言葉は私の原動力。 伝え手として、誰かを応援できる存在に。

フリーのアナウンサーとして、「伝える」を仕事にする宮崎さん。テレビやラジオなど、情報を届ける仕事をする上で、大切にしてきたこととは。地元・宮崎県を離れ、関東を拠点に新たな活動を始める決意とは。お話を伺いました。

宮崎 香子

みやざき きょうこ|アナウンサー
1988年宮崎県生まれ。宮崎国際大学卒業。2010年にNHK宮崎と契約。2014年まで「昼前ほっとみやざき」にてメインキャスターを務める。2015年から2021年まで「NHKニュースイブニング宮崎」メインキャスターを担当。現在は生島企画室所属のアナウンサーとして、関東を拠点に活動中。

文章を声に出すのが好きだった


宮崎県延岡市で生まれました。小さな頃は、人前に立つのがすごく苦手でした。みんなの前で喋ると、緊張して顔が真っ赤になってしまうんです。幼稚園のお遊戯会では、舞台に立つのが嫌で泣いていました。

学校の授業では、答えが分かっても手を挙げられませんでした。でも、国語の授業で、教科書を音読するのだけは違いました。発表するのは苦手でしたが、文章を声に出して読むのは好きだったんです。

6年生のときの担任の先生は、そんな私の様子をよく見てくれていました。音読する機会や自分の意見を言う機会など、人前で発表する機会を少しずつ増やしてくれて。しかもそれを褒めてくれたので、次第に人前に立つことに慣れていき、楽しい瞬間が増えて、自信もつきました。

大学2年生のときに海外留学に行ってからは、主体的に動くことを意識するようになりました。日本では、謙遜することや、譲り合うことが美徳とされることがありますよね。でも海外では、譲っていては何もできません。褒められても謙遜していたら、「どうして自分のことをそんな風に言うの。褒められたんだからありがとうでいいんじゃない?」と言われるんです。また、遠慮して機会を譲ると「どうしてやらないの?」と聞かれます。

そんな環境で暮らす中で、主体的に動かなければいけないと実感したんです。もし何か機会があったら、まずやってみることが大事だと。

知らないことを伝えるのは怖い


留学から帰国したタイミングで、宮崎県の観光大使の募集がありました。条件は、宮崎に縁があって、宮崎のことが大好きな人。それなら私にもできるのではと思い、応募してみました。とにかく、何かに挑戦してみたかったんですね。採用されるとは思っていなかったので周りには一切話していませんでした。

結果はまさかの採用。翌日の新聞に載ることになって、慌てて親に電話しました。それから観光大使として、宮崎の情報発信をすることになり、テレビやラジオにも出るようになりました。

県内外のいろんな場所へ行き、宮崎の魅力を伝える役割で、基本的には、用意された文章を暗記して言えばできるものでした。でも、私はそこに書かれていることをよく知らなくて。受け取ったことを、よく知らないまま人に伝えるのは、ちょっと怖いと思いました。

例えば宮崎の海は「真っ青な海」と言われたりすることもありますが、私の感覚では、真っ青というよりは、季節や天候によっては深緑っぽい青だったりします。そうすると、私が「真っ青」と伝えたために、実際に行ってがっかりする人がいるかもしれません。良かれと思って言ったことが、かえって宮崎の魅力を下げることになるかもしれない。

そこで、調べたり、現地に足を運んだりして、自分の言葉で伝えることを心がけました。原稿を作ってくれた人からすると嫌だったかもしれませんが、自分の目で見た感覚をどう表現しようか考えて、文章を書き換えさせてもらったりしました。

ほかにも、お客さんが盛り上がっていれば、ちょっと冗談を入れてみたり、固い会場では真面目な雰囲気を出してみたり。場面に合わせて工夫するようになりました。そのうちに、文章を丸暗記するのではなく、自分の実感を込めて伝えられるようになったんです。

絶対、諦めちゃ駄目だ


どうしたらより伝わるかを考えながらやっていくうちに、イベントに来たお客さんから「実際に宮崎に行こうと思う」「旅行に行く時には教えてもらった場所を周りたい」「あなたに案内してもらえてよかった」と声をかけられることが増えました。

次第に、観光大使の役割がどんどん面白くなっていきました。自分なりに工夫したことが、誰かに届く。その実感を得られることが嬉しかったですね。

将来、伝える仕事をしたいと考え、行き着いたのがアナウンサーでした。しかし、アナウンサーになりたいと考え始めたのは、4年生の夏。アナウンサー試験は大方終わっていて、募集自体がない状況でした。現役でアナウンサーになるのは無理かもしれないと半ば諦めかけていた頃、熊本のイベントで一緒になった芸人さんから「大丈夫だよ」と言われたんです。

その人は、芸人として売れなくても何年もやってきたことや、今ようやくテレビに出られるようになったことを話してくれました。「自分の目指すことを諦めずにやるってすごく大事だよ。絶対になれるから大丈夫。絶対諦めちゃ駄目だよ」と。

その言葉で、やりたいことを諦めずに思い続けていていいんだと思えました。どんな形があるかわからなくても、心の隅で持ち続けよう、と。

すると、卒業を間近に控えた2月に、NHK宮崎の契約アナウンサーの募集が、一件だけ出ました。アナウンサーになることを諦めていたら、応募もしなかったかもしれません。その試験に合格して、晴れてアナウンサーになることができました。

受け取ってくれる相手がいるから


アナウンサーになって最初にしたことは、訛りを直すことです。宮崎の言葉は独特で、アクセントがなく、前後の文脈で意味を判断します。ずっと宮崎で育ってきて、訛っている自覚もなかったので「まず訛りを直せ」と言われて、ニュースを繰り返し見たり、ドラマのセリフではどんなイントネーションで会話をしているのかを学んだりしました。いかに正しい日本語で上手に伝えられるか、技術的なことを習得しようと必死に毎日を過ごしていました。

数年経つと、仕事は一通りできるようになりましたが、自分が何のために働いているのか悩んだり、このまま同じ仕事を続けるのか迷ったりすることもありました。

そんな日々に力をくれたのは、視聴者からの手紙でした。入院中の方が「テレビで宮崎さんの姿を見ることが毎日の楽しみ」と言ってくれたり、「私の言葉を聞くとほっとする」「また明日も頑張れる」と言ってくれる方がいたり。その手紙を読んで、自分が知らないうちに誰かの役に立っていたと、気づきました。

何のためにこの仕事をしているかと考えたら、伝える相手、届け先の人のためなんです。自分が上手に喋れたかどうかではなくて。聞いてくれたり、見てくれたりする人がいて、その人が受け取ってくれて初めて自分がやっていける。知らず識らずに誰かの支えになっていて、それが自分の存在意義にもなっている。そう気づいてからは、続けられるうちはこの仕事を続けようという気持ちに変わりました。

また、自分が年長者の立場になるにつれて、今度は新しく入った人たちに何ができるかを考えるようになりました。特に意識したのは、ポジティブな声掛けです。

できるだけその人の良いところを見つけて、それをちゃんと本人に伝える。そのために、後輩や周囲の人が出演する番組をたくさん見ました。意識して伝えることを続けていたら「職場の雰囲気が変わった」と言われるようになり、視聴者から「雰囲気がいい」「仲の良さが伝わってくる」とお手紙をいただくこともありました。

報道機関、伝え手として気を引き締めるべきところがあるのはもちろんのことです。ただ、一人ひとりが萎縮することなく、のびのびと働くことが、結果として全体がよくなり、視聴者にも伝わると考えていました。自分一人が前に出ればいいわけではないという気持ちは強かったです。

経験を積んでいくと、他の事務所やテレビ局から声を掛けていただくこともありました。正社員になれば生活は安定します。でも、目の前の仕事の楽しさややりがいが勝ちましたね。自分が取材したもの、体験したものを自分の言葉で誰かに伝えられる仕事がやっぱり楽しかったんですよね。一年先のことは分からないけど、今やれることをやろうと思いました。

社会から孤立する怖さを味わって


関東在住の夫と結婚することになり、引っ越すタイミングで仕事をやめることにしました。毎日楽しみを見つけた11年。やめると決めたときは意外とあっさりした気持ちでしたが、やめたら何が残るのかという不安もありました。大きなものを失うというか、自分のアイデンティティがなくなるような感じです。

地元を離れたらアナウンサーを続ける気はありませんでした。私はずっと宮崎にいる、宮崎の人間だからこそ、自分の言葉で伝えられるんだと思っていました。同じことを他の地域でやれる気がしなかったんです。新たな場所へ行き、また一からその土地のことを学んでやれるのか疑問でしたし、地域の人の顔が想像できない不安がありました。そんな状況では自分の言葉で伝えられないのではと思っていました。


しかし、仕事をしない生活が始まって、想像以上に社会と関わる機会がないことに驚きました。同時に、仕事がいかに自分の中で生きるモチベーションになっていたか、自分らしさを保ってくれていたかを実感しました。

仕事をしないと、誰とも喋る機会がないんです。しかもコロナ禍で外出もできず、外の人と喋る機会が全くありません。

そうなって初めて、社会から孤立する怖さを感じたんです。家での役割があっても、社会では孤立している感覚です。同時に、同じような怖さを感じている人が、たくさんいるのではと思いました。そして、そういう人たちも自分の番組を見てくれていたのかもしれないということに気づきました。

それまで私は、伝える人間として、いろんな人の立場で物事を考えることを大切にしてきたつもりでした。一面的な見方をしていると、どこかで傷つく人がいるかもしれません。地元を離れて、仕事がなく家にいる期間ができたことで、同じ様な立場の人のことを、より実感を伴って感じました。

働きたくても働けず、社会の中で孤立している人がいる。新しい場所に早くなじめるよう頑張っている人たちがいる。同じ立場を経験した今なら、家の中で過ごしていても感じられる季節の移り変わりや、なじみのない場所だからこそ気づける地域の魅力など、その人たちにもっと寄り添った伝え方ができると思いました。

そんな中、ケーブルテレビのニュースを読む仕事の誘いをいただきました。週一回、声のみの出演でしたが、やってみるととてもやりがいを感じましたね。局の人やディレクターとの他愛のない会話が本当に楽しくて、働くとこれほどいきいきと前向きになれることを実感しました。やっぱり自分には働くのが合っていると思いましたね。そこで、以前より縁のあった事務所に入り、仕事の時間を増やしていくと決めました。

自分の言葉で誰かを応援したい


今は、フリーアナウンサーとして関東で活動を始めたばかりです。

あらためてこの仕事が面白いのは、同じニュースを伝えるにしても、伝える側の人柄や考え方によって、言葉や表現が変わってくるところ。どこを強調し、どう間を取って読むか。どんなコメントを入れるか。それによって、伝わり方は全く異なります。

だからこそ、何を伝えるためのニュースなのか、自分なりに理解を深めることを徹底しています。自分で取材に行ってない原稿を読む場合は、記者の方と話すことで、ちゃんと自分が意図を理解できているか確認します。

そして、テレビやラジオの向こう側にいる、一人ひとりの顔を想像することもずっと大切にしていきたいです。テレビやラジオ側の人間として話すのではなく、近くにいる人に話しかけるように伝える。そして、受け取ってくれた人に元気や気づきを受け取ってほしい。地方から都会にフィールドが変わっても、その思いは変わりません。

これまでやってきたニュースやナレーションの仕事も引き続きやっていけたらと考えています。と同時に、今後はタレント性を求められたり、他の人が取材したものを読んだりすることも多くなると思いますが、できるだけ自分の言葉で伝えられるよう心がけていきたいです。

地元宮崎に関わる仕事も続けたいと思っています。素敵な人や場所、美味しい食べ物があることなど、宮崎の魅力を知ってもらう機会を増やしたいです。離れたから宮崎の応援ができないわけではなくて、離れた場所だからできることを見つけたいと思っています。

観光大使の仕事にやりがいをくれた「あなたに案内してもらえてよかった」というお客さんの言葉。就職に迷っていたときに励まされた「絶対、あきらめちゃ駄目だよ」という芸人さんの言葉、仕事のモチベーションを失いかけていた時に支えてくれた「テレビで宮崎さんの姿を見ることが毎日の楽しみ」という手紙の言葉。思いかえせば、私はいろんな場面で周りの人の言葉から力をもらったり、気づきをえたりしてきました。

言葉は原動力になる。だからこそ、私自身も伝え手として、自分の言葉で誰かを勇気づけたり、応援することができたらと考えています。情報を届けることだけで満足はしたくない。受け取る人がどういう表情で聞いてくれているか。常にそこで暮らす一人ひとりの顔を思い浮かべながら、伝え続けていきたいです。

2022.01.25

インタビュー | 島田 龍男ライティング | 塩井 典子写真 | 荒井 勇紀
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