海外進出支援で、大好きな日本を変えたい。17歳から歩み始めた、納得を持って生きる道。

日本企業向けに、現地法人の設立や販路の開拓などを行う進出支援企業を紹介するプラットフォームというカタチでの海外進出支援事業を行う兒嶋さん。父親の死を機に、自分が納得のいく生き方をしようと考えて歩み始めた17歳から、日本を変えたいという思いを持って起業する現在に至るには、どんな背景があったのでしょうか?お話を伺いました。

兒嶋 裕貴

こじま ゆうき|日本企業向け、海外進出支援事業プラットフォームの運営
海外進出をしたい日本企業向けの海外ビジネス支援プラットフォーム「Diginam~出島~」、
オフショア開発・BPOのマッチングを行う「オフショア開発.com」「BPOサービス紹介センター」など海外進出支援事業の他、
クリエイターの海外進出支援事業として、マンガ動画制作サービス「マンガニメーション」のサービス等を運営する、
株式会社Resorz(リソーズ)の代表取締役を務める。

株式会社Resorz
Digima~出島~
オフショア開発.com
BPOサービス紹介センター

死を身近に感じ、生きるが輝きだした


東京に生まれ、小学校からお受験戦争の中で育ち、 中学からは私大の付属校に入学しました。
しかし、幼少期から型にはまったものには馴染まないタイプで、
「右向け右」的な考えや風習に、違和感を感じていましたね。

そんな思いを感じながらもエスカレーター式に高等部へと進み、
高校生活を送っていた17歳の時、父親が亡くなってしまったんです。

突然訪れた死という逃げようの無い事実に、
僕は、改めて「生きる」とは何だろうと考えるようになりました。

そうやって考え始めると、改めて自分が今の生き方に納得感を持てていないことに気づき、
学校のルールや受験など、周りに習って納得もせずに行動しているような雰囲気にもすごく気持ち悪さを感じたんです。

そこで、大学に入ってからは好きなことをしようと決め、
幼いころから好奇心が旺盛だったこともあり、関心を持っていた海外を見てみようと考えるようになりました。

それはまるで、「死」を身近に感じて、「生きる」が輝きだしたように感じました。

そんな思いから、大学1年の夏、1カ月タイを訪れました。
最初の印象としては、とにかくショックでしたね。
「こんなんで国が成り立つのか?」 という感覚でした。
昼間から道端でおっさんが寝てるし、マリファナも合法同然のように売買されている。
そんな非日常に衝撃を受け、それからは休みの度にアジアを中心とした海外を周るようになりました。

そんな大学生活を過ごし、3年生を迎えると、周りでは急に就職活動が始まりました。
しかし、僕はそこにも納得ができなかったんですよね。
皆一様に自身の進路を決めていく様に、「なんなんだろうこれ?」という違和感がありました。
海外を見て回っていたからこそ、「日本」に対する違和感もありましたね。

しかし、周りの中でほぼ自分だけが就職活動をしない状況に、
片親で大学に入れてもらいながら申し訳ないという気持ちもありました。
そんな悩みを抱えながらも、最終的には、 やはり自分には確固たる方向性が無いということにたどり着きました。
納得しないままに何となく決めるなんて無理だという感覚があり、
もっともっと色々なものを見てから決めようと思い、再び海外に足を運ぶことに決めたんです。

異国の地でたどり着いた「日本を変えたい」という思い


それからはアフガニスタンやインドなどの国を回り、
純粋に旅をしたり、ボランティアに携わったりする中で、
「絶対これは俺しか出来ない」というものを探していました。

そんな中、インドでは、「日本人のボランティアは指示待ちですぐ逃げるから嫌がられている」という話をされたので、
しばらくそこで働くことにしたり、
戦争の現場を見てみようと訪れたアフガニスタン現地では、ゲーセンが流行っており、
私も遊んだことがあるような日本の有名な格闘ゲームがあったので模範を見せてみると、急にヒーローのような扱いになりました。
そういった場面に出くわす度に改めて感じたのが、 どこに行っても自分は日本人で、
「自分がやること=日本人がやることして扱われる」ということでした。

また、そもそも、僕自身がなぜ海外に行けるかを考えてみても、
それは自分が日本人だからだったんですよね。
インドでは、一生働いても聖地に行けるかどうかという人がほとんどの中、
日本の円やパスポートの力で、僕は大学生にも関わらず海外に行くことが出来たんです。

そうやって考えるうちに、そうやって先人のおかげで海外に行けるのだから、
自分が海外で得たことを日本に還元することをしようという思いを抱くとともに、
自殺や鬱などが多発し、病んでしまっている今の日本を少しでも変えるために、
なにか出来ることをしようと考えるようになったんです。

そんな思いを抱えて日本に戻り、大学を4年半かけて卒業した後に就職活動を始めました。
時期的には第二新卒の枠になってしまっていたため、候補はかなり少なかったのですが、
どうやったら日本を変えられるだろう?と考えた時、
日本が絶対的に信じているものの一つである、メディアの中に入ることで、
その一端を担えるんじゃないかと感じたんです。

元々、面白いことを考えることが向いているという感覚もあったので、 テレビ局や制作会社を回り、
大手の制作会社に拾ってもらうことになりました。

働く中で見いだした、自ら独立したいという気持ち


しかし、実際にテレビ番組の制作に携わり始めてからは、それまで経験してきた世界とのギャップに苦しみました。
それまで、貧困国や戦時中の国も含め、本当の怒りや哀しみを見てきたからこそ、
いわゆる「テレビ的な世界観」に自分の感覚とのズレを感じてしまったんです。
なんだか、夢でも見ているような気持ちになりました。

そんな背景もあり、メディアから日本を変えるという考えから一旦離れようと考え、
ある程度結果を出したらここは出ようと考えるようになりました。
そして、実際に社内の最速記録で昇進をし、自ら一本番組を撮った後、
入社して1年9ヶ月にして、退職を決めました。

仕事を極めたつもりは全くありませんでしたが、
ITとテレビの融合等、新しい事を提案しても企画がうまく受け入れられず、
環境を変えようという思いが固まりました。

退職後は、就業中行けなかった海外を巡り、さらなるインプットをしてから、
元々ツールとして関心を持っていたIT系のベンチャー企業への就職を決めました。

最初こそ業界のことが何も分からないという状況でしたが、お客さんからも勉強させてもらい、
新規事業の立ち上げから上場企業への売却、ベトナム拠点でオフショア事業の立ち上げ等、
幅広い経験をさせてもらいました。

しかし、2年ほど働くうちに、事業売却という出口が2事業続いたこともあり、
漠然とですが、自分で一から事業を作り大きくしていきたいという気持ちを抱くようになったんです。
とはいえ、海外と日本をつなげるという思いは変わっていないものの、
具体的に何をやったらいいかも分からない状態だったので、
一度会社を退職し、もう一度自分の方向性を考えることにしました。

メキシコでの強烈な成功体験


やはり自分自身と向き合うために向かった先は海外で、今度は未知の体験をしにいこうと決め、
メキシコを訪れ、インディアンのもとで修行をしたり、魔女に会いにいったり(笑)、
これまでに無い経験が続きました。

そんな中、現地で寿司パーティーが行われている場に遭遇しました。
しかし、日本のそれとはほど遠く、フェイクに近いもので、なんだかもったいないなと感じながら通り過ぎました。

すると、偶然日本語が聞こえたので見てみると、
現地で店を開きたいという料理人の日本人に出会ったんです。
そして、僕たちが日本人だということに気づいた周りの外国人から、
日本の寿司を作ってくれよと頼まれました。

日本人だけど、寿司なんて作ったことないし、メキシコで無理でしょう、という私に対し、
彼は「俺つくれるよ」とその場で回答。

こうして、2人で寿司パーティーを開くことになったんです。

翌日すぐに、市場で食材を仕入れたり、漁師に頼みに行き、
何とか地元のレストランと交渉をして店の場を提供してもらったりと、
準備に奔走しました。

そして、いざパーティーを開いてみると、これがものすごい盛り上がりだったんです。
周りは喜んで「これが寿司か!」とか「日本人はすごい!」と言って、
僕らは “SUSHI BOYS”とまるで何かの英雄のように声を街中でかけられ、
結局、1日だけの予定が5日間も連続でパーティーを行うことになりました。

「できないと言わなくてよかった、日本のコンテンツが、こんなにも海外で喜ばれるなんて」

と本当に最高の気分でしたね。
アドレナリンが止まりませんでした。
日本の正しいコンテンツは売れるぞ、というイメージができ、
自分にとって一番の成功体験になったんです。

正直、海外と日本をつなげるための何かをしたいと考えながら、
ノウハウや経験等がないことにモヤモヤしていたのですが、それは後付けだと思えたんですよね。

その一ヶ月後、日本に戻り、28歳のタイミングで株式会社Resorzを創業しました。

日本から海外に挑戦する企業・個人を増やす


創業後は、日本から海外に挑戦する企業・個人を増やすという思いのもと、
日本の商品を海外に販売する事業から始めていきました。

正直、かなり苦労することばかりでしたが、絶対なんとかなるだろうという気持ちがありましたし、
日本が大好きで、変えなければいけないという危機感がありました。

その後、海外ビジネスを展開したいという日本企業向けの海外ビジネス進出支援プラットフォーム、
「Diginam~出島~」という事業をリリースしたのを転機に、
徐々に認知度が上がっていきました。

「Diginam~出島~」に関しては、企画段階から自信はあったものの、
リリース1週間後に2011年のと東日本大震災が起こったこともあり、
いきなり逆風かなという不安もあったのですが、
必要性がある市場だったこともあり、順調に推移し、問い合わせの数は現在6000件を超えるに至りました。

その他にも、オフショア開発やBPO企業のマッチングサイト事業も展開し、
海外と日本を結びつけるようなプラットフォームを構築しています。

近隣の韓国・台湾等は国のバックアップも大きいのですが、
日本のJETROの支援はまだまだ限られたものなので、それに近い支援団体が必要だと思っていたんですよね。

だから私達は民間版JETROという立ち位置で、今後は、世界に進出し成功する日本企業を1万社作ることを目標に、
成功例・失敗例のノウハウ提供はもちろん、海外視察の実施等、 日本企業の海外進出に必要な要素を増やし、
支援できる幅も広げていきたいですね。

ゆくゆくは、企業だけでなく、個人も対象にし、
海外での挑戦を応援していけるようなプラットフォームを作ってみたいという思いもあります。
そんな風に、自分が培ってきた経験と思いを事業で形にしていきたいですね。

2014.12.15

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