諦めなければ、夢は叶う。日本に「マンボ」ブームをもう一度!
マンボミュージシャンとして小学校での出張授業や、イベントでの演奏を行う余語さん。マンボ音楽に情熱を注ぎ、世界を股にかけて挑戦した背景にはどんな思いがあったのか、お話を伺いました。
余語 丈範
よご とものり|マンボミュージシャン
マンボミュージシャンとしてイベントや催し物の際に演奏活動を行う傍ら、
全国各地の小学校で出前授業を行う。
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マンボ音楽にのめり込んだ学生時代
幼い頃からマンボ音楽を聴いて育ちました。
戦後日本で流行ったこともあり、私の両親が好んで聴いていたんですよね。
また、母が「このマンボ音楽は、ペレス・プラードさんという方が演奏していたものなのよ」と教えてくれ、
CDが流行った小学5年生の頃に、お父さんにお願いをして
名古屋のCDショップでペレス・プラードのCDを買ってもらい、ひたすら聴いていました。
中学・高校と、部活以上にマンボ音楽の世界に熱中していきましたね。
そんな高校生のある時、朝友人から電話がかかってきて、
「ペレス・プラード楽団の来日公演が決まったらしい!」と教えてくれたんです。
すぐにチケットを取って初めてのコンサートに行きました。
その後ライブに行き、初めて生の演奏を聴いたのですが、ただただ感動して涙が出ました。
ペレス・プラードの音楽自体はレコードやCDで何十回、何千回も聞いていたのですが、
それぞれの楽器を演奏する人の表情を目の前で見えたことに感動したんです。
そのあと、更にペレス・プラード楽団のマンボ音楽にのめり込みました。
その後高校を卒業してからは、ピアノの調律師の専門学校に通いました。
大好きなペレス・プラードがピアノの演奏者だったこともあり、彼に近づきたいという思いがあり、
ピアノを弾けない自分でもピアノに関わることができる方法として、調律師の道を選んだんです。
自分の音楽を聴いてもらいたい
調律師の専門学校に通い卒業した後は、ピアノの調律師として名古屋の楽器屋で働き始めました。
働くようになってからも趣味としてペレス・プラードのコンサートに行ったり、
マンボ音楽を聴いたりしていましたね。
また、働いてお金も溜まるようになり、何か自分の楽器を買おうと思いつき、
コンガという打楽器を買いました。
音楽を聴くときに手を叩いてリズムを取る癖があったので、良いんじゃないかと思ったんですよね。
ところが、ビデオを見ながら必死に真似て叩いてみても、
全く同じ音が出なかったんです。
ここまで好きなのに、うまく叩けないことがすごく嫌で、自分は向いてないのかとも思うくらいでした。
そんな時期に、ふと立ち寄った本屋で手に取った雑誌に、「ラテン特集」という文字があったんです。
よく見てみると、日本のマンボ王として知っていた方が講師としてカルチャースクールを開いているという告知がありました。
これを見た瞬間、こここそ駆け込み寺だ!と感じ、
開催場所は東京だったのですが、通うことに決めたんです。
それから月1回、名古屋から新幹線で東京のカルチャースクールに通いました。
そこでは、マンボ音楽に関わらず様々なラテン打楽器に幅広く触れ、楽器を演奏することの基礎を教わりました。
正直、それまで自分はペレス・プラードのマンボ以外は興味がなかったのですが、学んでいくうちに様々な音楽の面白さに気づきましたね。
そして、それまで全く弾けなかったコンガも次第に上達していったんです。
それから、もっと自分の音楽を人に聴いてもらいたいと思うようになり知人とライブも開催するようになりました。
それまで演奏を聴く側だったのですが、そのとき初めて聴かせる側になったんです。
自分が演奏する音楽を人に見てもらうのってこんなに楽しいんだ、と思いましたね。
初めは全くできなかった分、人前で弾けるようになり、楽しんでもらえることがすごく嬉しかったんです。
また、自分が好きなことをやっていて、「このお兄ちゃん面白い!」と言ってもらえるような、
人とのつながりができることにとても面白さを感じました。
それまでは不定期にライブを開催していたのですが、自分からバーで演奏する場を設けるなど、
日中は調律師として働きながらも、週3回くらいは音楽の活動をするようになりました。
「俺、ここで演奏したい」
演奏するようになってからも変わらずペレス・プラード楽団のコンサートに行きました。
2年に1度、楽団の来日公演があり、毎度1回の来日公演で5公演ほど聴きにいきましたね。
だいたい、1公演目は音楽を鑑賞していたのですが、2公演目以降は自分の演奏で何か真似できるところはないか、
など、演奏者の細かい手の動きや弾くタイミングなどに目が行くようになっていました。
そうしているうちに、それまで1ファンだった自分が、「俺、ここで演奏したい」と思うようになったんです。
そこで、まずは楽団のリーダーに会おうと考えました。
知り合いのつてをひたすら使って、何とか公演のインターバルの合間にお会いさせてもらえる機会を得たんです。
そして実際に本人にお会いし、用意したプレゼントを渡したのですが、
その中に、ダメ元で自分の電話番号とアドレスを書いた紙を入れたんです。
インターバルは一瞬のうちに終わり、コンサートが再開したのですが
最後に、観客と演者が一緒にステージの上で踊るという演出になり、一緒に踊る機会がありました。
そこで、リーダーに顔を覚えてもらうためにも、ここぞといわんばかりに目立とうと思って、とにかく楽しく踊りました。
とにかく素敵な思い出でしたね。
すると、その踊りで目立ったのか、なんとコンサートの数日後に楽団のリーダーから電話をいただいたんです。
そして「名古屋のホテルで会おう」となり、改めてお会いする機会をいただきました。
メキシコ人なので、スペイン語だったのですが、
どうにか、リーダーから色々話を聞きたいと思い、単語帳を駆使して
とにかく「あなたのファンです」いうことと、自分の身近な家族のことを伝えました。
そうしてリーダーに「手紙を送らせてほしい」と伝えたところ、住所をすんなり教えてくださったんです。
それから、長い間憧れだったペレス・プラード楽団のリーダーとの文通が続き、
なんと日本に来たときには通訳さんを連れて、お茶やご飯を一緒にさせてくださるようになりました。
日本人初、ペレス・プラード楽団員に
2年くらい、その状態が続き、自分のコンガの腕も上達していくようになり、
次第に絶対にこの人たちと一緒に演奏がしたい、と思うようになったんです。
その思いを、バンド仲間や通訳を頼んでいる人に伝えていました。
それから2005年の大阪でリーダーとお会いした時に、自分の夢を伝えたのですが、
彼から「メキシコに来なさい」という言葉を貰ったんですよね。
加えて、毎回通訳を頼んでいたメキシコ人からも、「そろそろ本場であるメキシコに行く時期なんじゃないか」と言われました。
ただ、メキシコに行くには今の職場に毎日行くことができないため、会社を辞める必要があり、
今までやってきた仕事を辞めることへの不安から、なかなか決意することができませんでした。
ところがそんな時、付き合っている彼女から、
「人生一度きりなんだし、なんとかなるわ!行って来い!」
と言われ不安が吹っ切れて、私はメキシコに行くことにしたんです。
メキシコに着いてからは、リーダーの家にホームステイをさせてもらい、
一緒に演奏する公演に向け、練習を始めました。
当初は、日本での公演で他の楽団員と一緒に舞台に立つつもりで練習に励んでいたのですが、
結局、運営都合との兼ね合いで出演することができなくなってしまったんです。
その事実が分かってから、虚しくも日本に帰国したのですが、
数週間後、リーダーから「今度メキシコのトレオンという街でライブがあるから、それに一緒に出ないか?」という声をかけてもらえたんです。
後になってわかったことなのですが、実はメキシコに住む知人が
自分が日本で「絶対に一緒に演奏がしたい」と言ってることををリーダーに伝えてくれていたんです。
そのお誘いを受けてから、ふたつ返事で行きますと伝えました。
それまでのことがあったことでへこんでいたのですが、
そこで、正式に楽団に入らせていただくことができたんですよね。
私は再びメキシコへ飛び立ち、当日を迎えました。
2時間ほどのライブだったのですが、自分でも覚えていないくらい緊張であっという間に過ぎ去ってしまいました。
ただ、自分の夢が叶ったということがすごく嬉しかったですね。
公演を終えてから「ついに憧れのペレスプラード楽団の一員として演奏したな」という実感を
自分の演奏をビデオで何度も見て感じていました。
日本に再度、マンボ音楽ブームを!
それから、
「いつかは日本公演でも一緒に演奏がしたいな」という新たな夢を持って日本に帰国しました。
また、食べていくためにピアノの調律師の仕事を再開することも決めました。
そうして仕事に復帰してしばらくたったある日、仕事で向かったお宅の女性のお客さまに「何か楽器はやられてるの?」と聞かれたので、
マンボ音楽をやっていることを伝えたところ、
たまたまその方が小学校の先生で、小学生の音楽の教科書に、
マンボ音楽で代表曲である『マンボNo.5』が載っていることを教えてもらったんです。
それを知ってからは、これはマンボ音楽を日本に広めていくのにいいきっかけになる、と思い
すぐさま小学校に呼びかけてマンボ音楽の出張授業を始めました。
実際に授業をさせていただくようになって、
今までこども相手に何かをやったことがなかったのですが、子どもたちとの関わりが予想以上に楽しかったですね。
生の演奏や楽器に触れて、「演奏するのって楽しい!」と言われるのがすごく嬉しく、
それからは子どもの顔を見て、マンボ音楽を広める立場として、そういった機会をもっと増やしたいと考えるようになったんです。
今では、フリーのピアノの調律師として働きつつ、出張授業を行っています。
また、マンボ音楽を広めるため、マンボくんというゆるきゃらを作ってみたり、
SNSでの発信を行ったりと、
色々な活動を行っています。
将来は、日本全国にマンボ音楽ブームをもう一度起こしたいんです。
2014.09.02