みんな本当は気づいているでしょう?親が、1人の人間として悔いなく生きるために。

「悔いがない生き方とは何か」と語るように、親になり生き方に強いこだわりを持ち、こどもの未来のために『KURASOU.』を立ち上げた藤岡聡子さん。どんな過去があり、どんな思いで活動を行っているのでしょうか?

藤岡 聡子

ふじおか さとこ|暮らし・社会を親世代が捉え直すコミュニティ団体運営
親がエネルギーや政治、食についてなど、暮らしに関わるすべてのことについて、
学び、話し合い、行動へ移していくことを目指す団体 KURASOU.の代表を勤める。

親の思考が出会う、場所|KURASOU. 

絵に描いたような家族


私は医者の父と看護師の母の間に生まれ、姉と兄と大型犬に囲まれた、絵に描いたようなあたたかい家庭で育ちました。

父は、正義感に溢れる人で、まさに家族の大黒柱といった感じの人でしたね。徳島生まれで、過疎地域に診療所をつくり、患者さんのためには熱血指導をするような人だったと聞かされていました。

大人になってから知った話でしたが、徳島のある地域で過去に国の公共事業で道路工事に派遣された出稼ぎの人たちが、アスベストの被害にあい病気で苦しんでいるのを知って、父は「国の責任だ!」と弁護団を結成して原告代表として戦ったんです。この裁判での勝訴がきっかけで、全国で同じような被害にあった人と国の和解が始まったという逸話の持ち主でした。

しかし私が10歳の時、そんな父が病気になってしまったんです。父は肺がんを患い、どんどん衰弱していって私が12歳の時に他界しました。

家族にとって大きな存在だった父が亡くなり、多感な年頃だった私は、家族とどう接したら良いのかわからなくなってしまい、家ではほとんど喋らなくなってしまいました。そして、中学2年生の頃から、母とは全く言葉を交わさなくなっていきました。

ぐれていた中学時代


中学に上がり、父の死から寂しさや満たされない何かを感じていて、誰かに見られたいという思いから、金髪にしたり化粧をしたり、どんどん派手になっていきました。周囲から浮いた存在でしたが、誰かに見られていることで安心し、自分の中の足りない何かを埋めていたんですね。

ただ、自分自身は一体何者なのか、わかりませんでした。

高校受験の時は、名前を書いたら受かると言われていた高校にすら落ちてしまい、入学3週間前くらいに、夜間の定時制高校への入学が決まりました。

入学してみると、暴走族上がり、高校中退者、刑務所上がりなどと、「底辺」と社会では揶揄される様な人たちばかりで、1年生の時には27人いたクラスメイトも、卒業したのはたった2人といった学校でした。

私も授業はほとんど寝ていて、アルバイトばかりして過ごしていましたが、学校を辞めはしなかったんですよね。母親や家族との絆を切りたくないという思いが根底にあり、ここで学校を辞めてしまったら、もう戻れないという思いが心のどこかにあったんです。

また、アルバイトを通じて社会と関わる中で、なんだかんだ言って「真面目な自分」がいることに気づくことができ、私は同級生とはどこか違うなと感じていました。

「何が違うんだろう?」と考えた時に、やっぱり育った環境が違ったのではないかと思ったんです。私の母は子育てを楽しんでいましたし、父は正義感にあふれる人で、家族でコミュニケーションをとることを大切にしてくれていました。

親が考えて選択した育て方や生き方の影響を、こどもは受けているんだなと感じたんです。

家庭と社会の両軸を


そうやって改めて家族への感謝は感じつつも、現実は母と話さなくなって4年が過ぎてしまいました。

そんなある時、アルバイト先にいる金髪で派手な格好ながら、愛にあふれる店長の内縁の奥さんに、「そのお弁当誰に作ってもらっているんだ?」と聞かれ、「・・・おかん」と答えました。すると一言、「ありがとうって言えよ」と言われたんです。

店長の奥さんも母親だったので、私にそういうことを言ってくれて、私自身にとって、今このタイミングだからこそ響くものがあったんだと思います。

その時から、少しづつ母に喋りかけることができるようになってきて、目は合わせないものの「ありがとう」とか「おはよう」とか言えるようになりました。そこから一気に距離が縮まり、お風呂も一緒に入るくらい仲良くなりましたね(笑)

このような家庭の環境に関して考える機会が多かったからか「教育」というものに興味を持っていきました。また、高校の担任の先生の影響で、教育は家庭と社会、両軸が必要だと思うようにもなりましたね。

その先生は、いつも「どうした?」「これ読むと面白いよ」と私のことを気にかけてくれて、どんな時でも否定せずに、ずっと見守ってくれる人でした。熱いことを語るような先生ではなかったのですが、全く会っていなくても心のつながりを感じることができる先生でした。

そうやって定時制の4年間を通じて、少しずつ自分の軸が形成されていき、英語だったり、サーフィンだったり、色彩検定だったり、「おもしろいと思えることに取り組む自分」を応援できるようになり、それまで感じていた不足感が満たされていきましたね。

そして、ついにはその定時制高校初の大学進学者になりました。

命を考える


大学時代には、いろいろな人に会い、かなり勉強もしたし、留学にも行きました。そうやって自分の軸がより明確になっていき、教育はしたいけど、勉強を教える「教師」ではないと思うようになりました。

そんな時に母親に「森の幼稚園」の存在を教えてもらいました。森の幼稚園は、土や川や海など、すべての源である森でこどもを遊ばせることで、本質的な学びを得てもらおうという取り組みです。

この取り組みを知り、森は源であると深く共感し、いつかは私もこどもたちに本質的な学びの場を提供できたらと思うようになりました。また、このころに『崖の上のポニョ』の映画を観て、多世代・社会全体で子を育てる環境づくりにも興味がでました。

ただ、まずは教育とはなんぞやと知ろうと、大学卒業後は人材教育系の企業に就職をし、その後友人と介護ベンチャーを起業し、地域とおとしよりとこどもをつなげようと、老人ホームを運営していました。とにかく働くことに夢中で、食生活もボロボロで、自分の生活はあまり大切にしていませんでしたね。

そんな生活をしていた25歳の時にこどもを授かったんです。

出産を経験して、命に対する重みを感じました。目の前のこどもは自分がいなければ生きていけないのだと思った時、食や政治やエネルギーなどそれまで身近でなかった社会問題が、自分とこどもに関わる問題だと気づいたんです。

こどもを通じて社会を見ると、考えなければならない問題がたくさんあるのに、みんな目を背けているこの現状を何とかしたいと思うようになり、NPO等に参加するようになりました。

しかし、こどもが生まれてすぐに、母が末期のがんということが発覚したんです。

育児と看病を両立することになり、弱っていく母と、当時0歳だった生命力あふれる息子をみているうちに、自分がなったからこそわかる、親としての人生の意味を感じるようになりました。目の前のことに向き合い、自分で考え悔いなく生きること、その生き様をこどもに見せることが、親の役目なんじゃないかと思ったんです。

2ヶ月間の看病の末母は亡くなりましたが、母の死を通して、悔いなく生きていくと腹をくくることができました。

思考の出会い


そしてこどもが1歳10ヶ月の頃、KURASOU.という団体を立ち上げました。名前には「ちゃんと暮らそうよ」という意味を込めていて、親が政治やエネルギーや食など、暮らしに関わるテーマについて考え、意見を交わす団体です。いわゆるママ友をつくる場ではなく、「あたりさわる」テーマを話し合うことで、仲間をつくる感覚に近いかもしれませんね。

今の日本は豊かで、考えなくても生きてはいけるけど、やっぱり自分の根っこになる「こころ」を持たないといけないと思うんです。そしてそれぞれの人が自分の考え方を整理するために、みんなで話し合いお互いの価値観を知る、思考の出会いの場を目指しています。

また、地域ごとに伝え、考え続けなければならないテーマは違います。今後は、長崎、広島、福島、沖縄など、それぞれの地域で次世代に語り継ぐ想いを持っているひとたちと一緒に、KURASOU.を立ち上げていきたいと考えています。

この活動を通じて、私が親から学んだように、親である前に、一人の人間として自分の軸を持ち生き、親からこどもへ、世代を超えて時代をつないでいける社会を実現したいと考えています。

また、個人としては、「森」が全ての源であると確信に近い感覚を持っているので、都会な人でも気軽に森に行き、こどもたちが本質的な学びを得られるような活動に取り組んでいきたいと思います。

2014.08.04

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