「好き」で続けた、途上国と物書きの仕事。国際協力・開発の情報で伝える「複眼の視点」。
国際協力・開発の情報を伝える「開発メディアganas」の編集長として活動している長光さん。大学卒業後、タイとフィリピンで日本語メディアの立ち上げに参画、日本の電力業界紙の記者、また青年海外協力隊として南米ベネズエラで活動したご経験がありました。一般紙が報道しない情報を発信したい、という思いの裏には一体どのようなエピソードがあるのでしょうか。現在のメディアにかける思いとともに、お話をお伺いしました。
長光 大慈
ながみつ だいじ|国際協力・開発関連メディア運営、フリージャーナリスト
「開発メディアganas」を運営する特定非営利活動法人 開発メディアの代表を務める。フリージャーナリスト。
開発メディアganas
人種を意識したアメリカでの高校生活
私が初めて海外の文化に触れたのは、高校生の時です。
15歳の時に、メーカーで働く父の仕事の関係で、アメリカへ行くことになったんです。
突然のことで、英語がわからない状態で現地の公立高校に通う生活がスタートしました。
陸上クラブに入ったおかげで、現地の友達もできたのですが、私が通っていたのは白人が大半を占める学校。
メキシコ人も多く、メキシコ人は白人から見下されていました。
白人でない私も差別を感じる場面は珍しくない状態でした。
差別を受けるのを避けたいからか、私は無意識にアメリカナイズされていったんですよね。
私は自分が白人であるかのような気分で過ごしていました。
ですが、自分の姿がふと窓ガラスに写ったりすると、やっぱり日本人だ、と人種の違いを強く感じていました。
そうした高校生活を過ごし、卒業後は親の意向もあり、帰国子女として日本の大学に入学しました。
新しい世界と発信することの面白さ
大学生活に慣れたころ、先輩に誘われて、国際交流サークルの活動に顔を出したんです。
そこで意気投合する、フィリピンの大学生たちと出会いました。
フィリピンの上流階級の人はアメリカナイズされてることが多いのですが、彼らはそうだったんです。
私は当時アメリカナイズされていたので、話がすごく合ったんですよね。
それからフィリピンに興味を持ち、大学の講義で文化や宗教や開発について学んだり、タガログ語を勉強するようになりました。
そうして、ある程度知識を持ったころ、満を持してフィリピンへ行ったんです。
どんな世界が見れるんだろう、と胸が高鳴る思いでした。
ただ、現地へ行ってみたものの、上流階級の暮らしは日本とあまり変わらないどころか、
すごいお金持ちだなぁと感じたんですよね。
フィリピンに対する興味は途絶えず、次の渡航では“本当”のフィリピンを感じるために、
山岳部や沿岸部で暮らす少数民族の村に足を運んだんです。
そこには、これまで見たことのない生活様式や、独特の文化が広がっていました。
現地の人と時間を共にするうちに、ますますフィリピンに対する関心が高まる一方でしたね。
そんな時、ちょうどアジアに特化した情報誌の編集部でのアルバイトの募集を見つけて、
ここでなら自分が見たことや聞いたことを発信できる!と感じて働かせてもらうことにしたんです。
元々書くことは好きだったので、編集部のアルバイトは面白かったですね。
定期購読者を見て、こんな人やこんなに多くの人が読んでくれているとわかるとモチベーションが上がったり、
編集部の方が自分が作成した記事を褒めてくれることや、自分が書いた記事が出版されることが嬉しかったり。
そんな大学生活を過ごし、卒業後の進路を考える時期になったのですが、
送られてくる新卒採用の資料は大手企業ばっかりで、入りたいと思う会社は中々見つかりませんでした。
そこで、とりあえず私が好きな東南アジアと、メディア関連で絞って探したところ、
香港が本社で、マレーシアで日本語メディアを運営する会社を見つけたんです。
自分の軸に当てはまっていることに加え、現地で働くことに憧れて、新卒第一号として採用され、入社しました。
リアルな情報に触れることで感じたこと
入社してからは、会社にとって初めての新入社員ということもあってか、社長から可愛がってもらい、
入社して1ヵ月経ったころに、タイでメディアを立ち上げるように言われたんです。
ゼロからのスタートだったので、何のマニュアルもない中、
会社法を調べたり、電話回線を確保したり(90年代前半の東南アジア各国では電話回線が圧倒的に不足していた)、
やったことのない仕事を手さぐり状態でしましたね。
そのおかげで様々な情報に触れて、勉強になりました。
ライターとして、自分で情報を集めて発信する仕事にのめり込み、
タイのあとはフィリピンで3年半、それからインドネシアで半年ほど働きました。
また、実際に現地に住んでみると、同じ東南アジアでも、国によって違う歴史を持っていて、
異なる社会が成り立っていることも感じました。
その一方で、日本にあるタイやフィリピンなどの情報と、現地でのリアルな出来事との違いについても感じるようになり、
偏った情報が結構出回っているなぁと考えることも度々ありました。
東南アジアのさまざま国に住んでみて思ったのは、
旧宗主国以外では、中国とインドの影響が強いということです。
中国とインドを知らずして東南アジアを語るな、という私の上司だった編集局長の言葉もあり、
5年ほど務めた会社を辞めて、世界一周の旅に行きました。
ところが、旅に出たものの、10カ月目にインドのバラナシで事故に遭い、
左手中指あわや切断という大怪我をしてしまったんです。
この状態で海外を放浪することはできないと思い、
現地の病院を退院後、仕方なく、病院に通える日本で就職することにしました。
それまでの経験を活かせると思った電力業界紙の記者の募集を見つけ、そこでライター活動を再開したんです。
震災とともに立ち上げたメディア
就職した会社はとても良い会社で、待遇も良かったのですが、
業界にまつわる様々な情報を拾っていくうちに、偏りを感じて退職しました。
その後は3年ほどフリーのライターとして働き、
さらに青年海外協力隊としてベネズエラで環境教育を2年ほどしました。
協力隊を終えてからは、フリーランスや、JICA研究所の編集発信プロジェクトの仕事をしていました。
そんな時、2011年3月に東日本大震災が起こりました。
震災後、国際協力・開発の情報を発信するアメリカの会社の日本支社の社長から電話が突然かかってきて、
「国際協力のNGOで、被災地に寄付している団体を記事にしよう」と提案されたんです。
そうして、メディアを立ち上げて発信するようになったのですが、
予想以上に反響が大きくなり、マンパワーがもっと必要な規模になっていきました。
そんなことから人を増やしたいなぁと思っていました。
ところが社長は1年後、メディア事業から手を引くと私に告げました。
私自身は続けたいと思っていたので、引き継ぐ形でそのメディアを運営するようになったんです。
その後は、「開発メディアganas」という名前で発展させていきました。
メディアを通じて得る複眼視点
このメディアで記事を書く記者は、主に学生や若手社会人です。
記者になった方には、記事の質を確保するためにも有料講座を受けてもらったり、
現地の知識を持つためにもスタディーツアーへ行く機会を団体として設けています。
実際にスタディーツアーでは学ぶことがたくさんあります。
2014年夏のスタディーツアーでは、「キティちゃん」が好きな学生が参加してくれました。
その学生は各地でキティちゃんグッズを見ていつも目を輝かせていたので、
キティちゃんを切り口とした記事を書くことを提案したんです。
日本へ帰ってからは、サンリオにも取材に行きました。
その時、改めて、好きなことならどこまででも追求できるんだなぁと感じましたね。
また、それまでの自分の経験も振り返って、既にある情報を受け入れたり、それを受け売りにするのではなく、
実際に自分の足で情報を掴んで複眼的に物事を見て発信することが、何より大きな学びになると考えました。
「開発メディアganas」を通して、ボランティア記者たちが情報に対してより複眼的な視点を持ち、
取材で視野を広げて人生をより楽しいと感じてもらえるようになると良いなぁと考えています。
私自身、「好き」だからこそ飽きることなくやってこれましたし、そのおかげで道が開けました。
これからも好きなことを続けつつ、その面白さを伝える役割になっていけたら良いなぁと考えています。
2014.12.22