子どもたちにもダンスの舞台の感動を!求め続けてやっと掴んだ夢。

「自分が高校生の時に味わった楽しさを、子どもたちにも体験させてあげたいんです」と話し、岡崎の武将隊のメンバーでありながら、子ども向けのダンス教室を主宰する小田さん。一時期はダンスから完全に離れていたと言いますが、今に至るにはどんな背景があったのか、お話を伺いました。

小田 悠紀

おだ ゆき|子ども向けダンス教室主宰・武将隊員
岡崎市にて、グレート家康公「葵」武将隊として活躍しながら、
子ども向けダンス教室を主宰している。

グレート家康公「葵」武将隊

ダンスに出会う


私は愛知県の岡崎市で生まれました。

小さい頃からシャイで、人前に立つのが苦手でしたね。
中学生になった時、器械体操部に入ろうと思ったのですが、
人数が多かったのでやめて、隣にあって名前が似ていた新体操部に入ることにしました。

新体操部は華やかな子が多かったのですが、私は地味で目立たない子でしたね。
でも、実力を認めてもらえるのが嬉しくて、
個人戦に立候補したり、ソロのオーディションに出るような、
目立ちたがり屋の一面もありました。

ある時、友だちに連れられて高校のダンス部のクリスマス劇の舞台を見に行ったのでが、
初めての生舞台だったこともあり、これがとにかく衝撃だったんです。
すごく綺麗で、しかも女子校なので男装をしている人もいて、
ダンスというかエンターテイメントショーだったんです。

「私も踊りたい、これがやりたい!」と思い、
その高校に入学しダンス部に所属することしました。

高校の部活はとにかく厳しく、先生や先輩は絶対ですし、
みんな毎日泣きながら踊っているような、少し特殊な空間でした。
高校生活の全てはダンスでしたね。

また、発表会の舞台もホールを借りてやるので、
すごくしっかりしたステージで踊るという経験をさせてもらいました。

高校卒業後は、顧問の先生の出身大学のダンス部に行き、
将来は先生になりたいと思っていたのですが、
私は4人兄弟の長女で、家庭の経済的事情で4年制大学への進学は難しかったんです。

高校まではわがままを言わせてもらったので、働かなければと思い、
この時にダンスを続けることは諦めて就職することにしました。

生活のための仕事


高校卒業後は1年間公務員試験の予備校に通って勉強し、自衛隊に入りました。

1年間みっちり勉強したんですが、自衛隊しか受からなかったんです。
それでも、実際に隊舎を見学に行った時も思っていたよりきれいな場所だったし、
特に抵抗感はなかったですね。

最初は新隊員教育を滋賀県の大津で受け、その後、守山の部隊に配属されました。
そこは女性一人で最初は寂しい気持ちもありましたが、
普通科の通信班に配属されモールス信号の勉強をしたり、色々な知識がついたり、充実した生活でしたね。

しかし、2年間の任期を終えたタイミングで、辞めることにしました。
やっぱりダンスをやりたかったんですよね。
自分の周りの友だちは大学生で、みんなは好きなダンスをやっている姿を見て嫉妬もしたし、どんどん卑屈になっていきました。

そして何とかしてダンスに関わる仕事をしたいと思い探したのですが、それでも見つからなかったんですよね。
小さい頃から通っているダンス教室があるわけでもなかったので、ダンスの先生にはなり方が分からなかったんです。

結局、生活するためにダンスとは関係ない仕事をするようになりました。
保険の営業やウエディングプランナー、エステなど色々なところで働きましたが、
どれも長続きしなかったですね。

ダンスができないことでどんどん卑屈になっていき、逆にダンスを避けるようになっていきました。

良い意味でハードルが下がる


そんな迷走の時期を3年ほど送っていたのですが、
名古屋で舞台に携わっている高校の後輩から、
久しぶりに舞台を見に来ないかと誘われたんです。

その時、本当に久しぶりにダンスの舞台を見ましたね。

また、そのダンスカンパニーはジャムセッションやワークショップを開いていたので、
定期的に行くようになり、徐々にダンスと距離が近づいていったんです。

さらに、そのダンスカンパニーの人と結婚し、
その関係で徐々に私も舞台の裏方の仕事に携われるようになったんです。
大道具とか、音響とか、照明とかを教えてもらって、
さらにその知り合いの舞台監督とお仕事で関われるようになりました。

裏方の仕事を見ることで、舞台をやるのは思ったよりも簡単だと言うことを学びましたね。
それまで、舞台は設備の整った大きなホールで行うしかないと思っていたのですが、
別にホールじゃなくてもいいし、設備もそんなに大掛かりでなくとも全然構わないんですよね。

また、ダンサーの人も、働いている人や、子どもがいる人など色々な人がいて、
良い意味で舞台へのハードルが下がったんです。

この後、妊娠して出産をした後、離婚することになったので実家に帰ることにしました。

ダンス教室で独立


そしてちょうどこのタイミングで、
高校の先輩から、チアリーディングダンスの先生をやらないかと誘いを受けたんです。

ちょうどその先輩が仕事を辞める代わりに誰かを探しているとのことで、
私はチアはやったことがなかったのですが、
願ってもなかったチャンスだったので、すぐに飛びつきましたね。
そして、チアの基礎や指導の仕方を教えてもらった後、20人ほどのクラスの先生になることができたんです。

しかし、半年ほど働いたのですが、ダンス教室の教育の方針と合わないことを実感しました。
その教室のチームは大会に出場していたのですが、
私は競技ではなく、エンターテイメントとしてのダンスを教えたかったんですよね。

そこで、独立して自分の教室を始めることにしたんです。
しかも、その教室は600名程の生徒がいたからか、
私が持っていたクラスの生徒をそのまま引き継いで良いと言ってもらえたんです。

そんな風に恵まれた状態での独立でしたが、やはり毎日大変でしたね。

雇われの先生だった時にはなかった保護者の方との付き合いとか、
練習場所を確保するのも自分でやらねばならず、慌ただしい生活でした。
また、最初から20人ほど生徒さんはいましたが、
辞めてしまうことや、増えない可能性があることへの不安は常にありました。

子どもたちにも舞台を


失敗も含めて色入ありましたが、独立して3年が経ち、
今では、おかげさまで生徒さんも100人程に増え、講師も私の他に2人います。

ダンスの舞台を子どもたちにも体験させてあげたい、というコンセプトがあるので、
毎年しっかりとした舞台をやっています。
プロの照明さんも入れ、ホールも借りて600人位のお客さんがお金を払って見に来てくれます。
お金をもらう舞台なので、子どもたちも緊張感を持てるんですよね。

ただ、子どもたちに舞台でしか味わえないものを感じてもらい、楽しんでもらうことが目的なので、
一人じゃ恥ずかしがってしまう子でもみんなと一緒だから出られる、そんな空間にしたいんです。

舞台が終わって、何とも言えない興奮状態にある子どもたちを見るのが喜びですね。

また、最近は岡崎の武将隊である「グレート家康公「葵」武将隊」としての活動も始めました。
これは、舞台の裏方をしていた時の仲間に、募集していることを教えてもらって、
こんなチャンス中々ないので、応募してみたんです。
すると、正直思ったよりも大変そうで気負っていたのですが、なんと合格することができたんですよね。

そして、小松姫として私の身体はお貸しし、
平日は岡崎城で観光案内をし、休日は岡崎公園で踊りを披露しています。

こんなに色々と自由にやらせてもらえるのも、
今の旦那と両親が、平日も休日も子どもの世話をしてくれているからで、本当に感謝しています。

これらかも一生ダンスは続けていきたいと思っていて、
将来は自分のスタジオを持って、舞台が近くなった時だけダンス教室に来る、
おばあちゃん先生みたいになれたらいいなと思います。

これからも大好きな地元岡崎を武将隊として盛り上げながら、ダンスを続けていきます。

2014.09.15

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