若者の「私」がやる意味を追求する。東京の農家で、農業をより身近なものに!

東京都東久留米市で梨や葡萄の農家を営む島崎さん。大都会東京でありながら、農業が身近だったと話しますが、昔は農家を継ぐ気はなかったそうです。そこからどのように考え方が変わっていったのか、お話を伺いました。

島崎 光司

しまざき こうじ|梨・葡萄・トマト農家
東京都東久留米にある「島崎農園」にて梨、葡萄、トマトを育てている。

島崎農園Facebookページ
ブログ
個人Facebook
 

東京の農家で生まれる


私は東京の東久留米市にある農家で、3兄弟の次男として生まれました。

小さい頃から家で野菜を作っているのは当たり前の環境で、
父の代になってから梨などの果樹をメインで作るようにるまでは、祖父が作った野菜を好きな時に獲って食べていました。
と言っても別に手伝いとかをさせられるわけでもなく、また長男でもなかったので農家を継ぐ気はありませんでした。

ただ、農家は親戚の出入りも激しく近所づき合いも盛んで、周りの人との距離が近く、
また、次男だった影響もあり、人の目を気にする性格になっていったんです。

そして中学、高校ではバスケをしていたのですが、高校1年生の時に怪我がきっかけで辞めてからは、
特に何もしない生活を送り始めました。
一方で、受験勉強をしたくないので大学には推薦で行きたいと考えていて、
日々の小テストで点数を稼げるよう普段の勉強はそれなりにしていたので、予定通り推薦をもらうことができたんです。

父が農家を継ぐ前は電気関係の仕事をしていて、つぶしが利く職業で、しかも色々な業界と関われると聞いていたので、
情報系の学部に進学することにしました。

自分の考えを持つ


大学に入ってからは、競技スキーサークルと学祭実行委員会に入り、
特に学祭実行委員会のメンバーと過ごす時間が多くなっていきました。

最初は勧誘されて説明を聞きに行っただけなんですが、
説明をしてくれた人の見た目が金髪でヤンキーにしか見えなかったんですが、
なんでこの人が学祭に取り組んでいるのか興味があったし、
そんなヤンキーのような人もオタクのような人も、一緒に仲良くしている場が新鮮だったんです。

そして、毎日学祭実行委員のたまり場に行って友人たちと過ごすようになりました。
ただ、私の趣味は昼寝と競馬だったし、人に流されて自分の話をあまりしなかったので、先輩や友人からの印象は薄かったと思います。

しかし、1年目の学祭が終わってすぐの時期に、先輩の誕生日会をやるため家に押しかけようという話になったことがありました。
学祭が終わると実行委員は燃え尽きたような感じになるので、久しぶりのイベントであるこの誕生日会はすごく盛り上がったんですが、
私は次の日も授業があったので、早めに帰ろうとしていました。
すると、周りの友人から止められ、いつもだったら振りきって帰るところなんですが、
なぜかこの時は「帰らなくても良いかな」と思えたんです。

それまでは「こうあるべき」という社会的な固定観念に縛られていたのですが、
その瞬間から、少しずつ「自分がどうしたいか」で行動できるようになったんです。

また自分たちが幹部として実行委員を運営する3年生になってからは、議論の場で自分の意見も言えるようになりました。
最初は意見を言うのにすごく緊張したのですが、後輩たちを背負っている立場でもあり、
自分にしか気づけていないことがあるならば発言するべきだと思ったんです。
そして実際に意見を言ってみると、意外に周りには受け入れてもらうことができたので、
もっと主張して良いんだと自信がつきましたね。

働くというイメージ


そんな生活を続けて3年になり、就職活動の時期を迎えました。
情報系に進みたいとは思っているものの、具体的な仕事のイメージは持てなかったし、
どうやって就職活動をしていけば良いのかもよく分かってなかったので、
ひたすら名前を知っている有名企業の選考ばかりを受けていました。

しかし、そんな理由で受けているので大した志望動機も書けず、ほとんど落ちてしまい、
唯一内定をもらった会社には、そこまで入りたいとは思えませんでした。
そして自分が働くことをイメージすればするほど、小さいころから身近だった農業というものがリアルに感じられてきたんです。

また、ちょうどカナダに留学していた兄と話した時に、
兄は野菜や果物を「売る」のは良いけど作る側にはなりたくないと言っていたこともあり、
将来は農家を継ぐという選択を考え始めていきました。

ただ、農家を継ぐにしても一度企業に勤めて社会を知りたいという思いもあり、
また兄に「入りたくもない会社になんで入るの?」と聞かれたことに後押しされ、
4年生の5月から、本当に働きたいと思う会社3社だけ受けることにしました。

そして、内定をもらうことができたシステム会社にSEとして入社しました。

答えは出ないなら


働き始めてから最初の頃はあまり仕事もできないし、
また市役所向けのシステム導入が主な仕事だったため時期的にも暇なことが多く、
実家が収穫期で忙しい時などは、その差に違和感を感じることもありました。

逆に少し仕事ができるようになって、忙しくなるとそれなりに文句も言うような、よくいる一般的な社会人として働いてましたね。
ただ、元々仕事では勉強させてもらっている感覚が強かったので、人並みに不満はあっても、辞めようとは思っていませんでした。

しかし、3年目になると、父が病気で入院しがちになり、いよいよ自分が家業を継ぐことが現実味を帯びてきたので、
働いているうちに学べるだけ学ぼうと、自ら手を上げて積極的に仕事に携わらせてもらうようになりました。
すると社外の人と関わったり、チームで一緒に進めるプロジェクトも増えてきて、仕事が楽しくなってきました。

ただ一方で、いつかは農業を始める決断をしなくてはならなかったのですが、
考えれば考えるほど収入面なども含めてネガティブな感情が沸き起こってしまい、一歩が踏み出せませんでした。
しかし、ある時、いくら考えても答えは出ないと気づいてしまい、
それなら考えるだけ無駄だから、とりあえず飛び込んでしまおうと思ったんです。

そして、社会人向けの農業大学校の研修科の受験をすることを決め、
受かろうが受かるまいが、年度末に会社を辞めること決めました。
ありがたいことに会社は合否が出てから辞めるか判断すれば良いと言ってくれたのですが、
無事に試験に合格することができ、25歳の時にちょうど3年働いたタイミングで退職することにしました。

気軽な農家として


そして半年間農業大学校に通い、さらに3ヶ月ほど千葉にある梨農園で勉強させてもらった後、
実家の農園を継ぐことにしました。

農家のノウハウは、その家に伝わる経験や勘に頼っていて体系化されていないことが多いので、
実家を継ぐ前に他の農家で体系だった知識を学べたのは、美味しくて安全な野菜を作っていく上で非常に役に立ちましたね。

今は私の農園では、梨や葡萄やトマトを中心に作っていますが、東京でも果物が作れることって意外に知られてないんです。
私は農家の家に育ったので日常でしたが、東京などの都会に住んでいる人にとっては農業は
ハードルが高く、どこか別世界の出来事のように捉えられてしまっているんですよね。
だから私は、そんなことはないということを伝えていきたいんです。
日本の土地、特に関東平野の土地は肥沃だから何でも作れますし、
私でさえある程度美味しい作物を作れる姿を見てもらって、
若い人に農業を身近で簡単なものに感じてもらい、農業に関わる人が増えて欲しいと考えています。

そういう意味も含めて、大学時代の友だちや都会の人が気軽に来て、
収穫の体験などができるハードルの低い農家になりたいと考えています。
また、来て欲しいと思う理由には、会社員時代あまりチームで働く経験ができず、農家を継いでからも一人が多かったので、
一緒にみんなで仕事をすることが個人的に楽しいからという面もあります。

加えて、野菜をつくる上では農薬を撒かなければいけないこともあり、
それでも続けていけるのは近隣の住民の方々の理解と支えがあってこそなので、
近隣の方にも存在価値を理解してもらい、なくなったら悲しいと思ってもらえる場所になりたいと思います。
最近では、地域の保育園の子に梨の花が咲いている時期に来てもらったり、
収穫を一緒に手伝ってもらったりして、子どもたちにも食べ物がどうやってできるのか知ってもらう機会も作っています。

そうやって、これからも安心で美味しい作物を作り続けながら、
それだけではなく、色々な人に農業を知ってもらい触れ合えるような機会を作るなど、
私がこの年で農業に携わっている意味や価値を発揮していければと思います。

2014.10.25

ライフストーリーをさがす
fbtw

お気に入りを利用するにはログインしてください

another life.にログイン(無料)すると、お気に入りの記事を保存して、マイページからいつでも見ることができます。

※携帯電話キャリアのアドレスの場合メールが届かない場合がございます

感想メッセージはanother life.編集部で確認いたします。掲載者の方に内容をお伝えする場合もございます。誹謗中傷や営業、勧誘、個人への問い合わせ等はお送りいたしませんのでご了承ください。また、返信をお約束するものでもございません。

共感や応援の気持ちをSNSでシェアしませんか?