街の文脈を生かした建築で、笑顔を生みたい。不安を「オリジナル」に変える、こだわりとは?
デベロッパーとしての立場を中心に、オフィスビルや商業施設への不動産投資に携わる後藤さん。音楽家を志し、音大の進学を考えていた高校生から、親の反対を受けて建築の道を選んだ過去がありました。そんなスタートを切った後、現在に至るまでにはどんな思いがあり、これから何を目指すのか、お話を伺いました。
後藤 真行
ごとう まさゆき|デベロッパー
デベロッパーとしての立場を中心に、オフィスビルや商業施設への不動産投資に携わる。
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親の猛反対を受け、ぼんやり決めた道
神奈川県の横浜市で、生まれ育ちました。
両親が仕事でアメリカに住んでいた影響で、
物心がついた頃から、外国にいる友人のところへ遊びに行ったり、
アメリカ時代の写真がたくさん飾ってあって、
幼いながら「海外っていいな…」と、日本ではない国を意識していました。
また、親の教育方針は「やりたいことはなんでも、自分の力でやってみなさい」という感じで、
中学からは、吹奏楽部に入りました。
体育が嫌いで運動には自信がなかったので、文化系の部活に入ろうと思ったんです。
吹奏楽部では、打楽器を選びました。
理由は、裏方っぽく見えて、実は演奏全体を支配できること、
そして複数人で同じ楽器を担当する他の楽器と違って1人で1つの楽器を担当できるから、
責任重大なのが良かったんですよね。
そのまま高校でも吹奏楽部に入り、関東で6位の成果を出すまでに成長しました。
そんな追い風もあり「将来は音楽で食べていくために音大に行きたい」と親に伝えると、
「音楽で食っていけると思うのか!」と人生初の猛反対を受けたんです。
まさか反対されるとは思ってなくて、「なにくそー!!」と悔しい思いをしました。
しかし、押し切るだけの自信もなくて、音楽の道は断念することにしたんですよね。
その後、「じゃあ、何をしよう?」と考えてみると、
もともとは音楽を演奏して人が笑顔になることがモチベーションだと思い返したんです。
そこで、もっと違う視点から人を楽しませることは無いのか?と思うようになりました。
そして、思い浮かんだのは建築という分野でした。
直感的に建築士という職業に憧れを抱いていたこともありましたし、
数学や美術も得意だったんですよね。
そんな考えから、卒業後は、都内の私大で建築を専攻することに決めました。
価値観を一変させた衝撃の旅
大学では建築の勉強をそれなりに真面目にやってました。
また、色々な建物を見るのも勉強なので、バイトで貯めたお金で20歳の時に二ューヨークへ行くことにしたんです。
すると、現地ではグラウンド・ゼロにて、
9.11の2年後のセレモニーが開かれており、
数えきれないくらいの人達が、溢れかえって黙とうをしている姿に立ち会いました。
そして、その情景にものすごい衝撃を受けたんです。
もちろん日本でも9.11の出来事をTVで見ていて、知っていたつもりでした。
しかし、実際にどんなことが起こっているのかを、
認識をしているようで全然分かっていないと気づいたんです。
事件が生まれる背景、例えば宗教とか歴史の文脈には全く考えが至ってなくて、
僕は物事の上っ面な部分しか見れていなかったんですね。
そもそも、ニューヨークは、流行の最先端でファッショナブルとか、
面白いものがありそうというイメージで行ったこともあり、
セレモニーで体感したこととのギャップは大きかったです。
「自分の考えって、浅かったな」
と痛感しました。
この経験から、建築についても、ただカッコいいものを造るのではなく、
土地の歴史やそこに住む人がどう使うのかを理解した上で造りたいと思うようになりました。
それからは、自分の目で見ることを大切に、暇とお金さえあれば世界中を旅行するようになりました。
社会で担いたい役割が明確に
建築学科では勉強することがあまりに多く、
大学4年間では建築の知識をまんべんなく学んだという状態。
自分は、もっと軸となる専門性が欲しくて、すんなり大学院に行くことを決めました。
特に、先のNYのでの経験からも、建物のデザインが生まれる背景が気になっていたんですよね。
メーカと違って不動産はその場所にしか作れないから、何を造るとかっこいいか?ではなくて、
その土地に求められていることって何だろうとか、そういうことを学びたいと思いました。
また、大学4年から院生時代にかけては、
バイトと並行して有名なデザイン事務所のアシスタントとして働かせてもらいました。
建築を習っていた先生がアメリカ人の先生で、
両親が海外にいた経験もあって、英語を教わったり仲良くしていたら
「君アシスタントしなよ」と、声をかけてくださったんです。
そこで、実際にアシスタントをしていると、あることに気が付きました。
高校生の時には、かっこいい物や面白い物を造ったら人に喜んでもらえるだろうと思っていたので、
クリエイティブを考えるデザイナーの仕事に興味を持っていました。
しかし、
「クリエイティブの提案を決める側にセンスがないと、いいものが実現しないんじゃないか?」
と考えるようになったんです。
そもそも、意思決定する人にハイセンスな人が少ないのか?
もしくは、ハイセンスな人はいるけど、実現しない理由があるのか?
それらを確かめたくて、僕はデザイナーではなく、意思決定をする側にて、担える役割もあるのではないか、と考え始めたんです。
そんな背景から就職活動では、商社やデベロッパーを見て回り、
新しいことに挑戦できる環境に魅力を感じた、あるデベロッパーとしての仕事に関わることができそうな企業への入社を決めました。
仕事の醍醐味
入社後3年くらいは、土地を買ってプランニングしたり、出来上がった建物を管理したり、
施設を開業させる等のフェーズを複数担当させてもらっていました。
上司は、会社でも有名な怖い人で、
甘えを一切許さない厳しい指導と強烈なプレッシャーに怯えながら働いた、とても苦しい時期でした。
また、新人として働く中で、同じお客様に3回連続でミスをしてしまったこともありました。
お客様のところへお詫びに伺い一生懸命に説明をすると、
「起きている事は理解したけど、君一生懸命だからいいよ」という予想外のお言葉をいただくんですね。
この時、成果は絶対出さなければいけないけど、自分の仕事の向き合い方で相手の捉え方や気持ちを変えられるんだと思って、
そこからより一生懸命に仕事をしようと思いました。
また、厳しいながらも、上司は常に自分の仕事を見ていてくれて、
できるとまた新しい仕事を任せてくれたんです。
「頑張ってるね」とかの言葉はないけれど、評価を仕事で返してくれるので、
仕事を通して自分への不安感が払しょくされていき、段々と自信も持てるようになっていきました。
そして、ひと通りのフェーズをやらせてもらった後は、
幸運なことに、銀座(中央通り)での大規模な開発プロジェクトをメイン担当として、
一気通貫してやらせてもらうことになりました。
銀座のプロジェクトでは、約4年の歳月の中....それが、なんだか子供の成長のように、どんどん大きくなっていって、
実際に建物が出来た時には、本当に感動しましたね。
同時に、街が移り変わる一端を担っている影響力の大きさとか、責任も感じました。
日々、地味で大変なことも多いけれど、出来上がった建物でお客様がお祝いをしてたり、喜んでいる姿をみると、
「この瞬間に立ち会いたくて、今までずっと頑張ってきたんだなぁ」と改めて思いましたね。
そしてこの時、音楽を通して人の笑顔を作りたいという中学時代の想いが、別の形で叶った瞬間でもありました。
自分だからできることの探究
恥ずかしながら、僕はかなり根暗なところがあって、誤解を恐れずに言えば、
他の人ができる仕事を自分がしなくてもいいのではないか?と思っているところがあるんです。嫌なヤツですよね。
音楽もそうで、誰かと同じ演奏をすることはあまり意味がなくて、
自分なりの解釈をして、自分なりの表現をすることの大切さをずっと教えてもらってきたんですよね。
仕事と芸術はちょっと違うんですが
でも、どんなことでもいいので仕事に自分の存在意義を発揮していきたいと思うようになったのは、
こんな原体験があるからだと思います。
普段は、「新しいことに挑戦したい」とかっこつけているけれど、
実は、自分の存在意義が本当にあるのか、いつも不安で不安で仕方ない気持ちになるんです。
だから少しでも、自分を安心させるために自分らしさをいれたい、
可能な限りオリジナリティが高いものを創りたいと思うんです。
また、4年間のプロジェクトを進める中で、街が存在する背景やいろんな人の想いに触れたのですが、
それが世代を越えて人に伝わっていない現状があります。
建物を造るだけではなくて、街を良くしたい人の想いを伝える場や仕組みとか、
そういうことにも興味を持ちはじめています。
自分らしい存在価値を発揮しながらも、
今後は、建物だけでなく街全体というスケール感で仕事をしていきたいですね。
2015.01.04