自分だからこそ伝えられることを、子ども達に。元WJBLバスケ選手が栄養士になって目指すこと。

栄養士として保健センターに勤務する傍ら、小学生のバスケットボールチームのコーチを務める神事さん。全国制覇を幾度も達成するような強豪校を卒業し、実業団リーグの第一線で活躍した後のセカンドキャリアに選んだのは、自身の経験を元に「子ども達に伝えること」でした。

神事 真規子

じんじ まきこ|栄養士・ミニバスケットボールコーチ
千葉県一宮市の保健センターに勤務しながら、 小学生バスケットボールチーム『一宮MINT Kid’s』にてコーチを務める。

名門校への進学


何時何時も全力でバスケットに明け暮れた学生時代でした。

小学4年生まで水泳部にいたのですが、体育館でのトレーニングの時に、
バスケ部がみんなでわいわい練習しているのを見て、楽しそうだなと思ったんです。
水泳は個人競技だったこともあり、憧れがあったんですよね。

そのため、5年生の時にバスケの監督に誘われてからは、すぐに入部を決めました。

私は、小学6年生の時点で168cmと、体格には恵まれたものの、
あまり勝てなかったのですが、毎日練習ノートをつけ、バスケットの基礎と取組み方を学んだ日々でした。

その後、地元の中学でもバスケを続けたのですが、たまたまバスケ部が強い学校だったんです。
気づけば全国を目指し、

「(全国大会が行われる北海道の)旭川に行こう」

というのが合言葉になっていました。

そのため、夜遅くまで練習をし、みんなで家に集まってビデオ分析という毎日で、
なんとか目標だった全国大会に出場し、ベスト8の成績を残すことができたんです。

その成果が認められ、高校は愛知県にある全国優勝を幾度もしている強豪校に進学するチャンスをもらいました。
その学校は、全国から集まった精鋭たちが寮生活を共にする学校で、
仲間と三重県の高校に進学する予定だったので、お話をいただいた時は驚き、迷いもありました。

しかし、私の人生で全国優勝できるチャンスは今しかないと思い、覚悟を決めました。

バスケを続けたい


高校のバスケ生活で、「良かった」と思えたのは、3年の最後の大会で全国制覇をした一瞬だけですかね。

完全オフは年間4日くらいしかなくて
練習後も先輩と4人部屋の寮生活で、心が安らぐ場所がなかったです。

元々貧血気味だったこともあり、身体的にキツさを感じることもありました。
また、本気で辞めようと思ったことが1回あって、みんなにバレないように泣きながら親に電話したことがありました。

反対されるかな~と思ったら、父親から返ってきた言葉は
「マキコが頑張っているのはわかっているから。本当にだめだったらいつでも戻ってきなよ」と言われたんです。

すーっと力が抜けて、両親が見てくれているなら
もうちょっと頑張ろうかな、と思うことができました。

最後の大会で、東京体育館の一面で全国制覇を決めた瞬間は、

「3年間、耐えてきてよかった~」

という思いでいっぱいでしたね。

その後、高校を卒業してからは、今すぐ上のレベルでバスケをやりたいという気持ちから、
オファーをもらった東京の証券会社の実業団チームでプレーをすることに決めました。

ところが、入って2年目の春。そのチームがシーズン後に廃部になることが決まったんです。
突然のミーティングで廃部が告げられたこともあり、

「もう、バスケができなくなる・・・」

全く受け止めることができませんでした。
親にも泣きじゃくりながら電話をし、ひどく混乱してましたね。

そんなタイミングで、高校の顧問の先生から、連絡が来たんです。
経緯を聞いていた先生から

「バスケが続けたいのか?」

と聞かれたのに対して、泣きながら

「はい」

と考える間もなくすぐに答えました。

そして、その電話から2週間しないうちに、他の実業団チームのトライアウトのチャンスを紹介していただき、
愛知の実業団チームに移り、バスケを続ける機会を得たんです。

19歳のことでした。

「良いバスケ人生だったな」


それまでのチームは3部リーグに所属していたのですが、
移籍先のチームは1部のチームだったため、環境は驚くほど違い、
たった一年でバスケ漬けの日々に戻りました。

日本リーグで3位が最高の成績で、25歳まで現役でプレーを続けました。

引退を考えるようになったのは、自分の中で闘争心が無くなっていっていることに気づいたことがキッカケでした。

後輩に負けたり、ミスをした時に、やり返そうという気持ちが以前は強かったはずが、
段々弱まっていることに自分自身が異変に気づいたんです。
プレー自体は好調で、スターティングメンバーとして出場させていただいていたこともあり、
周囲からは反対されましたが、自分では「一緒に戦っている仲間と同じコートに立つ資格はない」という思いがあったんです。

最後は、「自分のバスケット人生、いろいろ経験できて良かったな」と振り返りながら、余裕を持って試合に臨むことができました。
最終試合だけは楽しみながらプレーできたことを覚えています。

その後、バスケットを引退してからまず最初に考えたのは、

「追われることなく、普通に過ごしたい」

ということでした。

名門校の出身だったこともあり、学校の名前だけで勝手に評価をされることも多く、
「一人の人間として生きていきたい」という感覚があったんですよね。

そのまま所属している会社のOLになり、
遅くまで仕事をして、同僚と飲みに行ったり、週末の連休を満喫したり、
それまでできなかったこと全てが新鮮でしたね。

栄養士として子どもの役に立ちたい


ところが、結婚をし30歳を目前に、「もっと人と接する仕事がしたい」という気持ちが強くなったんです。
2年後に夫が転勤をするタイミングだったこともあり、
今やるしかないと考えるようになったんです。

そう考える中でたどり着いたのが、「栄養士」として子どもに携わることでした。

学生時代、貧血で過呼吸など苦しい思いをしていたんですよね。
ひどい時は1日おきに注射も打つほどでした。

そんな中、ある栄養士の方との出会いで、原因が分かったんです。

「なんで私だけ」

と思っていたのが、すごく救われた気がしました。

そんな経験があったからこそ、同じ経験をしているような子どもの役に立ちたいと考えるようになり、
栄養系の短期大学に進学することを決めたんです。
 
栄養士を目指して大学に通い始めてからは、
今まで教えてもらってきたことが全て繋がっていくような感覚でした。

自分の身体の仕組みを知り、そのメカニズムを知ることで、
「食事で人は変われる」ということに確信を持てるようになったんです。
一回り年が離れた学生達と授業を受けていたので、新鮮で充実した大学生活でしたね。

卒業後は、夫の仕事の兼ね合いで引っ越した千葉県の保健センターで働き始めました。
元々やりたいと思っていたスポーツ栄養の分野でも、講演等の機会をいただくことができ、
プライベートから少しずつ活動を始めています。

「目指すこと」の大切さ


また、千葉に引っ越してからは、小学生のバスケットボールチームのコーチとしての活動にも携わるようになりました。

正直、現役引退以来、バスケットボールはもう触らないつもりでいたんです。持つ必要がなかったというか。

ところが、3.11の震災を機に、バスケットに対する向き合い方がすごく変わったんです。

最初に訪れたのは2カ月後の5月。多くの体育館は避難所として利用されていました。
バスケがしたくても「やりたい」と言葉にすることができない子どもたちがたくさんいる。
子どもたちと一緒にバスケをしてくれる人を探していると知人から話しをいただきました。

それを聞いて、子ども達がもう一度バスケをするキッカケづくりになるのであれば、
私が行く意味があるんじゃないかと思ったんです。

実際に石巻・女川・気仙沼を訪れて、子どもと一緒にバスケをしたのですが、
不安な顔をしていた子どもたちがバスケットボールを持った途端、笑顔になっていったんです。

「バスケットってすごいな!バスケやってて良かった」

と思いましたね。

それからは、
「頑張っている子どもたちと一緒にバスケを続けていきたい。
今まで私が経験してきたことを伝え、子どもたちが大好きなバスケを長く続けて欲しい」
という思いから、コーチにも関心を持つようになりました。

自分自身、バスケットで目標を追いかけてきた経験が礎になっていますし、
栄養士へのチャレンジを含め、今も挑戦を続けられるのは、
目指すべきものがあるからだと思うんです。

これからは、スポーツに携わる栄養士として、2020年東京オリンピックに携わりたいという新しい目標を目指しつつ、
バスケットを通して、子ども達に「目指すこと」の大切さを伝えていきたいと思っています。

2014.08.03

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