日本バイリンガル化計画を実現したい。 恩師が見せてくれた景色を追いかけて。

「本当に喋れるようになる」英語教室、SUNNY BUNNYと英語自在を運営する羽織さん。小さい頃から英語が好きで、英語の先生になるという夢を抱いていました。英語教育への情熱をさらに後押ししたのが、大学時代に出会った恩師の存在です。困難にぶつかりながらも、夢を諦めなかった羽織さんが、描く未来とは。お話を伺いました。

羽織 愛

はおり あい|SUNNY BUNNY Language Education株式会社代表
1979年東京都生まれ。拓殖大学大学院言語教育研究科修士課程修了。2006年に文京区親子英語サークルを主宰。2019年NPO法人早期英語教育研究会設立。英語教育の改革をテーマに、効果的な英語指導法を広く伝えている。著書に『1日5分からの英語で子育て』(すばる舎)がある。

英語の先生になりたい


東京都渋谷区に生まれました。にこにこよく笑う子だったけれど、ぼーっとしていて、何をするにもマイペース。絵を描くのが好きでした。目に見えるものを、二次元に再現するのが面白かったんです。でも紙に描いてみると、見た通りに再現できないことが不思議でした。小学校に入って遠近法を習ったときに、やっとその理由が分かって、面白いなと思いましたね。

父は映画が大好きで、私も字幕がまだ読めない頃から、よく一緒に洋画を見ていました。それで「何を言っているんだろう?」と興味が湧いて。英語を知りたいと思うようになったんです。

小学校4年生になったとき、近所に住む友達のお母さんが英語を教えていると聞き、その教室に通い始めました。英語教室で教わることは「へぇ、そうなんだ!」という驚きの連続。知りたかったことをやっているので、勉強というよりは遊んでいる感覚で、すごく面白かったです。

私は将来、お母さんになることに憧れがありました。だからその教室で「お母さんが英語を教えている」様子を見たときに、「お母さんをやりながら英語の先生になれたら最高じゃん」と思いました。そこから「英語の先生になりたい」という夢を抱くようになったんです。

目上の人はみんな嫌い


中学に入ると、勉強を頑張るようになりました。英語教室の先生に「中学校に入ると、みんな100点を取らないといけないのよ」と言われて、びっくりして。小学校のときはぼーっとしていて勉強もあまりできなかったので、先生はそんな私に発破をかけてくれたのかもしれません。入学後すぐ一生懸命勉強するようになり、成績も上がりました。

特に英語の授業は、ひたすら楽しかったです。仕方なく受ける他の授業とは全く違っていました。“This is a pen.”という定型文ですら、「こうやって言うのね!」と感動しながら学んだんです。

勉強は頑張っていましたが、親からは厳しく叱られることもありました。「こんな点数じゃ何にもなれないぞ」と言われ、悔しさから、反抗する気持ちが大きくなっていきましたね。

中学、高校とイライラした日々を送っていました。目上の人はみんな嫌い。「なめられてたまるか」と、髪型をオールバックにしたこともあります。親とは会話しなくなり、グレまくっていました。

なめられたくないという気持ちから、高校生のときは無性に「強くなりたい」という思いが強かったです。『ダイ・ハード』のような映画にも憧れて、武道や格闘技に関心を持つようになりました。自分で空手道場を探して、見学に行ってみたり。でも親からは理解してもらえませんでした。結局武道をやることは叶わず、憧れだけが残りました。

誇れる日本人になろう


英語の先生になりたいという夢を実現するため、大学は外国語学部英米学科へ入学。そして合気道部へ入部しました。念願だった武道を、やっと学べることになったんです。

合気道部は、上下関係がとても厳しい部活でした。「上の人には意見するな」とか「1時間前に来て雑巾がけをしろ」とか。そんな厳しい教育を受けたのは、生まれて初めてでした。でも私はその指導を、「正しい厳しさ」だと感じたんです。正しく厳しくされたことで、反抗的だった自分に、謙虚さが戻ってきました。

合気道部の師範は、戦争を経験した人でもありました。戦友が隣で亡くなられて、「こいつのためなら俺も死ねる」と思った話を聞きました。でも今の日本の若者を見ていると、そういう気持ちにはならない、とも。

また、戦時中に台湾と関わりがあった大学で、台湾へのOB訪問も経験したんです。そこでも卒業生から戦争中の話を聞く機会があって、「この人達がいるからこそ、今があるんだな」と思うようになりました。そして自分の中に「誇れる日本人になりたい」という気持ちが生まれたんです。自分もいつか特技を生かして、日本に貢献したい、と。

英語ができない原因は、教え方にある


大学に在学中は、英語塾でアルバイトもしました。ずっと憧れていた「英語の先生」の仕事ができて、楽しかったですね。発音が良かったので、子どもたちから人気があって、自分は「いい先生」になれていると思っていました。

4年生のとき、英語教育学者である若林俊輔先生の授業を聞きました。そして「英語ができない原因は、先生の教え方にある」と言われたんです。人生が変わってしまうほどの衝撃でした。私がこれまでに出会った先生たちは皆、「生徒がやらないから英語ができないんだ」と言っていたからです。でも若林先生は「先生に教える知識がないのだから、生徒ができるようにならないのは当然だ」と仰いました。

もし子どもの頃に、この先生に教わっていたら、私ももっと英語ができたかもしれない。今までの人生は何だったんだろう。涙が出るくらい、もっと早く先生の授業を受けたかったと思いました。英語が書けない子への教え方も、読めない子への教え方も、すべて「なるほど!こうやって教わっていたら私もできたな」と思えるものだったんです。今までに受けた英語の授業は、すべて無駄だったと感じるくらい、若林先生の授業を受けるたびに、震えるほどの感動を覚えました。

さらに、先生の主張にはすべて、研究結果による裏付けがありました。その知識の幅広さや情報収集の仕方にも深く影響されましたね。先生に教えてもらった文献を、次々に読みました。知的欲求をどんどん刺激されたんです。

英語塾で自分は「いい先生」になれていると思っていましたが、若林先生に出会ってからは、「とんでもない」と思うようになりました。「いい先生」になる道は、まだまだ遠いと思い直したんです。

出産を機に、自身と向き合う


若林先生の話をもっと聞かなければと感じて、就職はせず大学院へ進むことを決めました。とにかく先生の存在を追いかけたい一心だったんです。

大学院卒業後は、アルバイトをしていた英語塾へ就職。学校の先生ではなく、塾を選んだのは、民間企業なら、消費者と提供者が合意さえすれば、新しい教育法を確立できると考えたからです。若林先生も、民間企業での英語教育にはポテンシャルがあると仰っていたので、私はそこで挑戦したいと考えました。いい先生になって、新しい英語の教育法を確立し、本を出版して日本に貢献する。これを、自分のライフワークにしようと思ったんです。

塾では、「好きなように授業していい」と言われていました。正しい英語の指導法が分からないから、自由にやってくれという感じでした。そこで、大学で研究していた発音矯正などのテーマを元に、授業を行いました。仮説を立て、塾で実践し、そのデータを次の授業に役立てる…そうして少しずつ、自分のメソッドを組み立てていったんです。

塾で1年ほど働いた後、結婚を機に退社することになりました。そして2005年に、娘を出産。子育ては、自身と向き合う機会でもありました。自分の振る舞いや言葉が、娘に影響を与えると思うと、「より良い人間でありたい」という気持ちが強く湧いたんです。合気道部で芽生えた「誇れる日本人になりたい」という思い、英語教育に向き合って感じた「いい先生になりたい」という思い。そこに「より良い人間でありたい」が加わりました。

泣きながら読んだビジネス書


娘が1歳になる頃、友人に頼まれて、英語を教えるサークル活動を始めました。1回500円で英語を教える、幼児向けの親子サークルです。小学生への英語教育でさえ、早期教育と言われる時代。幼児への英語教育については、研究の数も少なく、「早すぎる」という声もありました。

それでも、「やるからには頑張ろう」と、必死で勉強しましたね。もともと小学生以上への教育を専門にしていたので、幼児への教育は初めて。大量の本を買って、ゼロから勉強し直したんです。自分なりにカリキュラムを組み立て、実践しながら、トライアンドエラーを繰り返しました。月1回程度のサークルでしたが、かなりの労力をつぎ込んでいました。

そのうちに参加者は50組ほどに増え、会費を月謝制にしました。小さな教室を借りて、毎週決まった日に指導するようになったんです。アシスタントも雇いました。やるならちゃんと効果を出したい、という気持ちが大きくなっていました。

活動を続けていると、世界的企業から声が掛かり、社員のお子様へ英語の指導をすることが決まりました。売上は一気に跳ね上がり、サークル活動ではなく個人事業として、教室をやっていくことになったんです。講師も、自分を含めて8人に増えていました。

ところが、2011年に東日本大震災が発生。原発事故があった影響で、外国から来ていた講師6人が、急遽海外へ帰ってしまったんです。急に人が減ってしまったので、その分の仕事は全部自分で回さなければなりません。子どもを育てながら、1日10時間働く毎日。収入も上がらず、本当に苦しかったです。周囲からは、もう英語教室はやめて、バイトでもしてお金を稼いだ方がいいんじゃないかとも言われました。

そこで、決意したんです。1年だけ挑戦してみようと。1年間、英語教室の収入で自分と娘の生活費を稼ぐ。それが難しければ、もう英語教室は諦めよう、と決めました。

まず手に取ったのが、ビジネス書でした。それまで、ビジネス書というのは、お金儲けのことが書いてある本だと思っていました。だから読んだこともなかったし、読むのに抵抗感があったんです。でも、子どもを育てながら、やりたいことをやって生きていくためには、これが必要なんだと、自分に言い聞かせて。恐る恐るページをめくってみたら、そこには想像もしなかったことが書いてありました。

社員を大切にし、地域を助けて、日本を良くする。そのために利益を出す…お金儲けの方法ではなくて、社会の成り立ちや経営者の生き様、理念が書かれていたんです。その内容にすごく感動してしまって、泣きながら夢中で読みました。

ビジネスへの興味が膨らみ、経営者を取り上げるテレビ番組も見るようになりました。会社をつくるって素晴らしいことなんだなと、経営者への敬意を覚えましたね。サークル活動をしていた頃は、利益が出るのを悪いことのように思っていました。だから、収支がゼロになるようにしていたんです。友達からお金を集めているのに、余分にもらったら悪いな、という感覚でした。

でもビジネスを学ぶうちに、お金を払ってもらうことは、選挙で票を入れてもらうようなことじゃないかと気づいたんです。人の役に立つビジネスだから、お金を払う人がいる。それなら、「払ってよかった」と思われるサービスを提供したいし、そのサービスが必要な人に届くように、きちんと宣伝もしたい。ビジネスはお金儲けだという、今まで持っていた偏見が、ボロボロと剥がれていきました。

ビジネス書を片っ端から読み、没頭していくうちに、教室の運営が楽しくなり、気づけば目標の収入額も達成していました。そして、もっと社会に貢献したい。そのために会社を強くしたい、との思いから、英語教室の法人化を決めたのです。

「機能する」バイリンガルに


今は、SUNNY BUNNY Language Education株式会社の代表として、子ども向けの英語教室を運営しています。直営教室のほか、SUNNY BUNNYのメソッドを提供してフランチャイズ教室「英語自在」も開校しています。

また、NPO法人早期英語教育研究会の代表も務めています。小学校の先生たちへ英語の指導法を伝えたり、児童養護施設やひとり親家庭などに、無料で英語教育の機会を提供する団体です。

私たちの英語教育の一番の特徴は、「本当に英語が喋れるようになる」ことですね。教室の子どもたちはみんな、先生がいなくても子ども同士で英語を喋ります。なぜそれができるかと言うと、子どもが自分で英語を組み立てて、話すトレーニングをするからです。教室では、本人が本当に言いたいことを、英語でたくさん喋ってもらいます。だから、青が好きでもない子に“I like blue.”とは言わせませんし、実際にペンを手にしているときにしか、“This is a pen.”とは言いません。

参考にしているのは、海外の早期英語教育の成功事例です。これまでの日本のやり方のように、読み書きやテストに比重を置いたり、ただ単に英語でゲームをしたりするのではなく、「話す」を重視し、日本語を介さずに話す力を身に付けていきます。

レッスンで特に大事にしているのは、「Wholehearted(心一杯に)」というキーワード。充実感があって、ワクワクで心が満たされるようなレッスンをしたいんです。言われたことをただやるのではなくて、ジャンプしたくなるような気持ちでできる、楽しいレッスンを心がけています。

こうした教育の先に描いているのは「日本バイリンガル化計画」です。英語を話せることが、当然の世の中になればと思っています。英語を話す力を付けられること、且つ、その学習過程が楽しいものであること。この2つを実現したいですね。別に英語を話せることが偉いわけではありません。ただ、「日本語が通じないなら、英語を喋ろう」と、当たり前に対応できる社会にしたいんです。

バイリンガルと言っても、私が増やしたいのは「ファンクショナル(機能する)バイリンガル」です。英語を勉強したのに、いざ海外に行くと「お釣りが間違ってる」「困ってるから助けてください」など、必要なことが言えない。これは「機能していない」状態と言えるでしょう。そうではなくて、ちゃんと必要なときに必要なことが言える、機能するバイリンガルを育てたいです。

今後は、まず英語自在を30教室まで増やし、強い会社づくりをしたい。それからNPO法人で、公教育の改善に力を入れていきたいです。民間企業では手が届かない部分をNPO法人で担い、日本に貢献できるように、10年後、20年後も残る英語の教育システムをしっかり確立させたいと考えています。

私がずっと追いかけているのは、若林先生と出会って見えた景色です。それは、知的好奇心が満たされて、教育を受けること自体が娯楽になるような世界。英語で遊ぶのではなく、子どもたちが心から、「なるほど!」と学びを得て、満足できる世界です。そして英語を学ぶことで、日本人全体の知性が上がり、知識を得ることの本当の面白さに気づいたり、情報を精査できる力が付いたりする世の中になればと思っています。

ゆくゆくは、「日本バイリンガル化計画」を達成した人物として、自分の名前を世に残したいです。名前が残るというのは、生きた証を刻むみたいでロマンがありますよね。エゴかもしれませんが、自分の生きた証を残し、娘や生徒さんたちに対して、誇れる人生を送りたい。そこには野望を持って、爽やかに成し遂げていきたいです。

2021.11.15

インタビュー・ライティング | 塩井 典子
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