「紅白に出たらどうするか、いつも考えます!」教師・芸人・歌手、夢を追い続ける原動力とは?

トラック運転手として働く傍ら、ミュージシャンとしてライブや路上ライブを定期的に行っている松安さん。大学時代は、日本体育大学の野球部に所属しながら、バンド活動とお笑い芸人の養成所を両立していたそうです。多くの夢を追いかけてきた松安さんが音楽に込める思いとは?お話を伺いました。

松安 知行

まつやす ともゆき|弾き語りミュージシャン/運送業
トラック運転手として働く傍ら、月に1、2回都内を中心にライブを行う弾き語りミュージシャンとして活動を行う。

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3月15日 東日本大震災復興支援チャリティー ライブ
新宿GOLDEN EGG (www.g-egg.info)
03-3203-0405
17時30分オープン・18時00分スタート
前売り/当日 2800円(1ドリンク付き)

「ジャーーーン」と、響いたGコードが衝撃でした


私は、大阪府の高槻市で生まれました。
物心ついた時から、歌うことが大好きで、「どこで覚えてきたの?」と言われるような、
子どもらしくない歌を大きな声で歌っていていました。
本当にいつも歌ってばかりで、下校中も歌うことが日課だったので、
母親は、夕方家にいると、遠くから僕の歌声が聞こえて「ああ帰ってきたな」と思っていたそうです。(笑)

また、小学校1年生から、少年野球も始めました。
仲間にも恵まれ、どんどん野球にのめりこんでいくようになりましたね。
しかし、小学校6年生のときに、父の転勤で引っ越すことになってしまったんです。
中学校からは、滋賀県の学校に通うことになり、
6年間続けた少年野球が続けられなくなってしまったんですよね。

好きだった野球ができないことに悔しい気持ちもありましたが、
いつかまた野球をするようになったときのために、足を鍛えようと思い、部活は陸上部に入ることに決めました。
しかし、陸上部に入ったら入ったで、陸上に熱中してしまい、
結局、高校生になっても野球部ではなく、陸上を続けることにしました。

また、高校生になってすぐのある時、バンドをやっている友達を見て、
「なんだ、これは!」と、カルチャーショックを受けたんです。
初めて見たエレキギターに強く惹かれたんですよね。

そこで、家に弦の張ってないギターがあったことを思い出して、
すぐに友達に頼んで弦を張ってもらいました。
まるで、夢の楽器を手にしたような気分で、ワクワクが止まりませんでした。

そして、初めて自分のギターを手にし、

「ジャーーーン」

というGコードを奏でた瞬間、世界が変わったような気がしました。
さらに、3つほどコードを覚えると、
あふれる気持ちを止められず、オリジナルの曲づくりを始めたんです。

それからは、恋心を込めた歌など、高校生の心情を書いた曲を作り始めました。
また、高2の文化祭では、初めて自分で作った「がんばれがんばれ」という歌を披露しました。
すると、多くの学生がコピー曲を演奏することもあり、
全校生徒から「まっちゃん!」「まっちゃん!」と歓声を浴びて、本当に気持ちよかったんです!
それを期に僕の音楽人生が、ものすごい勢いで走り始めました!

その後、高3になり、将来の進路を考えると、
続けられるものがあるとしたら、体育だなあ、学校の先生ができたらいいな〜、
とあまり深く考えず、体育が学べる日本体育大学に入学することにしました。

体育の先生をしながら、音楽を生徒に作って漫才もする


大学に入学してからは、6年間の野球への思いをぶつけようと思い、野球部に入部しました。
しかし、日体大の野球部に、少年野球しかやったことない人が入部するなんて、前代未聞のことだったんですね。(笑)
そもそも部活の練習に参加するためには、テストに合格しなければいけず、
短距離走のテストは余裕だったのですが、遠投が全く出来なかったんです。
少年野球しかやってないですから、硬球を持つことさえ初めてで、
一番最初のテストでは、判定が「記録外」、
周りからは「あいつ、故障しているんじゃないか!?」と心配されるほどでした。(笑)

そこで、入部時の「プロ野球選手になろう!」という目標を、
トレーナーとして、在学中に公式戦のベンチに入ることに変えたんです。
とはいえ、トレーナーも1人しかベンチには入ることが出来ないため、狭き門への挑戦でした。

それでも、やはり選手よりは拘束時間が短いこともあり、
部活が無い時間は、ギターばかり弾いている生活でした。
また、野球部は皆寮生活をしていたのですが、部員の誕生日会がとても盛り上がるんです。
そこで、同期の誕生日があるごとに、曲を作ってプレゼントするようになりました。
体育会の寮生活ということもあり、厳しい環境で辛いことも多かったですが、
仲間に音楽で思いを伝え、喜んでもらえるのは本当に幸せでした。

そして、ある年の日体大の学園祭で知り合いになったバンドマンの友達と、
3人でバンドを組むことになり、バンド名は、大学のある東急田園都市線の駅名をとって、
「さくらしんまち」とすることにしました。
そこには始まりの場所という意味を込め、同じ田園都市線でNHKホールのある渋谷まで行き、
いずれはそのまま、武道館のある九段下まで行こう、という夢を描いたんですよね。

また、大阪ではちょっと変わった子は、「吉本に入れ」と言われる風潮があるのですが、
僕自身も「体育の先生をやりながら、生徒全員に歌を作って紅白に出て、
歌だけでなく漫才もできたら楽しいだろうな」と思っていたので、
野球部の子とコンビを組んで、NSCの5期生として、野球・音楽に並行し、芸人を目指すことにしました。

そんな風に、お笑いとさくらしんまちの活動を続けながら、
4年生になると、寮の責任者である寮長を務め、トレーナーとしても念願のベンチ入りも果たすことができました。
「まっちゃんが学年で1番早く寮を出る」と思われていたこともあり、
この経験は本当に自信となりました。
仲間がいたから野球部を続けることができたので、本当に感謝していますし、
続けられたことが誇りにつながって、「何も怖くない!」と思いましたね。

そして、進路を考えている時期になると、
トレーナーとしての武器を増やして先生になりたいという思いから、
大学院に進学することに決めました。
将来は「先生と漫才と音楽を両立する」という夢に向かって、前向きに大忙しの日々を過ごしていました。

夢の3つが総倒れしてしまう!


しかし、実際に大学院に進学してみると、やはり両立は大変で、研究がおろそかになってしまい、
毎日疲弊してしまうようになりました。
そして、入学してから、1年ほど経ったある時、先生に疲れていないかと心配され、
一度立ち止まって考えてみると、
「体育の先生をしながら、音楽を生徒に作って漫才もする」という夢のうち、
「3つ全部が、ダメになってしまう!」と感じたんです。

また、ネタ合わせの時間が、ライブの時間と重なることも多くなり、
自然と音楽を優先していることに気がつきました。
そこで、続けたいという気持ちも持ちながらも、このままだと相手にも迷惑をかけてしまうとも感じ、
NSCを辞め、大学院も辞めることにしました。

家族に院を辞めたいと相談したときは、「あんなに勉強頑張ったのに」と、
散々家族会議をすることになりました。
そんな時、音楽を優先させたいという僕に対して、
弟が「家族だけは、夢を応援しようよ」と言ってくれて、
僕は本当にいい弟を持ったなと思いましたね…。

その後、大学院を辞めてからは、日雇いのバイトをしながら、ひたすら路上で歌を歌っていました。
事務所が決まり、高校の文化祭で歌った「がんばれがんばれ」をレコーディングしたり、
さくらしんまちとして、とても充実した日々を送っていました。

大好きな音楽活動に力を注いでいる実感


しかし、さくらしんまちの仲間が、結婚などを境に、1人ずつ減ってしまい、
気づけば、自分一人だけになってしまったんです。
それでも、いい味が出せるときまで、さくらしんまちというバンド名はしまっておこうと前向きに捉え、
それからは、自らの名前、「松安知行」として活動を続けるようになりました。

また、結婚をして、生活には言い訳をしたくなかったので、
トラックの運転手をしながら、大好きな音楽活動を続けることに決めたんです。

そうして個人で活動を行うようになったある時、野球部時代の友達が岩手県の田野畑村というところで、
学校の先生をやっている縁で、そこの学校の文化祭で歌を歌う機会がありました。
そこは全校生徒が10人くらいの学校で、岩手県の中でも秘境と言われているようなところなのですが、
その年以来、毎年行ってライブをさせてもらうようになりました。

閉校が決まったときは、閉校式にも歌いにいきましたし、
東日本大震災があったときには、
「東京から叫ぶ」というチャリティーライブを行って、義援金を村へ持っていきました。

また、東日本大震災が起こったときは、田野畑村に限らずトラックの運転手ということもあって、
すぐに緊急車両の札を警察署まで貰いにいって、物資を届けにいきました。
東北道を通過していく中で、サービスエリアで頂いたおにぎりを食べたときに、
「こんなにおいしいおにぎりは初めて」と感動したことや、
街の景色を見る中で、言葉にならない思いがこみ上げてきたので、それらを歌に込めたんです。

働きながらではありましたが、気づけば、大好きな音楽活動に対して、昔より力を注ぐことができるようになっていました。

夢が叶わなくても、いつも夢中です!


現在も、トラックの運転手をしながら月に1、2回ライブを行っています。
場所は、渋谷や新宿などの都内が中心で、路上でやることもあります。
弾き語りスタイルなので、野球部時代の同期の結婚式で歌を頼まれて歌うと、
喜んでもらえるので本当に嬉しいですね。

また、直近のライブでさくらしんまちを再結成することになったんです!
これは、今から本当に楽しみですね。

そしてこれからも、もちろん、音楽で食べていけるスーパースターになりたいと思っています。
「これから作る曲がすごくヒットして、紅白に出ることになったら、こんなことをしよう」
と常にアイデアを溜めています。(笑)
そうして、これまでお世話になった人みんなにご飯をごちそうしてあげられたらいいですね。

ただ、家族が支えてくれていて、続けられるというこの環境に感謝しているので、
「ライブして、曲を作って、色々な人に会いにいく」の3つを続けていきたいという気持ちが強いです。

また、いずれはFUJI ROCK FESTIVALのように、
あの有名な人が田野畑村に?と驚かれるような「松ロック@田野畑村」なんてできたら楽しいだろうな!と思いますし、
ファンクラブのファンの人にいつか曲を作りたいな、とも考えています。

前向きでいることが原動力になるので、夢がまだ叶わなくても、いつも夢中なんですよね。

2015.03.09

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