特別でも天才でもない僕が、少しずつ夢を叶えています。
「自分のエンターテイメントで、戦争を10分でも止めたい」と話すヴァイオリニスト、竜馬さん。年間160本以上のライブを行い、世界でも高い評価を受けるようになった今、音楽・エンターテイメントの先に何を思うのか、お話を伺いました。
竜馬
りょうま|エンターティナー
300本以上の映画・ドラマ・CMなどの音楽演奏を担当。
ポップスエンターテイメントオーケストラSoundTrackersの総合プロデューサーやイベントプロデュース、NPO法人の理事長、元常陸太田大使を行う。
公式ブログ 竜馬というヴァイオリニスト
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竜馬Facebookページ
15歳の浪人生活
ヴァイオリンを始めたのは5歳で、ピアノの先生をしていた母の影響でした。
後から聞いた話では、母自身の経験から、持ち歩ける楽器をさせたかったからヴァイオリンだったそうです。
僕はと言えば、3歳から野球をしていたので、どちらかというとスポーツをしたかったのですが、
母親が怖くて練習するような感じでしたね。
ただ、練習するうちに自分の気持ちも伴うようになっていき、
小学5年生の時の文集には、「将来はヴァイオリニストになり、音楽で人の力になりたい」と書いていました。
中学からはヴァイオリンに専念するために、親の勧めもあり、私立の学校に入学しました。
ところが、入学してからは野球や仲間との遊びに打ち込んでしまい、
当初の想定や親の期待とは真逆の方向に向かっていったんです。
毎日仲間とつるんでやんちゃをして、その上とにかく喧嘩ばかりで、
ヴァイオリンをやっているのに、拳が血だらけという状況でした。(笑)
生徒会長や応援団長も務め、充実した学生生活でしたね。
ところが、高校に上がる時に、自分の進路に悩んでしまったんです。
音楽と野球、どちらの道を目指そうか迷ったんですよ。
幼い頃から、自分は何かのプロにならなければいけないと思っていました。
だからこそ、高校からは、自分のやりたいこと・才能があることに全力を注ぎ、
何かに専門的に打ち込みたいと考えていたんです。
中高一貫の学校のエスカレーター進学を控え、悩んだ僕が選択したのは、
学校を辞め、一年間考えることでした。
そうやって、15歳の浪人生活が始まりました。
自分への不安はもちろんですが、仲間と離れるのはとにかく嫌でした。
周りは高校の楽しい時期で、自分だけ青春から取り残されているような感覚だったんですよね。
朝起きたら家で一人、ヴァイオリンの練習や音楽の勉強をして、
野球練習のために、ソフトボールチームの練習にも参加しました。
なんというか、自分の居場所がないような辛さがありました。
でも、自分と向き合う時間が一年あったことは、本当に良かったと思っています。
結局、受験まで音楽と野球を並行し、音大の付属校と野球の強豪校を両方志望した結果、僕が選んだのは音楽の道でした。
先に受けた音大の付属に合格したことで、自分の居場所が見つかったような安心があったのかもしれません。
結局野球で志望した学校は受験しないことに決めたのですが、
奇しくも、僕が2年のときに、甲子園に行ったんですよね。
自分にとって一つの大きな岐路でした。
サバイバルのためのマーケティング
高校に入ってからは、プロのヴァイオリニストになることだけを考え、練習しました。
もともとは周りと同じようにクラシックでいこうと思っていたのですが、
初めての演奏会の時に、たまたま誰かのすすめで「ニューシネマパラダイス」を弾いた瞬間、
「こんないい曲が世の中にあるのか!」と思ったんです。
「これを毎日弾いて生きたい」とすら思ったんですよね。
音大付属ということもあり、中学とは打って変わって、全員がプロフェッショナルを目指すような雰囲気でした。
全員漏れずに音楽が特技という状況で、「すごい学校にきたな」と思いましたね。
同時に、切磋琢磨し、一緒に演奏をできる仲間ができたのは本当に嬉しかったです。
野球をやっていたこともあり、周りとは「競争」でなく「共存」だと思えたんですよ。
あれだけしていた喧嘩も、相手が見つからず、辞めることになりました。(笑)
仲間達と切磋琢磨し、大学に入る頃には、もう自分のやりたいことがはっきりしていました。
「どうやったら、ポップスを毎日弾いてプロになれるか」それだけ考えていましたね。
ある時、先輩が作った曲を演奏させていただいたことがあったんですよ。
その時に、「俺はこれがやりたかったんだ」と感じたんです。
初めて「オリジナル」の音楽をやってる感覚をもてたんですよね。
「オリジナルで、痺れる音楽をやるオーケストラを作ろう」
それが、僕が考えた方法でした。
すぐに、プレイヤー65人、作曲家20人を集め、“Sound Trackers”というポップスオーケストラを作りました。
そのオーケストラでは、音楽はもちろん、企画運営のマーケティングに徹底的にこだわったんです。
当時、既にスタジオミュージシャンという仕事で、プロの演奏家の方と仕事をしていたこともあり、
学校の外には死ぬほどうまい人がいることを知っていたんですよね。
待っていても仕事なんて来ない。だからこそ、「ブルーオーシャン」の分野を攻め、
奇抜な企画や演奏でセルフプロデュースを行っていきました。
お客さんにとっていらないものは無くすというコンセプトで、指揮者や譜面をなくし、スーツを着ない演奏をしたこともありました。
会社みたいな組織体制で、メンバーには営業や広報などの仕事を割り振ったんですよね。
音大で教わるのって技術だけなんですよ。
でも、プロとして食べていくためにはセルフプロデュースがすごく大事です。
この世界を、夢を語った仲間と一緒に生きていくために、サバイバル術を学ぶ場所だったんですよね。
音楽で人の力になりたい
プロとしての活動を始めたのは、大学在学中、20歳の頃でした。
大学を卒業する頃には、仕事も増えており、やっと演奏に集中できる、という感じでした。
アーティストのバックミュージシャン、CDなどの製作に携わるスタジオミュージシャンとしての経験を4年間積み、
段々とレギュラーの仕事も増えてきました。
ところが、だんだん「拍手をメインの立ち位置で受けたい」と思うようになって来たんですよね。
槇原敬之さんのバックミュージシャンを務めさせていただき、その音楽センスや人間性に涙が出るほど感動したのも一つのキッカケでした。
どうすればいいか考えてみたんですが、中途半端にできることじゃないと思ったんですよね。
当時の仕事を全て辞めて、新しくアーティストとして活動を始めようと決心しました。
業界の中では一番といえるくらい割がよく、だれもがうらやむ仕事を辞めて、何も実績がないアーティストへの、ゼロからの挑戦でした。
実は、自分の親友の存在も大きかったんですよね。
アメリカの大学に行っていた友人で、定期的に会っていたのですが、
あるとき、彼と話したことがすごく印象に残ってるんです。
海外に出ると、「日本人として」ということを意識するようになる、と彼は言っていました。
「日本の恵まれた環境にいたからこそ、ここまで勉強できたから、それを使って周りに何ができるかを考えている」
と話していたんですよね。
そのとき、彼から「ピースメッセンジャー」という仕事があることを教わったんです。
ピースメッセンジャーは、国連の平和活動をアピールする、各分野の著名人からなる平和大使なんですが、
その話を聞いて、「これだ」と思ったんですよ。
小学5年生のときに文集に書いた「音楽で人の力になりたい」という言葉が、
自分の中で鮮明に感じられたんです。
赤坂のマクドナルドでその話をしたんですよね。今でも覚えてます。
そうやって新しく掲げた目標のためにも、誰かの曲をサポートするミュージシャンではなく、
「アーティスト」になろうと思ったんです。
そして、日本人として世界で活動するために、名前は漢字にしようと思いました。
僕が名乗ったのは、「竜馬」という名前でした。
坂本龍馬の名前を語ったら、周りはどんな演奏家か期待すると思うんです。
周りの期待を超える、名前負けしないアーティストになろうと思ったんですよね。
大きな名前を背負った、無名の音楽活動のスタートでした。
心に響く音楽
最初のアーティスト活動は、ヴァイオリン一本持って、西荻窪のバーで流しをしたことでした。
もちろんお金にはならないのですが、アルバイトをしたらそれを言い訳にしてしまうから、音楽だけに集中していました。
正直、これまでに積んだ実績もあり、自分の演奏には自信がありました。
ところが、ある時、西荻窪のカレー屋さんで、ランチタイムに店先で演奏していて、
前の道を通った女性が、耳を塞いで歩いたんです。
衝撃をうけました。自分がやっている音楽は耳を塞がれるものなんだ、と。
「うまい」だけではなかったんですよ。
目の前のお客さんの心に響くものじゃなきゃダメだったんです。
「心に響く音楽」とは何なのか、本気で考えるようになりました。
そうやって地道に努力していくうちに、少しずつ仕事が入るようになってきました。
転身して2年目には、年間100本ライブをすると決め、110本やり切りました。
どんな場所でも、ボランティアでも引き受けました。
一人でも多くの「目の前のお客さん」の心に響く音楽を届けようと、必死に試行錯誤を続けたんですよね。
日本で活動しながらも、僕が目指していたのはピースメッセンジャーだったので、
世界で勝負したいとずっと思っていました。
でも、例えば貧困地域の子供の前で演奏するとなった時、
その子たちにとって、ヴァイオリンの演奏を聴くのは一生に一回かもしれないんです。
それならば、その「一生に一回」を二流三流の自分がやったら申し訳ないと思うんですよ。
一回の演奏が生きる希望になるよう、一流の演奏ができるようにならなきゃ意味がないと思ったんです。
だからこそ、呼ばれるまで海外では演奏しないと決めていました。
そして、ついに海外に初めて認められて、演奏できる日が来たんです。
フランスのJAPAN EXPOという大きなイベントに呼んでもらうことができました。
その演奏を皮切りに、ミャンマー・スペインと多くの方に声をかけてもらえるようになったんです。
特別でも天才でもない自分の生き様
将来は、自分のエンターテイメントで、戦争を10分でも止めたいと思っています。
戦場であろうとどこだろうと、現れると戦いが止まる、そんなエンターティナーになりたいと思っているんです。
自分の音楽で少しでも、亡くなる命を少しでも減らしたいんですよ。
僕の演奏では誰かのお腹をいっぱいにすることはできないし、病気を治すこともできない。
でも、何か力になれればと思うんです。
それは勇気かもしれないし希望や愛かもしれない。
その何かが明日の糧になればと思うんです。
これからの計画は、明確に決めています。
まずは、35歳までにピースメッセンジャーになる。
そして、30代でプレイヤーは引退しようと思うんです。
40歳からは、世の中を楽しくする仕組みを作るプロデューサーに、
そして、50歳からは、もう一つのやりたかったこと、野球に戻ろうと思うんです。
それまでに貯めたお金で、日本の島に野球場を作り、島の子供たちの野球チームの監督になって、
野球で世界一を目指そうと思っているんですよね。
だから、今でも野球はたまに練習しています。
僕がやってることは、これからを担う子供たちに、可能性を見せることだと思っています。
僕は特別でも天才でもないんです。
でも、描いた夢が少しずつ叶っているんです。
諦めないで頑張っていけば、きっと叶うということを、自分の生き様で見せたいんです。
誰もが持っているスキルを、子供たちやこれからの世の中のために使えば、
いい世界になるのは決まっているんですよ。
2014.04.05