もし、自分の余命が残り2年だったら・・・。ある問いから決意した、新しい挑戦。

AR・センシング技術と玩具を組み合わせた社会を変えるサービス開発で、オンリーワンからナンバーワンを目指す会社の役員を務める武藤さん。長年勤務していた大手企業のグループ会社を早期退職された背景には、お世話になった方がご病気をされたことから生まれた、ある疑問がありました。

武藤 博昭

むとう ひろあき|テクノロジーをベースに体験をデザインする会社の取締役
IoT(Internet of Thing)時代の『×IT(ものづくり×IT)』まずは玩具(TOY)から!
『テクノロジーをベースに体験をデザインする』 アイティアの取締役を務める。

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優秀な兄に対するコンプレックス


私は、岐阜県のちょっぴり古風な家庭で生まれ育ちました。
父親は家庭の中で絶対的な権威があり、母と祖母はいつも和服を着ていて、
父に対しては家族の誰もが敬語を使うような、そんな家庭でした。

父は親族と既製服を扱う会社を経営していたので、
小学生の時は、いつか自分が継いで世界一の会社にすることを夢見ていましたね。

学校の成績はいつも中の上くらいだったのですが、兄がとても優秀で、
父親はそんな兄を自慢気にしていたので、高校受験の頃からコンプレックスを感じるようになりました。

その後、なんとなく商業高校や工業高校に行こうと考えたのですが、
父親に反対されて、現状の成績で行ける県内進学校を受験することになったんです。

急な出来事でしたが、幸いなんとか合格でき、入学後は、憧れていた東京のとある大学を目指すことにしました。

そして実際に大学受験の時期を迎えると、
父親の縁あって、高校から大学の推薦入学の案内を3校頂きました。

しかし、親の敷いたレールが嫌いだったので、全てお断りしてしまいました。
それなりに頑張って勉強していたので、希望の大学に合格する自信があったんですよね。(笑)

ところが、一年浪人しても希望の大学には合格することはできず、
結果的に、特に志望していなかった都内の私大に入学を決めました。

大学入学後は、大学サークルを象徴する「テニスサークル」みたいな軽いサークルに入ろうと思っていましたが、
最終的に、ラテン音楽の演奏やライブを行う中南米研究会というサークルに所属することにしました。

するとサークルOBの先輩が、学校近くでイベント会社を経営されていて、
サークルの先輩・仲間たち同様に、私もその会社のお手伝いをするようになったんです。

それ以来、大学の勉強そっちのけで、楽しくいろんな現場で働きました。
好景気で、いわゆる学生ネットワーク需要も高かったんです。

ただ、高校時代それなりに勉強を頑張った分、
「何のための受験勉強だったのだろう・・・」という思いはありましたね。

博昭は、面白味のある男だ。


その後も、大学OBが経営する会社で、広告会社やクライアントの大人たちと仕事をする中で、
少しずつ広告やプロデュースの仕事に興味を抱くようになりました。

ところが、そんな折、父がくも膜下出血で倒れてしまったんです。

急いで実家に戻り状況を確認してみると、水頭症を併発しており、意識もありませんでした。

いつ亡くなっても仕方ない状態の父を見て、家族はみな泣いていましたが、
なぜか私は泣きませんでした。

というのも、父が倒れる1年ほど前に些細なことで喧嘩をしてしまい、
しばらく口をきいていなかったため、あまり実感が湧かなかったんです。

兄はすでに社会人でしたから、その後は私が大学を半年ほど休学して、
実家で父の看病などの手伝いをすることにしました。

そして、父の意識が戻らないまま、父の会社に、父の取締役退任手続きに行ったんです。
父にはもう会社は無理だと思ったんですよね。

すると、そこでたまたま父の部下の方から呼び止められ、父がいつも私のことを

「博昭は、面白味のある男だ」

と言ってくれていた、ということを聞いたんです。

昔から、褒められるのはいつも出来のいい兄ばかりで、父が私のことを他人に話すことはありませんでした。

また、外でそんな風に言ってくれているなんて知りませんでしたから、
余計にその言葉が心に深く響き、

「じゃあ、面白味のある人生を送ろうではないか」

と決意したんです。

その後、就職活動の時期になると、そんな「面白味のある人生を送ろう」という思いから、
途中で就職活動を辞めることにしました。
また、実家の会社からは、後を継いでほしいと頼まれたのですが、それも断ってしまいましたね。

そして、卒業後は、大学の先生に勧められ、MTVのエージェントにインターンから新卒で入社しました。

学生時代のそれなりのネットワークや経験から、作り上げるクリエーティブな仕事がしたくて入社をしたのですが、
日本から遠く、行ったこともない海外で、ニュースをまとめるスタッフの近くで、社長の仕事の青果市場コンサルのお手伝いをなど、
クリエーティブからは程遠い仕事内容に何の興味もなく、早々に辞めてしまいました。

学生の時のイベントの企画や宣伝などのように、
広告やプロデュースなどの仕事がやりたいと思ったんですよね。

チャラい兄ちゃんとの縁が生んだ大きなキッカケ。お前に足りないのは「箔」


その後は、人のご縁で運よくカシオ計算機のハウスエージェンシーに転職し、
広告業界の仕事に関わらせていただきました。

以前から興味のあった業務だったこともあり、
入社して数年で、社内で天下を取った様な気でいましたね。(笑)

そんな中、博報堂の新崎さんに出会いました。
その人は、茶髪にロン毛でピアス・肌が黒くシャツもカラフルで、ただのチャラい兄ちゃん。(笑)

でも、もの凄い勢いで仕事を奪っていくんです。

私は入社して5年ほどで、かなり自信満々な状態になっていましたが、
カシオ宣伝部フロアのパーテーショで仕切られた会議スペースから、新崎さんと宣伝部との会話が聞こえたときは、

「こんな優秀な広告マンがいるんだな」

と、とても刺激を受けました。

興味を持った私は、宣伝課長だった浜島さんに、無理にお願いして、
新崎さんを紹介してもらう会をセッティングしてもらいました。

そして、徐々に新崎さんと親しくなり、ある時、新崎さんから

「武藤、お前はなかなか面白い奴だけど、お前に足りないのは箔だよ」

と言われたんです。
「箔・・・」今までそんなことを言われたことなど無かったので、
その言葉を受けて「これから先、どうして行こうか?」と将来について考えるようになりました。

そして、2000年(21世紀を前に)30歳という節目で、箔のある男になるために環境を変えようと思い、
より幅広いプロジェクトに関わることができる、電通テックという会社に転職しました。

新たなドメインで、事業開発をミッションとした本部が立ち上がったタイミングでの入社だったのですが、
入社して知ったことは、与えられる仕事がない、ということでした。

新たな本部は、ルーティンの仕事があるわけでなく、「新しく仕事を創り出す!」という宿命を負っていました。
それを知らずに入社してしまったんです。(笑)

社内にもグループ内にも知り合いがあるわけでない私は、なかなかその状況を打破できず、
2か月が経過した頃、自信を無くしてしまいました。

ちょうどそんな頃、博報堂からエイベックスに転職をした新崎さんから、
「どうだ?そろそろ転職祝いをしよう!」と連絡が来ました。

正直、どんな顔をして会えばいいかわかりませんでしたが、
とりあえずその場に行くと、そこにはエイベックスの幹部の方々も集合されていました。

その後、一緒にお酒を飲みながら、会社での自分の状況をお話すると、
「じゃあ、暇ならうちの仕事手伝えよ。」と言われ、
携帯を手にしてもの凄い勢いでその場に人を呼び、沢山の方をご紹介してくれました。

そして、翌日からエイベックスの担当になり、たった一晩の宴(縁)がキッカケで、
「ここまで変わるのか!」というくらい一気に仕事が回り出したんです。
まさに伝説の様な出来事でしたね。

また、ちょうど同時期に始まった、電通グループのアニメ事業にもご縁をいただき、
「エンジェリックレイヤー」「FF:U」「ヒカルの碁」「星のカービィ」など、
様々な作品に関わらせてもらうようになりました。

幸いなことに結果もついてきて、転職して2年目の32歳の時には、
最年少で部長職になることもできました。

一方で、コンテンツのビデオパッケージが全世界的に売れなくなり、
放送局の広告収入と番組調達の資金が減っていきました。

そこで、アニメが全世界的にビジネスするために、
新たに「玩具」を発明して、それを売るためのアニメ番組を制作し、
全世界同時に放送することを目指そう!ということになりました。

そんな背景で生まれた「MONSUNO(モンスーノ)」というアニメプロジェクトは、
誰もやったことがない新しいもので、ある意味で無謀なプロジェクトでしたが、
実現できたときは嬉しかったですね。

もし自分の余命があと2年だったら・・・。


そうやって、ひたすら進み続けながら迎えた2013年3月、自分が電通テックで部長になって以来、
開発投資、製作出資、人件費・経費を含んで累計で黒字に転換し、1つの区切りを迎えました。

また、それと同じ頃に、仲間にかなり進んでいる状態で癌が見つかったんです。
その仲間に会いに行くと、彼は、会社や家族、自分の病気と真っ向から向き合い、
迷いもないようでした。
彼のとても真っ直ぐな視線を受けて、私が持ち帰ったのは、

「もし、自分の余命があと2年だったらどうするのだろうか?」

という疑問でした。

電通テックでの13年間で、私は会社から信頼してもらい、好きな様に挑戦をさせてもらえました。

ある種、特別扱いに近い待遇を受けてきた自分がステップアップをしていくことで、
大企業という、挑戦をしにくい組織風土を変えていくことが自分の使命だと考えていました。

でも、余命が残り2年だと仮定した時に、漠然とその使命をもう背負う必要は無いと思ったんです。

ちょうど、社内で早期退職を促す告知がでることも知っていましたし、
私の部署にとって、自分自身が最大のコストだということもわかっていました。

また、私は外で1人でもやっていけるけど、見渡せば、
私以外の部下たちは、今はまだ、ここでサラリーマンを続ける方がいいと思ったんです。

そこで、2013年の7月に、早期退職という形で13年在籍した電通テックを辞めることにしました。
次のことを決めないまま。(笑)

「自分の余命があと2年だとして”時間”を大切に生きよう」

そう決めたんです。

オンリーワンからナンバーワンを目指したい


電通テックを辞めた後は、以前から知り合いだった、アイティアのむぎばやしさんの好意あって、
オフィスを間借りさせてもらい、その代りにアイティアを手伝いながら、
何か自分で会社をやるための準備をしようと思っていました。

ところが、手伝う中で、「ちゃんと腰を据えて(アイティアで)やってみない?」という誘いを受けたんです。

ただ、私の人生は残り2年を最大限に生かすために、サラリーマンを辞めてきているので、
限られた時間でもう一度サラリーマンをやるのは嫌でした。(笑)

そこで「残されたと仮定している2年のうちの1年を捧げる!」という形で、
2013年の9月に、アイティア株式会社に籍を置くことにしました。

もちろん、電通テックとアイティアでは会社の規模など、あらゆる点で異なる部分が沢山ありますが、
アイティアがこれまで培ってきたARやセンシング技術からのソフトウェア開発と、
私が長年関わってきたコンテンツの領域を組み合わせることで、新しい仕組みを作り、
オンリーワンからナンバーワンを目指していきたいと思っています。

私が取締役に就任した、今期を第二創業として、
「玩具(TOY)×IT」という新たなテーマのもとで、知財への意識高く、
全世界を視野に「玩具発で社会を変えられるサービス開発」に挑戦しています。

「玩具(TOY)×IT」は、今の私たちのアイティアらしいテーマとなったと思いますね。
ワクワクしませんか?玩具って。(笑)

すべてのステークホルダー、ビジネスパートナー、家族に仲間たち!
全てのご縁とビジネス機会に、これまで以上に感謝しながら、圧倒的な情熱をもって生きていきたいですね。

2015.01.24

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