競泳、勉強で挫折した僕が見つけた勝てる場所。新市場、フィンスイミングでの挑戦。
出版社に勤める傍ら、足ひれを装着して行う水泳競技「フィンスイミング」日本代表選手である柿添さん。小さい頃から目指していた医者になる道と、高校時代から熱中した水泳の道。どちらも諦めることになったものの、新しいステージで日本代表を目指すまでにはどのような背景があったのか、お話を伺いました。
柿添 武文
かきぞえ たけふみ|フィンスイミング日本代表
出版社で働きながら、フィンスイミング選手として活動する。
医者以外の選択肢が頭に浮かばなかった
私は三重県で生まれました。
喘息やアトピー持ちだったので、2歳の頃から水泳を始めました。
ある時、骨折をしてしまってからは水泳を辞めていたのですが、
妹が選手コースに入ったのをきっかけに再開し、7歳の頃からは競泳を始めました。
父は高卒で工場勤務のサラリーマンでした。
そのため、私にとってサラリーマンの仕事とは「工場で働くこと」だったので、
父のことは好きでしたが、サラリーマンにはなりたくないと思っていました。
そして、仲良しだった従兄弟が医学部に通っていた影響で、私も医者を目指すようになりました。
サラリーマン以外の職業といえば、医者くらいしか選択肢に浮かばなかったんです。
そのため、高校も県内一の進学校に行くことにして、
大学受験のため、競泳は高校1年生で辞めようと考えていました。
ところが、1年生の冬頃から結果が突然伸び始めました。
それまでは身体が小さかったこともあり、良くても県の大会で上位に残る程度だったのに、
県の強化合宿に初めて呼ばれた後に1割程タイムが縮んで、全国大会に出場することができたんです。
結果が出るとめり込んでいき、2年生の時には全国ジュニアオリンピックの「B決勝」にまで残り、
3年生では国体で決勝に進み8位となり、ジュニアオリンピックで3位となり初めて全国の表彰台に登ることができました。
ただ、マイナースポーツである競泳だけで生活をするのは難しいし、かと言って体育教師になりたいとも思っていなかったので、
将来、医者になりたいという気持ちは変わっていませんでした。
しかし、現実的に現役で医学部に進める学力でもありませんでした。
そんな時、競泳の強豪校である筑波大学に通う先輩に、競泳部に誘われたんです。
そして、競泳は一生できる競技でもないし、高校3年間タイムが伸び続けた自分の可能性を試したいと思い、
大学でも競泳に打ち込むことに決めました。
それでも、4年生で引退した後は、医学部を受験し直して、医者になろうと考えていましたね。
圧倒的な才能の差を感じた大学時代
大学での目標はオリンピック出場を掲げていました。
しかし、部活に入った瞬間、周りの選手との才能の差を感じてしまいました。
同じくらいの身長の人であっても泳ぎのスケールが違いすぎ、正直「化け物か」と思うほどで、
私では到底敵わないことを悟ってしまったんです。
そこで、ここ数年は準優勝に留まっていた大学選手権で得点となるような成果を出し、
チーム優勝に貢献することを新たな目標にしました。
しかし、1年目では大学選手権に出られたものの、得点になる成績は出せず、
2年目にはメンバー落ちして出場すらできませんでした。
それも、自分の方が実力が上だと思っていた後輩に、0.3秒ほどの差で負けてしまったんです。
その後、大学選手権前の1ヶ月は、出場メンバー以外はサポートに徹しなければならず、
大会に出られないのであれば意味がないと、部活を辞めようともしました。
結局、他のメンバーからの説得もあり、部活を続けることにしましたが、
3年の大学選手権でも、得点になるような結果を出すことはできませんでした。
そして、3年生の終わり頃に会いに来てくれた父に、
「まだ医者になりたいのか?だったら切り替えたほうがいいぞ、いつまで競泳を続けるんだ」
と言われてしまったんです。
それまでずっと応援してくれていた父に言われてしまったことで、さすがに続けられないと思うようになり、
それ以降は練習に行けなくなってしまい、ずるずると部活から消えていきました。
自分が知らなかったサラリーマン像を初めて知る
その後は医学部受験のため、勉強に集中していきました。
大学を卒業する次の年の受験に焦点を当て、卒業後は実家に戻って勉強する日々を過ごしました。
ただ、4つ下の弟も浪人していたのですが、その優秀さに、また才能の差を見せつけられていました。
元々、父も含めて何か1つのことに取り組み始めるとのめり込む性格の一家で、
弟も高校まで所属していたハンドボール部を引退し、浪人生活を始めると、全国模試でも1位を取るような成績だったんです。
そして、浪人生活の末、弟は志望の大学に合格しましたが、私は不合格でした。
ここで諦めるわけにもいかず、もう1年浪人することに決め、
さすがに実家に居づらかったこともあり、京都の友達と同居して2年目の浪人生活を始めることにしました。
相変わらず勉強に明け暮れる日々でしたが、就職した同世代の友達と会う機会もありました。
すると、それまでに私の描いていたサラリーマン像とはまるで違う生活をしていることが分かったんです。
大手メーカーに入って3ヶ月で主任になり、エリート街道を進んでいたり、
外資系証券会社に入って、想像もできないような仕事を任されている話を聞き、衝撃を受けました。
サラリーマンの働き方にも色々あるんだ、と。
そして、元々他の選択肢を知らなかったから医者を目指していたのも大きく、
サラリーマンとしてもやりがいがあるなら、医者じゃなくてもいいと思ったんです。
そこで、受験ではなく就職活動に切り替えることにして、最終的に出版社で働くことが決まりました。
フィンスイミングなら勝てるかもしれない
入社後は新規事業に取り組む忙しい部署に配属され、毎日遅くまで仕事する生活が始まりました。
他にやることもなかったし、仕事に打ち込むのは楽しかったですね。
忙しいと言っても、大学の部活より大変ではなかったし、ここで自分が負けてしまったら、
「水泳をやっていた人は大したことない」と思われるのも嫌で、がむしゃらに取り組んでいきました。
しかし、そんな数年が生活が続くと、不摂生が続き、部活に入っていた時と比べて17キロも太ってしまいました。
そして、会社の先輩に「太り過ぎ」と言われ、仕事が少し落ち着いてきたこともあり、
ダイエットのために水泳を始めることにしました。
すると、やり始めると打ち込んでしまう性格が出てきて、どんどん練習量も増えていきました。
特に、大学時代の友達と「マスターズ」の大会に出ることにすると、その勢いはどんどん加速していき、
週に5日も泳ぐようになっていったんです。
そして、一緒に練習していた仲間の影響で、足ひれを装着して行う「フィンスイミング」も少しずつ始めました。
特別な練習はしていなかったので、2010年に初めて出た大会ではルールを守れず失格になるほどでしたが、
翌年の夏に出た大会では2位になることができ、その年の年末に開催された日本代表選手も参加する強化合宿に呼んでもらえたんです。
そこで、初めて日本のフィンスイミングのトップの選手と一緒に練習してみて、
「これなら自分も日本代表を狙えそう」と思ったのが正直な感想でした。
大学の部活に比べて練習量も圧倒的に少ないし、まだノウハウや練習方法も確立されていなかったので、
今までの経験を活かせば、自分でも勝てるだろうと。
それからは熱が入り、すべての練習をフィンスイミングに充てることにしました。
翌年2013年に照準を合わせて練習を重ね、自分自身へのプレッシャーをかける意味と、
今後、世界を目指す後輩の参考になればと思い、Facebookページで日々の練習メニューを公開することにしました。
そして1年後の大会で日本新記録で優勝し、日本代表になることができたんです。
アスリートの固定概念を壊したい
今も昼間は会社で働きつつ、就業後週に6日くらいはフィンスイミングの練習をしています。
フィンスイミングの場合、基本的にはプールのコースを貸し切る必要があるため、チームの垣根なく様々な人と一緒に練習をしていて、
プールが借りられない日はウェイトトレーニングや、競泳の練習をしています。
フィンスイミングは競泳と比べて「スピードが早い」という競技の魅力がありますが、
私はそれ以上に、まだ日本で発展途中のスポーツであることに魅力を感じています。
コーチや練習メニュー、理論など確立されていないので、自分たちで考えてパイオニアになることができるんです。
まずは大学時代に培った練習ノウハウをフィンスイミングにも適用して実力を底上げしていきたいですね。
ただ、それだけでは限界もあり、そもそもの競技人口や注目度を高める必要もあるので、
Facebook等を活用して競技の魅力を伝える広報活動にも力を入れています。
お客さんが見て楽しいと思えるように、ルールを伝えたり、選手を紹介しています。
とは言え、鶏卵ではありませんが、やはり「日本が勝つ姿」が何よりもお客さんが楽しめる瞬間なので、
世界で勝てる実力は磨き続けていて、個人的には2016年の世界選手権に照準を合わせています。
今は、世界のトップとの差はかなり大きく、優勝選手が3分弱でゴールするところ、
日本記録だと3分14秒かかっていて、タイムでは10%も差があります。
私は現役選手としてこの差を半分にまで縮めて、後輩にバトンを繋いでいければと思います。
また、フィンスイミングにかかわらずスポーツ全体の活性化に携わっていきたいです。
特に、「アスリートはこうでなければならない」という概念を壊したいですね。
小さい頃から明確な目標を持って成功している人がメディアでは取り上げられますが、
それだけがアスリートのあり方じゃないと思うんです。
私自身、目標はその時々で変わってきたし、それでも今は日本代表になることができました。
こんな道もあることを、自分自身の姿を通して伝えていけたらと思います。
2015.03.10