「想像力」を磨いてくれた全てに恩返しを。インターネット上でも 僕は僕です。
2次元美少女オンライン麻雀ゲーム『桃色大戦ぱいろん』のプロデューサーを経て、キャラクター制作会社を今年6月に立ち上げた白川さん。同ゲームを知る人に、白川さんを知らない人はいない程、その代名詞となった白川さんですが、もともとゲーム会社で働くつもりはなかったそうです。 そんな白川さんが、ゲーム業界で働くようになり、現在の起業に至るまでには、どのような背景があったのでしょうか。
白川 龍
しらかわ りゅう|キャラクター制作会社運営
キャラクター制作などを行う、株式会社カラメルカラムの代表取締役を務める。
株式会社カラメルカラム
ニコニコチャンネル『カラカラステーション』
個人Twitter
深夜ラジオを聞きながら、想像力を養いました
漫画好きの両親の影響で、僕は小さい頃から親世代の漫画に触れて育ちました。手先が器用で絵を描くことも好きだったので、漫画家になりたいと思うようになり、小さいながらに、漫画は娯楽ではなく芸術だとも感じていました。
しかし、小学校6年生で『火の鳥』を読んだときには、夜に眠れなくなるくらい興奮したと同時に、漫画の頂点を観てしまった気になり、漫画家になる夢はしおれてしまいましたね。
一方で、小学校ではゲームが大流行していましたが、我が家では禁止されていたので、代わりに姉のサブカルチャー漫画を盗み読みしたり、深夜ラジオを聞いたりしていました。
僕は小学生の弟と同じ部屋で寝ていて、夜になったら電気を消さなければならなかったので、やむを得ず、イヤホンでラジオを聞きながら毎晩寝ていたのですが、視覚を遮断して、耳からの情報だけで頭の中に像を浮かべることが楽しくなっていったんです。例えば声や音だけを聞いて、声優さんの顔を想像したり、情景・像を鮮明にイメージしたりしていました。
そんなある日、中学3年生の時に、たまたま隣の席の友達に誘われて、その場のノリで、一緒にコピーバンドをやることにしたんです。僕はボーカルをやることになったのですが、楽器も何かできた方がかっこいいと思ってギターもやっていました。歌は割と上手な方だったので、高校に入っても音楽を続けて、高校3年の時は、プロを目指して活動に力を入れるようになりました。
何でもいいから就職しなきゃ
高校卒業後は、フリーターとしてアルバイトをしながら、オリジナルバンドを結成して活動したのですが、結局、2年程で解散してしまうことになりました。
僕は、伝説のロックスターは27歳で死ぬというジンクスを信じていたので、僕も27歳で死ぬだろうから、今のうちに曲を書いておかなければと、解散後も、とにかくバカみたいに曲を作成し続けていました。
アルバイトをする時以外はひたすら家にこもり続け、自分にはどこまでできるのかと挑戦するような気持ちで、最終的には200曲くらいオリジナル曲を作成していましたね。
そんな風に音楽活動を続けていた21歳の時に、たまたまバイト先が潰れることになり、新しい仕事を探さなければならなくなりました。そして、コンピューターのプログラムのバグを取り除く、「デバッガー」のバイトが高給で募集されているのを見つけ、登録することにしたんです。
本来このデバッガーという仕事は、次の日どこの会社へ派遣されるかもわからないようなものなのですが、初日に派遣されたゲーム会社で、たまたま気に入ってもらうことができ、それからの4年間、その会社所属のように毎日働かせてもらいました。
それまでは、バイトをそこまで真剣に取り組んで来なかった分、僕でもこんなに働けるんだと驚きましたし、真面目に働いていたので、ゲーム業界のこともいろいろと知ることができましたね。
ところが、仕事にもある程度満足していた25歳のある日、女性がらみのことでものすごくショックを受け、改めて自分自身を振り返り、とても落ち込んでしまったことがあったんです。
またその時、自分の高校時代の友人たちが、ちょうど大学を卒業して、立派に社会に出て、正社員として働き始めている頃だったので、自分だけ取り残されていく感覚を持つようになっていました。
この時初めて、自分の将来に不安を感じ、「とにかく正社員として就職しなければ」という気持ちになり、デバッガーの仕事と音楽活動を辞め、就職活動を始めたんです。
最初は、デバッガーの仕事に加えて、ゲームのシナリオ校正にも携わっていた背景もあり、文章を書くことに興味を持って、出版社を探して30社くらい受けましたが、全て落とされてしまいました。
その後、せめて出版関連に入ろうと考え直して、面接まで進むことができた会社があったのですが、その時ふと、「本当にこれを自分はやりたいのか?」と思ってしまい、面接も身が入らず、結局落とされてしまいました。
そして、もう自分だけではどうしようもできないと感じ、ハローワークに行ってみることにしたんです。ハローワークの窓口で、僕の経歴を話したところ、「じゃあゲーム会社に行くのがいいのではないか」と言われ、ちょうどその時1社だけ募集していたものを紹介してもらったんですよね。
それまで出版にこだわっていましたが、たしかに自分の経歴からすると、ゲーム会社に行くことは順当だと感じ、特にやりたい仕事ではなかったのですが、正社員ならなんでもいいという気持ちもあって、そのゲーム会社の求人に応募しました。
桃色大戦ぱいろん=僕、僕=桃色大戦ぱいろん
そしてその会社の面接を受けることになったのですが、あまり会社のことをよくわからないまま面接を受けに行ってしまいました。
すると、オフィスに『桃色大戦ぱいろん』という、その会社で運営しているゲームの広告が貼ってあったんです。僕の名前が「白川龍」で、中国語で白が「パイ」、「龍」が「ロン」なので、それで運命を感じて、この会社で働くことに決心がつきました。
実際に働き始めてからは『桃色大戦ぱいろん』の運営の仕事を任されましたが、最初は雑用のような仕事がほとんどでした。
しかし、このままの自分ではダメだという思いがあり、このゲームだけは絶対自分が守り抜こうと心に決め、必死に働き、3年目からは、『桃色大戦ぱいろん』のプロデューサーを名乗ることができました。
プロデューサーになってからも、『桃色大戦ぱいろん』と日々向き合い続けました。また、本来、オンラインゲームの運営はユーザーさんから恨みを買いやすい仕事であり、顔と名前を出すことは以ての外であるにも関わらず、もっとゲームを良くしたいという気持ちから、本名を出すことを決心したんです。
本名を公開することで、良いことも悪いことも僕一点に責任を集中させることができ、また他のゲームと比べて、それを強みにすることもできました。
ところが、5年経ったある日、会社の組織変更があり、プロデューサーの立場を退くことになったんです。
これまで自分の全てを『桃色大戦ぱいろん』につぎ込んできたので、辞めるなんて考えられませんでした。また、周りから見ても「桃色大戦ぱいろん=僕、僕=桃色大戦ぱいろん」だったので、プロデューサーを辞めることになったと周りに言った時は、とても驚かれましたね。
しかし、もう今までのように24時間いつでも『桃色大戦ぱいろん』のことを考える必要がないと思うと、ふっと自分の中で糸が切れたような感覚がありました。そして少し休んでみようと考え、その後のことは決めずに会社を辞めたんです。
会社を通して、僕をどう世の中に出していくか
ノープランで会社を辞めたのですが、いくつかお仕事のオファーを頂くことができ、フリーで働いていても、生きていくことには支障はないだろうなというくらいに考えていました。
そんな中、前職の同僚で僕が知っている中で一番優秀だった大野に、一緒に会社をやらないかと誘われたんです。
もちろん優秀な彼からの誘いだからというのもありますが、彼は既にフリーで働いていて、フリーとして働くことの大変さを説得されたこともあり、その場ですぐに、一緒に会社を作ることを決めました。
そして2014年6月、30歳の時に会社を立ち上げ、前職での経験を活かし、サブカルチャープランニング事業や、キャラクター作成事業を行っています。
今後の目標としては、もちろん会社の存続が第一なのですが、会社を通して、もっと自分を世にどう出していくかにも情熱を注いでいこうと考えています。
『桃色大戦ぱいろん』のプロデューサーをしていた時のように、仕事もプライベートも分け隔てなく、パーソナルな部分をいかに出していくかが大切だと思っていて、例えば今は手段として、ニコニコ生放送でラジオを配信しています。インターネット上でも、僕は僕でいたいし、実際に僕に会うことがあった時に、「こんな人だと思いませんでした」とは言われないようにしたいです。
幼い頃にラジオでつけた想像力には、自信がありますし、クリエーターに必要な能力です。でもやはり、感性では若い子にはもうどうしても適わないですし、長い文化の歴史の中で見たら、僕は一点でしかないと思っているので、数十年かけて、「想像力の遺伝子」みたいなものを作品を通して世に広げていきたいです。
昨日よりも今日、より面白みのある人間になって、幼い頃に僕の感性を磨いてくれた、ラジオや、様々なエンターテイメントの奥にいた方々に、何かしらの形で、恩返しをできたらと思います。
1人でも「白川さんがいたから今この仕事をしています」と、言ってくれるようになれたら嬉しいですね。
2014.11.06