重症心身障害者の人と、お互い幸せになる。「知りたい」と思うことで深まる心のつながり。
重症心身障害者と呼ばれる、重度の肢体不自由と重度の知的障害とが重複した状態の方向けに、仕事をする喜びを提供する施設で働く藤井さん。「与えられているのはむしろ私なんです」とお話する背景には、自分自身が感じていた生きづらさと、それを乗り越えるきっかけがありました。
藤井 美和
ふじい みわ|重症心身障害者向け施設の介助スタッフ
第二いぶきにて、重症心身障害者の方たちに働く喜びを提供する。
社会福祉法人いぶき福祉会 いぶきの小窓
身近にいる障害者
私は岐阜県で生まれ育ちました。
小学校を卒業と同時に引っ越すことになり、仲の良い友達と離れなければなくなりました。
親のせいで引っ越さなねばならないのに、忙しいとその悲しみを受け止めてくれなくて、
反発もしたりしました。
とはいえ新しい学校でも友達はでき、楽しく過ごしていました。
ただ、いつも仲良くしてくれる友達がいたのですが、
その子は人気者で、なんで私と仲良くしてくれるのか、
この子と友達じゃなかったら他の子は自分なんかに見向きもしないのでは、
なんて考えて不安になることもありましたね。
なるべく好かれるような自分でいようと、本音は抑えるようになっていきました。
そんな風に中学時代を過ごしながら、
高校を選ぶ時に将来の進路を考えたのですが、特になりたいものはありませんでした。
しいて言えば、子どもが好きだったので、将来は保育士になろうかと考えていましたね。
また、中学3年生の頃、『遥かなる甲子園』という漫画にハマりました。
この漫画は聴覚障害のある高校生が甲子園を目指す話で、すごく感動的だったんです。
みんなに読んでほしいと思ってクラス中に広めてたのですが、
そんな時、一番仲の良かった友達の親が聴覚障害者だと教えてくれたんです。
ショックでしたね。
それまで教えてもらえてなかったことも悲しかったですが、
こんなに身近に聴覚障害を持った人がいるとは知らずに、
軽率な行動をしていた自分自身の無知さ加減に呆れましたね。
この時初めて身の回りにも障害を持つ人がいるということを実感しましたね。
その後、普通高校に通った後は、福祉と保育、どちらも学べる学科のあった短期大学に進学しました。
子どもと福祉
大学は福祉と保育どちらも学べるといっても、基本は保育士の資格を取るコースで、
福祉に関しては、少しだけ授業があるといった程度でした。
そのため、手話のサークルに入って、障害を持つ人と関わる機会は少しずつ持つようにしていて、
やはり福祉の分野でも何かしたいと感じていました。
就職活動では色々な就職先を見て行く中で、
中々自分のやりたいことを実現できる場所がないと思っていたところ、
重症心身障害児施設という名前の施設があると知りました。
単純に「児」という文字が入っていたため、障害を持つ子どものための施設だと思い、
子どもと障害者どちらにも関われるので、自分が求めていたものだと思いましたね。
実際は子どもだけでない施設だったのですが。
この形の施設は岐阜にはなかったので、静岡県の浜松にある施設に就職しました。
ただ、就職した時はそこまで長く働くとは思っていなくて、
3年くらい働いて結婚してやめれば良いかな、なんて考えましたね。
働き始めて1年目の仕事は看護師さんと一緒に働き、施設に入居している方の介護をしていました。
医療っぽいお手伝いもして、そつなく仕事ができたので、自分で仕事ができるような気になっていました。
ところが、2年目になって通所の部署に異動になってから状況が変わりました。
通所の部署は、夜は家庭で生活し、昼間だけ通いで施設に来る方たちの“介護”をするのですが、
この方たちは入居の方と比べて、普段家でご家族の愛を一心に受けている方だったので、
全く私の介助を受け入れてもらえなかったんです。
ベテランの方の介助は受け入れていたので、自分自身が拒否された感覚が大きかったですね。
また、プライベートでも人間不信になることが重なり、
それまで溜めこんできたものが爆発してしまいました。
いい子でいよう、周りに好かれようと常に行動していたのにも関わらず、
動くこと、話すこともできない方たちにも拒否されて、私は一体何なんだろうって思ったんです。
現実逃避のため、連休に一人旅に出ることにしました。
自分と同じ
一人旅と言っても国内のそんなに遠くない場所でしたが、
今まで一人で飲食店にすら入ったことのない私にとっては、大きなチャレンジでしたね。
そして旅先で居酒屋のような場所に入ると、
周りにいた人たちが、一人でいる私を気にかけて喋りかけてくれたんですよね。
赤の他人にもかかわらず、みんな親身になって私の話を聞いてくれて、
中には私のために泣いてくれる人もいました。
人間なんて大嫌いと思って飛び出してきたのに、結局私は人に癒やされていたんです。
それまでずっと「誰も分かってくれない」という生きづらさを持っていたんですが、
この時、それって障害を持つ人たちも同じなんじゃないかと感じたんです。
そう考えた時、今までの自分は「認めてほしい」という気持ちで彼らに接していたのですが、
もっと「知りたい、共感したい」と思うことが大事だとわかったんです。
この連休で考え方が変わってから、現場での自信も少しずつついていきました。
相手が何を求めているのか考え、寄り添っていくことで、
利用者さんにも少しずつ求めてもらえるようになったんです。
また、先輩たちにも恵まれていて、
会議などでは全く喋れなかった私に答えやすい質問を少しずつ投げかけてくれ、
徐々に自分の意見を言えるようにもなりました。
そして、入所の部署へ再び異動になり、主任を任されるようになったころ、
私の部署に新しく入所してきた方がいました。
彼女は全く声を出すこともなく、いつも同じ場所に座っていました。
そこで毎朝、出勤すると誰よりも先に彼女のそばに行き、
話しかけることを何カ月か続けていたら、あるとき大きな声を出してくれ、
それ以降は毎日、私の顔を見ると声を出し、呼んでくれるようになりました。
心が通じたと感じる瞬間でした。
そこで数年働いていたのですが、組織の改変があり、
私は同じグループの知的障害の施設に主任として異動することになったんです。
変わってしまう恐怖
親しくしていた先輩方は定年で退職していったし、
新しい環境は今までとは全く違い、異動してからは大変でした。
正直、利用者さんへのサービスもひどいし、働いている人も荒んでいる人が多かったんですよね。
とは言っても自分自身もまだ利用者さんともスタッフともしっかりとコミュニケーションがとれていなく、
なんともしがたい状況でした。
そんな時、ある職員の一人が利用者さんに暴力を振るうという事件が起こり、緊急会議になりました。
私は彼を解雇すべきと発言しましたが、
彼の将来を考えた施設長は最終的に自己都合退職という形でこの事件を治めました。
重い知的障害を持つ方たちと接していると、
パニックした利用者さんから暴力を振るわれること、
目に余るような行動をする人もいて、私自身、何度も腹をたてました。
しかし、その問題ともいえる行動の裏には、
利用者さんのかまってほしいとか寂しいといった何かしらの理由があるんです。
その職員が利用者さんに暴力を振るってしまったのは、
そういった理由を私が一緒に考え、伝える実力がなかったからだと、非常に後悔しました。
解雇されるべきは、自分ではないのかとさえ悩みました。
その後、1年ほど働き、少しずつですが現場も良くなってきたかと感じていた頃、
以前働いていた施設から実習に来た人に「変わっちゃったね」と言われたんです。
その言葉を聞いて現実を直視しましたね。
この現場を良くしようと頑張っていたものの、
周囲の環境に流されて、
利用者さんへの声掛けのトーンなどが変わっていく感覚は持っていたのですが、目を背けていたんです。
このままじゃダメだと思い、組織の雰囲気を変えるために色々と動きましたが、
施設長や、他の管理職に話をしてもうまく伝えることができず、私一人で空回りをしているような状況でした。
次第に、職場に向かう途中で自然に涙が出てくるくらい追い詰められて、
このままでは自分も誰かを傷つけてしまうのではと怖くなり、一度福祉の現場を離れることにしたんです。
ともに支えあう
それでも、やっぱり障害を持つ人と接すると愛おしく感じ、
今も岐阜にある第二いぶきという、重症心身障害者の人が仕事をするための施設で働いています。
ここでは、平日家から通って来た重症心身障害者の人たちが仕事をするための環境を提供しています。
障害の重さによって個々に合った仕事を提供していて、
お菓子を作る人もいれば、スタッフが手を添えて機械のボタンを押すという人もいて様々ですが、
「自分の手で何かやってできた」という達成感、喜びをもってもらいたいんです。
今はまだ社会的に成人した人向けの障害者支援って非常に少なく、
親御さんたちは、「この子より早く死ぬ訳にはいかない」と言う人が多いんです。
でもそれって、裏を返すと、社会が受け入れてくれていないことの現れだと思うんです。
だから、障害を持つ人たちも必要だと言える場所をもっと増やしていき、
親御さんたちが安心して天寿を全うできるような社会にしたいと考えています。
特に岐阜には、重症心身障害者が親元を離れて暮らせる場所がないので、
彼らが安心して暮らせる場所をいつかは作りたいと思っています。
こういうことをいうと、まるで私は障害者に何かを与えてるような言い方になってしまいますが、
実際には私の方が与えられているものが多いんです。
彼らに求められることで私は自分の存在意義を持つことができたし、
重い障害を持つ彼らが懸命に生きる姿に、強さや元気をたくさんもらいました。
言葉での意思疎通がうまくいかない分、心をそのまま受け取ることができるんです。
うまくは言えないですが、この心を受け取っている感覚や、
純粋に愛おしいと思える感覚こそ、愛なんじゃないかと思っています。
もちろん簡単な仕事ではないし、突然亡くなってしまう人も多く、
その時の悲しみにくれた親御さんたちもたくさん見てきています。
でも、だらかこそ、自分自身が五体満足で生まれてきたことに感謝し、
自分ができる事を全うしなければと思うんです。
これからも、自分も障害者の方もお互いに幸せになれるように、
この福祉の現場で働いていきたいと思います。
2014.09.13