジェクトを立ち上げることにしました。

海外には、ひだまりOKKO堂を立ち上げた時から行きたいと考えていました。「人が楽しく学んでいる風景」を海外でも実現している夢を見た時に、いつか海外に行くと思っていたんです。言葉や国に関係なく、「互いに学ぶ楽しさ」を伝えていきたいと。そして、私の得意な筆文字と筆イラスト、巻物を掛けあわせた「筆文字絵巻」を一緒に描くことで、日本文化自体を楽しく学んでももらえると思ったんです。

海外に行くのはもっと先になるかと思っていましたが、これを機にどんどん進出していきたいと考えています。そして、世界中で楽しく学べる場所を作っていきたいです。

楽しく学ぶためには教える側もパワーが必要なので、常に自分自身も楽しい時間を過ごすことを心がけています。また、お互いが教えあう空間が好きなので、交流会なども頻繁に開催しています。

私は田舎暮しのシングルマザーで44歳だからと諦めないで、自分がやりたいと思ったことにどんどん挑戦していきたいです。こんな自分の姿を見て、「自分にもできるかも!」と色んな挑戦を志す人が増えたら嬉しいです。

いつ終わるか分からない人生。貴重な時間を常に楽しみ、学びながら、これからも様々な挑戦をしていきます。

2015.05.10

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