自分の色を大切にできる、団らんの場を作りたい。 周りに合わせるカメレオンだった自分を乗り越えて。

コーチングのスキルを生かし、中小企業のサポートを行う高橋さん。他人の期待に応えるために頑張ってきた高橋さんは、コーチングとの出会いをきっかけに生き方を見直したと語ります。自分らしさを見失い、苦しい時期も味わった高橋さんが今目指す場所とは。お話を伺いました。

高橋 理美

たかはし りみ|個人事業主
1992年生まれ。奈良女子大学を卒業後、伊藤ハム株式会社に入社。事業戦略部にて経営計画や予算策定に携わった後、貿易業務部で原料の輸入手続き、チームマネジメントを担う。夫の赴任をきっかけに、シンガポール会計事務所へ海外転職。帰国後は、個人事業主として中小企業の事業支援などを行う。SNSでは、料理レシピやプチエッセイ、筆ペンアート、世界・日本各地の飲み歩き記録を公開している。

目立ち過ぎると、嫌な目に遭う


愛知県稲沢市で生まれ、一宮市で育ちました。幼い頃に両親が離婚したので、母と祖父母に育てられたんです。弟がやんちゃだったこと、再婚して妹が生まれたこともあり、私は大人に迷惑をかけないようにと思っていました。空気を読んで過ごしていましたね。

親に褒められることがうれしくて、勉強も頑張りました。いい点数を取れば褒められる。褒められると人に認められていると感じたんです。そろばんやピアノを、大会に出場するくらい努力していました。習い事そのものが楽しいというより、結果を出せば周りから認めてもらえるから頑張っていた感じです。

一方、好奇心が強く目立ちたがりな一面もありました。とにかくやったことがないことをやってみたい。リーダーに立候補したり、学校行事の主役オーディションを受けたり。目立つポジションに立つために、怖いもの知らずでいつも挑戦していました。

そうした強気な性格のせいか、ある日からクラスで仲間はずれにされるようになりました。気づいたら物がなくなっていたこともあります。あまり目立ちすぎると嫌な目に遭うのだと、そのとき気づきました。それ以来、嫌われないように他人との関係に気を遣うようになったんです。自己主張はあまりせず、相手が何を求めているかを敏感に察するようになりました。

ワクワクすることとしないこと、将来の葛藤


高校卒業後は、県外の大学へ進学しました。就職に有利になるようなネームバリューのある学校を選びました。何を学ぶかよりも、就職にどう繋げるかを意識していましたね。幼い頃から母や祖母の働く様子を見ていたので、将来はお給料をもらってバリバリに働く、いわゆるバリキャリになろうと考えていたんです。

専攻したのは理学です。でも手先が不器用で、細かい作業をするのが苦痛。絶望的に実験ができませんでした。あと、学べど学べど全く好奇心を向けられなかった。ワクワクしなかったんです。研究職には向いていないと思いました。研究には時間をかけず、就職を見据えた活動に力を入れることにしたんです。

元々人と接することが好きだったので、様々な接客業を経験しました。仕事という感覚はなく、お客様に会いたくて出勤していました。今日はどんな話ができるだろうと毎日ワクワクして。お客様の好きなことを勉強して対話に活かすことを続けているうちに心が通うようになり、「会いに来た」と言ってくださる方も増えました。某百貨店では賞をもらうなど、好きなことをしているだけなのに感謝されるんだと驚きました。ワクワクすることとそうでないことで湧き出る力が全く違うことに気がつきました。

そんな背景があったので、教員免許を絶対取りなさいという親のアドバイスに私は反対しました。母は心配性で、私にとにかく食いっぱぐれない、安定した道へ進んで欲しいと願っていました。でも、私は自分が教員になる未来が見えず、親に言われたという理由で時間を使うことにとても抵抗がありました。そこで初めて親に反発し「もう縁を切る」とまで言われて、大げんかになったんです。それでも、必ず自立するから信じて欲しいと訴え、なんとか認めてもらうことができました。

「さすが」と言われるプレッシャー


反発はしたものの、親が示してきた根本が安定志向であることは変わらず、ある程度規模の大きな会社で、営業職としてキャリアを歩もうと考えました。それなら人と接することができる、と。大手食品メーカーに営業職で入社しました。

しかし配属されたのは、会社の事業戦略を担う部署。その部署が新卒の社員を受け入れるのは初めてということで、周りは50代のベテランの先輩ばかり。入ったばかりで、急に経営企画に近い仕事に携わることになったんです。

いざ働き始めると「若い子がこんなところに入って、何ができるの?」という、周囲の空気を感じました。それが悔しくて、経験で追いつかない分は知識で埋めようと努力しました。中小企業診断士の資格を取るために学校に通い、少しずつ評価されるようになりました。また、年齢・性別・肩書の違いを理由にせず、ここでも一人一人との対話を大事にしました。最初は怪訝な顔をする方もいましたが、徐々に認めてもらえて。多くのチャンスをもらい楽しく働いていましたね。

入社して6年が経ち、周りの女性社員が結婚などで辞めていく中、周りの人に「私ならできる」と言われる機会が増え、初の女性役員になることを目標にしました。女性のパイオニアがいないという理由で辞めていく若い人たちに「私が会社を変えるから大丈夫」と、背中を見せるつもりで仕事に打ち込んだんです。

しかし、年を重ねるごとに周囲からの期待は高まり、その期待がプレッシャーになりました。人前に立ったり、堂々と意見を言うのが得意だったので、その姿を見て「さすがだね」と言われることが多かったんです。でも本当は不安もあったし、周りから見えないところで頑張っていました。「さすが」と言われる自分と、裏で努力する自分。そのギャップを埋めることが、しんどくなっていきました。

周りの声や期待に見合う自分でいないといけない。頑張るのをやめたら、積み上げてきたものが崩れてしまう。まるで頂上が見えない山を、登り続けているようでした。役員になるまで、この追いかけっこを続けるのだろうか。今の状態に、疑問を抱くようになりました。

自分の色が分からなくなった


会社で働き続けることに、違和感を感じ始めていたとき、夫がシンガポールへ赴任することになりました。付いていくかどうかは、私の選択次第でした。このまま、大変だけど安定した道を行くのか、新たな環境でゼロからスタートするのか。今後のキャリアを考えたときに、海外での経験があった方がいい、未来に投資したいと感じました。何よりも、分かり切った道よりも全く予測がつかない道へ行く方が楽しいかもしれないというワクワク感に駆られたんです。会社を辞めてシンガポールへ行くことにしました。

夫と生活するためには、現地で働き就労ビザを取る必要があったので、語学学校に通って日本人も在籍する会計事務所で働くことになりました。異業種への転職でしたが、数字は得意だし、会計をやっておいて損はないだろうと。この仕事をやりたいというよりは、暮らしていく手段として、仕事を選びました。

しかし、大学時代と同じように、仕事の領域にワクワクできず、キャリアを積み続ける未来はないと感じてしまったんです。さらに、これまで好きだった人との関わりでも苦しい状況になりました。人間関係が上手くいかず、いつ怒鳴られるか分からない環境で、上司や同僚の目を気にして過ごすようになりました。自己主張ができなくなり、イエスマンとして自分の存在を薄めて邪魔にならないよう働く日々に、次第に仕事が辛くなっていきました。それでも、シンガポールで暮らすには、働くしかありません。友人もいない異国の地で、頼れるのは夫だけ。泣きながら、夫に辛い気持ちを吐き出していました。

次のキャリアや人生をどう考えればいいのか。自分がどんな人間なのかを完全に見失い、何もできなくなるほど悩んでいたときに、インターネットでコーチングについて知りました。何かのきっかけになればと、藁にもすがる思いでコーチングを受けてみたんです。

コーチングのセッションは、今までの決断や行動を振り返り、本来の私に気づいていく作業でした。何が好きで、なぜその選択をしたのか。なんとなく行動を続けてきたけれど、私はその行動の元となる感情に、気づけていませんでした。コーチングを受けてみて、本当に自分のことを分かってなかった、忘れていたなと感じたんです。人と対話することが好きだった、ということすら忘れていたんですよね。過去に置き去りにしてきた自分の感情を、取り戻していくような感覚でした。

もっと自分のことを知りたいと、スクールを受講し、本格的にコーチングを学び始めました。そして、これからは自分にベクトルを向けて生きてみようと思いました。周りに合わせるのではなくて、自分が好きだと思えるか、やりたいかを基準に決断してみようと。

まずは自分を満たさなければ


一年経った頃、シンガポールから帰国することが決まりました。帰国してから何をするか、自分がどうしたいかを意識して選んだのは個人事業主でした。今までの私だったら、周りの声を聞き、海外でのキャリアを生かしてもっと待遇のいい場所を探そうとしていたと思います。でも今回は、安定した道は選びませんでした。組織に囚われず、柔軟に働いてみたらどうなるかを知りたいという、好奇心が勝ったのです。

コーチングで学んだスキルと、自分の得意なことを掛け合わせ、中小企業の事業支援をすることにしました。安定していない分、頂いたご縁に感謝し、仕事を断らずにひたすら受けたんです。

ところが、そうして忙しく過ごしているうちに、相手の期待に応えようという一心で、再び自分のことを気に掛ける時間が減っていきました。睡眠時間を削り、やるべきことを必死にこなす毎日。ご一緒しているお客様ごとに自分を変え続ける、まるで自分の色を失ったカメレオンの状態。そんなある日、ついに倒れて病院に運ばれてしまったんです。自分を思いやらずに無理してきた結果が身体に表れました。

倒れて気づいたのが「まず自分を満たさなければ、最高のパフォーマンスはできない」ということでした。役割を演じ続けるのはとてもエネルギーが必要で、知らず知らずに疲弊し、ダウンする繰り返しです。どうしたら本来の私でいられるのか考えた結果、周りの目を気にせずに自己表現できる場所を増やしたい、役割を手放して素の自分でいる時間を増やしたいと思ったんです。自然と動いてしまうような場所や時間が自分を満たし、周りへ循環するエネルギーになるんじゃないかなと。仕事の他に、場作りの活動を始めました。

自分らしさを更新し続けている


今は、個人事業主として課題を抱えている中小企業や家業持ちの方のサポートをしています。具体的には事業計画書の作成支援や、家業持ちのプラットフォームの運営支援など。日本の全企業数のうち、99.7%は中小企業や個人事業主。事業承継など事業存続に対する課題を沢山抱えています。色々な背景がある中で、その人らしい選択ができるよう、対話や場づくりを中心に支援しています。

他にも、「団らん」をキーワードに個人で様々な場づくりを行っています。私自身が役割に振り回されて自分を見失ってしまうことが多かったからこそ、日常の中で一番安心安全で自分の色を出せる瞬間としての団らんの場を提供したいと考えています。具体的には、シェアハウスや自宅で小料理屋と称して料理を提供したり、対話を通して一緒にあり方を探求するサポートをしたりしています。日常の役割を脇において、話したいことを話す。話さなくてもいいんです。反対に頑張りたいときは、それを応援し合う仲間がいる。そんなパワースポットのような空間を作っていきたいと考えています。今後はメタバースでの雑談Barのようなものも作りたいと思っています。

色々な試行錯誤を経て、今は自分と向き合うことができ、自分らしさを毎日更新し続けている感覚です。どんな自分が出てくるのか未知だからこそ、朝起きたときにワクワクするようになりました。様々な役割を担う方々が自分の色を放ち、色とりどりな世界を作っていけるよう、これからも私にできることを続けたいです。

2023.01.12

インタビュー・ライティング | 塩井 典子
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