ビッグイシューがあるから、挑戦できる社会を!誰でも何度でも、やり直せる仕組み。

ビッグイシュー日本版の創刊メンバーであり、現在東京事務所の所長を務める佐野さん。小さい頃から多様性が「あたりまえ」の環境で育ち、アメリカ留学を経験。その後、ホームレスの自立支援に取り組むようになるまでには、どんな背景があるのか。お話を伺いました。

佐野 未来

さの みく|ホームレスの自立支援
有限会社ビッグイシュー日本東京事務所長。

色々な人がいてあたりまえの環境


私は大阪で生まれました。
両親が地域での市民活動を通じてコミュニティ誌作りをするなど、
様々な地域の問題解決に取り組む活動に積極的だったので、よく色々な人が家に来ていました。
シングルマザーの親子や夫婦別姓の人、在日3世の友人など、様々な背景を持つ人がいるのがあたりまえの環境で育ったので、
逆に学校などで「普通」「普通じゃない」と分けるような空気に違和感を感じていました。

中学校でも、窮屈さを感じていて、卒業後は国内で進学をするのではなく、海外に行きたいと漠然と考えていました。
海外特派員やフリージャーナリストの人たちが書くルポタージュなどを読むのが好きで、
その世界を肌で感じてみたいと思っていたんです。

ただ、高校は国内で出た方がいいという助言もあり、
中学卒業後は、大阪市立工芸高校の木材工芸科に進むことにしました。
普通科の勉強が苦手だったので工芸高校で興味のあった家具生産やインテリアを勉強することにしたんです。

高校では学校に来る目的をしっかり持っている同級生が多くて刺激を受けましたし、楽しく過ごせました。
そして、卒業後は念願の海外に行くために半年ほどアルバイトをしてお金を貯め、アメリカに留学しました。
一応ジャーナリズムを学びたいという目的はありましたが、
具体的な将来をイメージしていたわけではなく、とにかく海外での生活を経験したいと考えていました。

人種のるつぼ、アメリカで感じた世界の捉え方


アメリカには様々な人種や背景の人たちがいるし、アメリカの大学には世界中から人が集まるので、
「いろんな世界を見聞きする」には一石二鳥だと思いました。
英語は高校時代から落ちこぼれでまったくできなかったので、1年間現地で語学学校に通い、
その後の6年間をウェスタンミシガン大学英語学部で過ごしました。

予想通り、現地には様々な国からの留学生がいて、
東南アジアの大富豪の子息や苦学生、パレスチナやエチオピアからの難民、アフリカからの国費留学生といった人たちが普通にいて、
日常の中で友人や隣人として生活をともにしながら話を聞く経験は、日本にいたらできない貴重なものでした。

丁度日本はバブルで、日本車や日本製品が海外でもてはやされる一方で、
私がいたミシガン州は車の街デトロイトがあり、どんどん車を輸出して自国の市場と仕事を奪う日本への不満が高まっていました。
現地のニュースでは政治家が日本車をつぶすパフォーマンスが流れたりもしました。
また、渡米直後にベルリンの壁の崩壊があり、新聞で記事を読んだ時は忘れられない程の衝撃でした。
その後、湾岸戦争やイスラエルとパレスチナのオスロ合意、ナミビアやエリトリアの独立などが、
周囲にいる友人たちや家族に関連するとても身近な出来事として起こりました。

この経験で、世界の見方は一つじゃないことを身をもって実感しましたし、
友人たちを通して様々な問題を自分のことのように考えてみるようになりました。

日本に帰国するも、仕事はあまり見つからない


卒業後は地元大阪に一旦戻ることにしました。

アメリカに残って仕事を探す、という選択もあったのですが、
正直アメリカの社会の中で外国人として生きることに疲れを感じていました。
たとえ仕事が決まってビザが取れたとしても、医療保険など何かあったときの最低限保障も自分で交渉して獲得しなければならない。
しかも外国人なので、いつ政情が変わって追い出されるかも分からない不安定さの中で生活することに疲れを感じていたのだと思います。

アメリカに残って働きつづける意味が見えなかったこともあり、
とりあえず日本に帰って考えようと思ったのです。

ところが、26歳で帰国した日本はバブルが崩壊し、就職氷河期で、就職先は簡単には見つかりませんでした。
英語ができたら何とかなるかなと思っていましたが、甘かったですね。
派遣会社に登録しても一向に連絡はありませんでした。

そこで、TOEICや英検の試験を受けつつ、
知り合いの紹介で塾で英語を教えるアルバイトや翻訳・通訳などを不定期に請け負ったりする生活が始まりました。

そして1年程経ち、外国人教師のみが働く英会話学校で、 資格試験対策のクラスを教えるため、唯一の日本人として働き始めることになりました。
ところが2年程働いた時、その学校が倒産してしまいました。
その後は、失業保険を受給しながら、英語のテキストを自分で作れるくらいのスキルを身につけようと、DTPの講習に通い始めました。

社会問題を事業として取り組む方法を知る


そんな生活を送っている時、私の父、佐野章二と知り合いの水越(ビッグイシュー日本の共同代表)がホームレス問題に関する勉強会を開催すると聞き、
路上で生活をする人が増えていることが気になっていた私も参加することにしました。

すると、「コモングラウンド」や「DCセントラルキッチン」等のホームレス支援活動を行うアメリカの団体の事例報告がありました。
それまではNPO等に関してはよく知らず、身を削って社会問題に取り組む人たちという印象を持っていました。
しかし、その報告にあったNPOは多額の寄付や事業収入を得て専従職員を雇い、
継続性のある事業として成り立たせていることに驚いたんです。
社会問題にアプローチする方法の一つとして、こんなやり方があるだと。

さらに、イギリス発祥の「ビッグイシュー」の仕組みを水越が見つけてきました。
「ストリートマガジン」を発行してホームレスの人に販売してもらい、売った分だけホームレスの人の収入になる、という自立支援の仕組みで、
本の編集経験があった水越は「これならできるかもしれない」と、ビッグイシュー・スコットランドの創始者に会いに行きました。 

私は、その訪問の打ち合わせのテープ起こしをすることになり、 話を聞いていくうちに、
「関わる人が誰も損をしない面白い仕組みだ」と、どんどん魅了されていきました。

その後、水越と二人でビッグイシュー・スコットランドに再度見学に行き、
仕組みの詳細や、創刊するための条件などを聞かせてもらいました。
そのとき、スコットランドの創設者メル・ヤングから事業が成功のするために必要な5つの要素がそろっているかと問われました。

①雑誌を買う余裕のある人(買い手)はいるか。
②売り手となる路上生活者はいるか。
③警察は協力的か。
④行政は協力的か。
そして、⑤質の高い雑誌を作れるか。

中でも最後の1つは、「仕事」をつくるというこの事業の肝ともいえる重要な部分でありつつ不安要素だったこともあり、
ロンドン、スコットランド、マンチェスターのビッグイシューから毎月雑誌を送ってもらうことや、
翻訳して記事を使う許可などの協力を取りつけました。
この時、ロンドンではビッグイシューの創始者であるジョン・バードとも会うことができ、
その後熱心に応援してもらえるようにもなりました。

ビッグイシューの創刊と編集者としての葛藤


そうやって1年程、父と水越と3人で創刊の準備をし、
2003年9月に『ビッグイシュー日本版』第一号を大阪で発売することができたんです。
大変なことも多くありましたが、徐々に応援してくれる人も増えてきました。

私は副編集長として主にトップインタビューや国際記事の担当をしていました。
しかし、もともと編集の仕事にすごく興味があったわけではなく、
原稿を書くのも人一倍時間がかかるし、企画もいまいち面白いものが書けない。
次第に、編集に向いていないし、役に立てていないのではと感じるようになっていきました。
そのため、編集は他の人に任せて、転職しようかとも考えるようになっていきました。

そんな時、東京事務所で2人しかいないスタッフのうち1人が辞め、そちらに異動する話が持ち上がりました。
尊敬していた東京のメンバーから、 「一緒にやりたいと」言ってもらったこともあり、
東京事務所で販売者を直接応援することに関わってみようと思い移ることにしたのです。

そうして、2007年からは販売サポートの現場や広報、広告営業など、
現場の仕組みづくりをサポートする仕事に集中することにしました。

見えてきた若者ホームレスの不安定な特徴


創刊当初は、販売ができるのは住む家がなく路上生活を送る人、と決めていました。
友達の家に居候するなど「住所」として使用できる場所がある人には、
「別の仕事を探してください」とビッグイシューの販売はお断りしていました。

しかし、リーマンショックの数年前から増えてきた若いホームレスの人たちは、
年配の人たちとは状況が少し違うことが分かってきました。

創刊当初に販売者となってくれた年配の人たちは、
今は路上生活者でも、高度経済成長の時代には様々な仕事で活躍をしていた人ばかり。
日雇い労働をしていた人も「東京の街は俺が作った」などと言い、
過去に貴重な労働力として「必要とされた経験」がありました。
語れるストーリーを持ち、社会の一員として生きてきた誇りと経験を持っている人たちで、
新しい販売者のサポートなどずいぶん助けられました。

ですが、若者の路上生活者は違いました。
自分が必要とされた経験なんて一度もないし、仕事で楽しかったことなんて思いつかない人が多かったんです。

「なぜ実家に助けを求めないのか?」という声もありますが、
施設や養護施設で育ったり、虐待を受けていたり、帰る家がない過去を持つ人がほとんどでした。
そのため「寮がある」といった限られた選択肢の中で仕事を選んだり、
派遣やアルバイトといった不安定な仕事を転々としてきて、
突然「明日から来なくていい」と使い捨てられてしまう。

自分が社会に必要とされている感覚が薄い彼らは、自信がなく自己肯定感も当然低く、
それが精神的な不安定さにつながっていました。
「夜路上で寝るのは怖いから」と、コンビニを転々としたり24時間営業の飲食店で夜を明かしたりする生活なので孤立しやすく、
支援の情報にもつながりにくい。
さらに、ゆっくりと安心して睡眠を取れない状態が1ヶ月も続くと生きる意欲も低下し、
心が病んでいき、社会に戻るのがますます難しくなる。

まさに悪循環で、少子高齢化社会なのに、働けていた若者が働けない人になっていく。
これは日本社会の将来にとっても大きなリスクで、
この若い人たちを一度でも路上生活者にしてはならないと思いました。

このような、若者でさえも路上生活者になる状況を受け、
ネットカフェなど不安定な居住状態にある人たちにもビッグイシューで支援する対象も広げてくことにしました。

挑戦できる社会にするためのセーフティーネット


現在私はビッグイシュー日本の東京事務所長として、ホームレスである販売者のサポートのほか、
様々な企業や団体、個人の方々と協力して自立支援の仕組みづくりを行っています。
リーマンショック以降は、若者が路上生活者にならないようにするための対策を、より力を入れて考えるようになりました。

アメリカから帰ってきた時、「日本には国民皆保険制度や生活保護などの福祉の制度が充実しているからなんて安心なんだ」と思いましたが、
ホームレス問題に関わるようになってからそのセーフティネットには沢山の穴があり、きちんと機能していないという現実も見えてきました。

だからこそ、ビッグイシューのように、たとえ路上生活になっても、再度立ち上がるための仕組みが必要なんだと感じています。
この仕事をしていると、ビッグイシューを販売するようになって少しずつ自信を取り戻し変化していき、
再び住む家や仕事を見つける瞬間に出会うことがあります。
それが嬉しいですね。

ただ、ビッグイシューを「販売する」ということには得手不得手もあります。
だから、 他にも自立を支援するための仕組みは必要だと考えています。
失敗しても何度でもやり直せるしくみが多ければ多いほど、誰にとっても挑戦がしやすい社会になるのだと思います。
一度失敗したら立ち直れない、そんな社会では誰も挑戦できないですよね。
若者が失敗を怖がることがなく、挑戦できる社会を作るためにも、 ビッグイシューはもちろん、
その他にも必要な仕組みを考え、つくっていけたらと思います。

そしてビッグイシューや販売者との出会いによって、
今まで、身近にある様々な問題に興味を持たなかった人や目を背けていた人が、 興味を持ち始めてもらえたら嬉しいですね。

2015.03.07

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