半径2〜3メートルに居てくれる皆を幸せに。 人もイルカも置き去りにしないイルカパークへ。

小さい頃から海が大好きで、将来は「海の学校」をつくりたいと夢を描いていた高田さん。東日本大震災の被災地で「LIGHT UP NIPPON」プロジェクトを主宰し、自分の幸せとは何かに気がつきます。今は長崎県・壱岐島にあるイルカパークの代表を務める高田さんが大切にする“幸せ”とは。実現させたい未来とは?お話を伺いました。

高田 佳岳

たかだ よしたけ|IKI PARK MANAGEMENT株式会社 代表取締役
水産系の大学院を卒業後、大手広告代理店で勤務しながら、東日本大震災の被災地で“追悼”と“復興”の祈りを込めた花火を打ち上げる「LIGHT UP NIPPON」を主宰。2013年に独立し、広告プロデュースやプランニングを手がける株式会社ハレを創業。2018年より長崎県・壱岐島へ移住し、イルカパークの運営などを行うIKI PARK MANAGEMENT株式会社の代表取締役を務める。

「海の学校」をつくりたい


東京で、韓国人の父と日本人の母の間に生まれました。出産後すぐに家族で韓国へ移り住み、4歳でまた東京へ戻ってきました。幼稚園の頃はわんぱくで、とにかく頑固。自分が正しいと思うことは曲げない性格で、大人が相手でも折れませんでした。高校までエスカレーター式の小学校に入学してからも、相変わらずわんぱく・頑固で、同級生や先輩とも、しょっちゅう喧嘩。毎月のように親が学校に呼び出されていましたね。

そんな小学3年生のとき、友達の家族が下田の海へ遊びに連れて行ってくれたんです。友達のお父さんは素潜りが得意で、ちょっと潜ってはタコなどを獲ってきてくれました。その姿が格好良くて、自分も潜りたいと三浦半島の浜辺へ通うように。大きな貝などを拾ってくると両親や周りの大人たちが褒めてくれて、潜ること自体はもちろん、“誰かに喜んでもらえる”ことが嬉しくて、海にはまっていきました。

中学にあがっても暇さえあれば海へ通い、時には友達も連れて行くように。みんなが浜辺で遊んでいる間に海へ潜って、魚などを獲ってくると、すごく喜んでくれるんです。浜で焚火をおこして魚を焼いてあげると、口々に「楽しい」「自分もやりたい」と言ってくれて、“海の遊びを教える”ことに魅力を感じました。

一方で、学校の成績はいまひとつ。勉強に興味を持たせようと、中学2年生の時に親が家庭教師を雇いました。最初は気乗りしませんでしたが、先生の人間性に惹かれていき、先生と会うために勉強をがんばれるように。ある日、先生に「将来は何がやりたいんだ?」と質問されて、自分の興味関心を話していくうちに、海の魅力や遊びを教える「海の学校」をやりたいという答えに辿り着きました。

高校に上がり、海以外の道を考えることもありましたが、「海の学校」以上に動機や目標を話せる仕事は見つけられませんでした。また3年生のときに『グラン・ブルー』というダイバーとイルカの物語を映画館で見て、フリーダイビングとイルカに心を奪われてしまったんです。やはり自分には海しかないと思い、東京の水産大学を受験し、合格しました。

大学では海洋学全般について学びながら、夏休みなどにサイパンへ長期滞在し、ダイビングの本格的なトレーニングをして、インストラクターの資格もとりましたね。結果、フリーダイビングは世界大会の日本代表に選ばれるほど上達しました。そして、その世界大会にゲストとして来ていたのが、ダイバーの神様と呼ばれるジャック・マイヨール氏です。映画『グラン・ブルー』の主人公のモデルにもなった人物で、一緒に潜って、たくさん話もさせていただきました。そのなかで、「ジャックスアイランド」をつくりたいという夢を語ってくれたんです。「無人島を買って、入り江に自然のイルカを呼び込み、イルカと遊べる家をつくりたいんだ」と。僕の「海の学校」と重なる部分もあり、心から共感すると共に、感銘を受けました。

北極で「生」を意識し、社会に出る


大学4年生の時にダイビングを仕事にしようと、インストラクターの長期アルバイトを試しました。しかし、身体的な負担が想像以上に大きいことが判明。他になりたい職業も思い浮かばず、ひとまず海洋研究所のある大学院へ進みました。研究室は岩手県・大槌町にありましたが、一人でロシア北極圏へ赴き、アザラシとホッキョクグマの生態を研究しました。

マイナス20度のなか、流氷の上でハンターと一緒にハンティング。流氷の穴から体半分が落ちるなど、生死に関わる体験を何度もしました。「今日、生きていられるかもわからない」。そんな過酷な環境のなか、現地の方達が豊かに、そして幸せそうに過ごしているのには驚きましたね。自分のいい加減な生き方を反省して、ぼんやりと研究者になろうかなと考えていたのを一変。日本の基本・サラリーマンの荒波に揉まれようと社会に出ることを決めました。

周囲の社会人を見渡すと経営者の方が楽しそうに働いている人が多かったため、数年どこかの企業で修行をしたら、起業しようと決意。少しでも効率的に学べて稼げる企業に入ろうと、給料の良い順に企業をリストアップして上から受けていき、1番最初に内定を出してくれた大手広告代理店に入社しました。

大手飲料メーカーや大手不動産企業をクライアントに営業の仕事を担当。限られた時間・枠の中で、どう生活者の気持ちを捉え、こちらの伝えたいことを正確に伝えるかという技術を学ばせてもらいました。

「半径2〜3メートルの笑顔」が幸せ


働き出して6年目の2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。大学院の研究室があった岩手県・大槌町も壊滅状態となり、何かしなきゃといても立ってもいられない気持ちになりました。しかし、現地で必要とされている瓦礫撤去や物流、料理などは、自分よりも得意な専門家がやった方が良いものができるし効率もいい。自分が本当にやるべきことは何だろうと考えるようになりました。そうして自分が職業とする広告代理店ならではの「エンターテイメント」で地域を元気にしたいと思ったんです。

具体的にできることを探し求めるなか、東京湾の花火大会が中止になると聞いて、使われなくなった花火を東北で打ち上げられたらと思いつき、花火師に連絡をして回りました。花火を譲ってもらえることになり、そこからひたすら仲間探しをして、会社の同僚や先輩、クライアント、尊敬する映像プロデューサーなど、心強い人たちの協力を得られることになったんです。プロジェクトは「LIGHT UP NIPPON(ライトアップニッポン)」と名付けました。

東北は本当に大変な状況で、毎日のように暗いニュースが流れ、花火なんて不謹慎だと否定される可能性もありました。しかし、必死で前を向こうと踏ん張る大人たちがいて、避難所で無邪気に遊びまわる子供たちがいる。そんな人たちに半ば無理やりにでも「楽しい」を届けることに意味があるのではと、準備を進めたんです。

そうして2011年8月11日の午後7時。東日本大震災被災地の太平洋沿岸十数箇所で“鎮魂と復興”の祈りを込めた花火を、一斉に打ち上げる時がやってきました。点火からの数秒が、すごく長く感じましたね。ヒューッという音が昇っていき、最初の花火が開いた瞬間、同じ会場に集まっていた1000人くらいが、一斉に歓声をあげたんです。子供たちが笑いながら花火の方向へ走って行き、近くのおじいちゃんは涙を流していました。「よかった、これが見たかったんだ」と、僕は花火を背にして、みんなの喜ぶ姿をただただ見ていました。

このプロジェクトは取材もたくさんしていただき、とにかく本番までの“苦労話”を聞かれました。しかし正直、「大変だ」と思ったことがないんです。確かに長距離移動の連続は体にこたえましたが、自分がやりたくてやったことだから、苦労と感じたことが本当になかったんです。それよりも「子供たちの笑顔が見たい」という気持ちでいっぱいでした。そんな僕に幼なじみが「子供たちの笑顔を見ている“自分”が好きなんだろ。」と言ってきて。いやいやと返しつつ、確かにそうかもと思いましたね(笑)。

僕は結局、“自分が楽しいと思ったこと”を形にして、周りに喜んでもらうのが好きなんです。言ってしまうと、自分の半径2〜3メートルの人が、楽しい、嬉しい、面白い、美味しいと笑ってくれることに幸せを感じる。LIGHT UP NIPPONはその半径2〜3メートルが連鎖して大きなプロジェクトになりましたが、僕自身は周りの子供たちの笑顔を見て「よっしゃあ!」と言いながらビールを飲めれば満足なんだと気付きました。

壱岐島のイルカパークとの出会い


「自分の楽しいと思うことで周りの人を喜ばせる」。そんな仕事にもっと集中したくなり、広告代理店を2013年に退職。個人事業主を経て、広告プロデュースやプランニングを行う株式会社ハレを設立しました。東北の仕事や、漁業・農業を起点とした地域活性のコンサルティングに取り組むなか、友人経由で依頼を受けたのが、内閣府の国境離島の調査事業でした。20ほどの離島を回り、その課題や可能性、必要なサポートを調査する仕事。そのなかで訪れた離島のひとつが、長崎県の壱岐(いき)島でした。

壱岐島近くの対馬(つしま)には何度か遊びに行ったことがあり、いつか訪れてみたいと思っていたので嬉しかったです。実際に訪れると、壱岐島には想像以上に多くの歴史・文化があり、どんどん惹かれていきました。調査事業は数カ月間で終わりましたが、その後もアドバイザーとして事業者や行政をサポートする仕事をいただき、引き続き壱岐島に通いました。

そのようななか、いつも現地でアテンドをしてくれる役場の職員さんから「イルカパークという施設を見て欲しい」と依頼をされたんです。僕は正直、"飼われているイルカ”が好きではなかったので、行きたくないと断りました。しかし職員さんが「ここを観光の目玉にできなければ、壱岐が本当に沈んでしまうかもしれません!」と、必死に食い下がってくるんです。僕も断り続けましたが、7回目でついに折れて、イルカパークを見に行くことに。そこには想像通り、小さな生簀の中に閉じ込められたイルカがいました。

狭い空間で悲しそうにグルグルと回るイルカを見て、出してやって欲しいとお願いしたのですが、「健康管理のため」と出してもらえませんでした。「イルカの生きる尊厳が、ここにはない」。愕然とした気持ちになっている僕に役場の職員さんが、「この子が死んだら、また新しいイルカがやってきます。高田さんみたいな人が助けてくれないと、本当にどうにもならないんです」と語りかけてきました。町の観光の要であるパークを取り壊すことはできないから、この状況を続けるしかないと言うんです。

そこで、不幸なまま死んでいくイルカを何とかしたいと、役場の職員さんと一緒に再建プランを練り始めました。ただイルカに会えるだけでない、イルカと一緒に海の魅力や遊び方まで学べる場所。そんなプランが完成し、いざ取り組もうとなった時に陣頭指揮を取れるプレイヤーがいなかったため、僕自身が壱岐島へ移住して、代表を務めることに。思いがけず、小さい頃からの夢であった「海の学校」と「ジャックスアイランド」を実現することになったんです。

大切なのはイルカと人の“信頼関係”


代表に就任してからは、物理的にも心理的にも「日本で一番イルカに近い場所」を目指して、施設のリニューアルと、イルカの飼育・トレーニングの見直しを行いました。まずはイルカを狭い生簀から出して、入江を泳ぎ回れるように。スタッフには、たくさんのお客さんにも対応できるよう、飼育だけでなく接客も学んでもらっています。古い建物はリノベーションして、イルカを感じながら食事のできるカフェを建設。さらに入江の目の前にある、使われていなかった芝生の広場は、イルカと泊まれるグランピング施設としました。

同時に、国内外にある様々なイルカの施設を回って事例を集めています。なかでも眼から鱗が落ちるほど感動したのが、2019年に訪れたアメリカ・フロリダのドルフィンリサーチセンターです。僕たちはイルカを大切にしながらも、お客様、つまり“ヒト視点”を追求しようとしていました。しかしこのセンターでは「イルカと人との信頼関係」を何より大切にしていたんです。

センターではトレーニングだけでなく、自然に遊ぶ時間もたっぷりと設けています。イルカは心から人が大好きで、僕なんかが餌も持たずに近付いても、嬉しそうに集まってきてくれました。そんなイルカたちの姿は、驚くほど幸せそう!「半径2〜3メートルの幸せは、人だけでなく、イルカも対象なんだ」。そう気付いて、人もイルカも幸せに過ごせるパークをつくろうと決心しました。

誰もが笑顔でいられるイルカパークへ


現在は、SDGsのゴールにもなっている「Leave No One Behind」、つまり「誰も取り残さない」を実践するイルカパークを目指して、日々、挑戦を続けています。この目標を立てたのには2つのきっかけがありました。1つ目は、僕の後輩が目と耳に障害を持った子供をイルカパークに連れてきてくれたことです。視覚でも聴覚でもイルカを感じられず、触ることもできなかった子供が、生簀の上で15分ほど過ごして陸に戻ってきた瞬間、興奮しながら「イルカが好きだ」と必死に伝えようとしてくれたんです。次の日も別の予定をキャンセルして、1日中イルカの傍にいました。超音波なのか何なのか原因がわかりませんが、セラピーの可能性を感じましたね。

2つ目は、県の視察で車椅子の方が来てくれたこと。「誰もが楽しめるイルカパーク」と以前から口にしていましたが、バリアフリーを実現するのは難しいと思っていたんです。しかしその方が「かなりバリアフリーが進んでいて、あと少し努力すればじゅうぶん。車椅子に5、6年も乗っている人であれば、こんなのハザードが無いようなものです」と言ってくれたんです。具体的な改善ポイントも教えていただけ、バリアフリーに本気で取り組む覚悟ができました。むしろ車椅子のまま水中に入って、イルカと一緒に泳げるところまで進化させようと、岩壁エレベーターなどの計画も練り始めています。

僕は「世界を何とかしたい」なんて思える、立派な人間ではありません。しかし、半径2〜3メートルの範囲では、人もイルカも、関わってくれるみんなを本気で幸せにしたいと思っています。その“幸せの濃度”をどんどん濃くしていって、笑顔になった人が、その人の半径2〜3メートルの人を幸せにしたいと連鎖がどんどん繋がっていったら、結構すごいことになりそうですよね。そして、その半径2〜3メートルには、もちろん自分も含まれています。“人のため”という思いの前に、“周りがどんな状況だったら、自分自身が幸せになれるのか”を理解していないと、続かないと思うんです。僕が基準にするのは「笑顔」。半径2〜3メートルのみんなが笑っていると僕も幸せで、そのなかで美味しいビールが飲めたら、それ以上はありません。そのために、人もイルカもみんなが笑っていられるイルカパークを、必ず実現させたいです。

2021.10.21

インタビュー・ライティング | 中川 めぐみ
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