北三陸という「地域」を世界に発信したい。 幼き日の原風景を、子どもたちに取り戻すため。
父親の病気をきっかけに地元へUターンした下苧坪さんは、自分が幼かった頃に大好きだった原風景が地域から消えてしまっていることにショックを受けます。「あの頃の原風景を取り戻して、今の子どもたちに届けたい」「北三陸を世界に発信したい」。そんな願いを叶えるために、下苧坪さんが挑むチャレンジとは。お話を伺いました。
下苧坪 之典
したうつぼ ゆきのり|株式会社北三陸ファクトリー 代表取締役CEO、 株式会社ひろの屋 代表取締役
自動車販売会社や生命保険会社で営業を経験した後、地元である岩手県・洋野町へUターン。2010年に「ひろの屋」、2018年に「北三陸ファクトリー」を設立し、両社の代表を務める。
海辺で過ごした最高の少年時代
岩手県・洋野町の水産加工会社の長男として生まれました。海のすぐ近くで過ごし、小学校から帰ると、海中に生える昆布の森をかき分けて泳いだり、小さなツブ貝を空き缶に入れて焚き火で煮たり。父が仲間たちと所有する大きなヨットに自分の友人も呼んで、みんなで釣りやBBQをするのが最高に楽しかったです。海水浴客もたくさんいて、海と水産業が地域を盛り上げているのを強く感じました。
中学にあがってからも、そんな日々が続きます。しかし徐々に地域の水産業が伸び悩むようになり、父親の会社も経営が厳しい状況に。船も手放し、だんだんと観光客も減っていき、いつしか「この地域で、水産業で飯を食っていくのは無理だ」と、人生の選択肢から水産業を除外するようになりました。高校は外の世界を見たいと考え、町外の商業高校の国際経済クラスを受験し、合格しました。
高校では英語や貿易、パソコンなどを学びました。勉強以外では父の勧めで空手を習い、技術や礼儀、人間性を養いました。また料理に興味を持ち、学校の料理クラブに所属。そのまま料理の専門学校へ進む道も考えましたが、先生に「大学へ進んで他の道も見てみては?」と勧められ、地元の大学へ進学しました。
営業マンとしての栄光と挫折
大学では英語以外に興味を持てる科目がなく、サーフィン三昧、友人と遊びまわる日々。しかし大学3年生の時に交通事故を起こし、周囲にも迷惑をかけてしまったことをきっかけに、生活を改めることに。先生の勧めもあって、シアトルへの語学留学を決めました。
シアトルのスクールには世界中から英語を学びたい学生が集まっていました。多種多様な国籍の友人ができるなかで、各国の文化や歴史を学ぶなど視野が広がり、3カ月の留学を終える頃には国際的な仕事に関心を抱くように。そこで空港で働く通関士を目指したのですが、試験の結果は不合格。たまたま大学に求人の来ていた大手自動車会社の就職試験を受け、営業として入社しました。
担当商材に“軽トラ”があり、これを漁師さんや農家さんにバンバン売って回りましたね。幼少期からそうした方々と触れ合う機会が多かったので、彼らとのコミュニケーションが楽しいんです。商材自体というよりも“営業”という仕事の面白さに魅かれていき、入社して2年が経つ頃には社内トップの営業成績をとれるように。業界紙にも取材され、その記事をたまたま見た保険会社の役員の方から転職のオファーをいただきました。
正直、保険業界にあまり良いイメージがなかったので迷いましたが、その会社の「業界のルールチェンジを目指す」という目標に共感して転職。基本給はゼロ、成果を出した分だけ報酬として返ってくるという環境だったので、サラリーマン感はほぼありません。自然と起業家精神が養われました。しかし稼いだ分だけ遊ぶようになってしまい、生活が堕落。成績も下がっていきました。「このままでは自分の人生がダメになってしまうんじゃないか」と思い始めた頃、父親が病気に。それを機に2010年、退職して地元へ戻ることにしました。
原風景は消え、更に震災が訪れる
地元で最初に感じたのは、愕然とした思いでした。海中に生える昆布の森、拾った貝を煮た浜辺、たくさんの海水浴客が楽しそうに笑う姿、地元でがんばる水産業者たちがきちんと稼げてヨットでBBQをしている…。そんな大好きだった風景が、戻ってきた地元には残っていなかったんです。
地元からも、水産業からも一度離れたからこそ気付いた自分のルーツ。あの原風景をこの手で取り戻したい。そして今の子どもたちにも体験させてあげたい。水産で栄えたこの地域で、子どもたちの人間性をより豊かにするためには、あの原風景が絶対に必要なのだと思いました。
まずは立ち行かなくなっていた父親の会社を解散させ、その後に改めて水産加工販売の会社を設立しました。水産業界は非常に厳しい状況でしたが、それでも自ら代表となってチャレンジしようと腹を括ったんです。加工された養殖・天然わかめを販売する仕事からスタートしました。
それから半年ほど経った2011年3月11日、浜で従業員と仕事をしていたら地面が大きく揺れ、信じられないほど巨大な津波が襲ってきました。皆で高台へと逃げましたが、目の前で漁港や育った場所が飲み込まれていき、全てが終わったと思いました。
しかし同時に、ここから何かをやっていかなくてはと湧き上がるものも感じたんです。全てが流され壊され、三陸でたくさんの人が亡くなった。だからこそ、地域を止めてはいけない。そんな思いでとにかく動き出しました。
隣町の最も被害の大きかった地域で炊き出しのボランティアをしながら、大きな窯や樽、ガス台等を借りて、天然わかめを自分で茹でて、塩蔵するところからの再スタート。三陸の養殖わかめは筏ごと全て流されていたし、みんなバタバタで販売できる加工品もなかったんです。研究を重ねて徐々に良い商品が作れるようになり、都心の百貨店などに自ら営業をかけ、催事で販路を拡げていきました。
曽祖父や仲間の想いに背中を押される
震災から一年が経つ頃、祖父の自宅の片付けを手伝っていると、75年前に撮られたという曽祖父の写真が出てきました。それは、たくさんの干し鮑と曽祖父、祖父そして生産者の皆さんが写った一枚。曽祖父は、何のインフラもない時代にアワビと共に海を渡り、その販売収益を地元の生産者たちに分配していたと祖父が教えてくれました。
まさにその時代のパイオニア。この姿勢こそが、今の自分に最も必要なものだと電流が走る思いでしたね。田舎や都会なんて関係ない、誰でも世界にチャレンジできる。それを実践した男のDNAが自分に流れているのです。こじんまりと国内だけを見るのはやめようと、世界を意識しだしました。
そんな頃、東日本の食の復興・創造の促進や、日本の食文化を世界に誇れるブランドとして確立することを目的に設立された「一般社団法人 東の食の会」という団体の説明会が近隣で開催されると、県の人から聞きました。なんだか怪しい団体だなと思いながらも会場へ行くと、なんと参加者は自分一人だけ。そこに現れたのが、震災復興に取り組むため、大手コンサルティング企業を辞職したという一人の若い男性です。「ブランドを作ろう!リーダーを育てよう!」。そんな彼の言葉を最初は「何言ってんだ?」と聞き流していました。しかし何度も東北へ来て、活動に賛同してくれる大手企業や団体を巻き込み、自分たち生産者とも膝を付き合わせて懸命に話をする姿に「本気なんだ」と感じ、心を動かされていきました。
そうして東の食の会に、深く関わるように。三陸の漁業者たちを地域のリーダーに育てようと開催してくれた勉強会や合宿にも参加し、そこでたくさんの仲間をつくることができました。どうにか三陸を良い地域にして世界へ発信しようと、議論し、夢を語り合う日々。徐々に「世界」という言葉を使う機会も増えていき、「真のブランドとは何か」を考えるように。まずは動いてみようと、三陸の食材を片手にいくつかの国へ渡り、営業をして歩きました。そうした中で次第に、地元である洋野町の特産品であり、自分も小さな頃から食べていた「うに」を海外で販売したいと思うようになったのです。
世界に「うに牧場」のうにを届けたい
うには海産物の中でも特に加工や販売が難しいとされ、参入障壁が高く新規参入が難しい領域です。そのため地元で「うにを取り扱いたい」と言っても関係者たちに相手にしてもらえず、購入に必要な"入札権”をなかなか取得できませんでした。しかし東の食の会のご縁で、ある大手企業がサポートをしてくれることに。大手企業の信用力を借り、設備投資も行えたおかげで、ついに入札権を入手。2016年に、うにで世界へチャレンジするスタートラインに立てたんです。
まずは洋野町のうにの歴史などをひたすら調べました。すると、素晴らしい漁師がたくさんいること、赤ちゃんうにを育てられる施設が本州でここしかないこと、そして世界でも唯一の「うにを育てるための最高の“仕組み”」を保持していることがわかったのです。
日本各地がそうであるように、洋野町の海でも海藻が枯渇する「磯焼け」という現象が起きていました。しかし洋野町の種市漁港には、もともと沖に50〜100メートル、横に十数キロメートルの広大な岩盤地帯があり、そこに先人たちがたくさんの溝を掘ったところ、大量の天然昆布が生える畑をつくることに成功していたのです。そこへうにを放流すると、旨味の塊である昆布だけをお腹いっぱい食べるため、身入り・味ともに抜群のうにが育ちます。こんな場所は世界でも他にありません。
地元ではその仕組みを“増殖溝”という呼び方をしていたのですが、これでは意味が伝わりづらい。そこで「うに牧場」という名前を付けて、愛されるためのブランドづくりをはじめました。
地元で長くうにを扱う方達と加工技術を磨きつつ、各地での営業にも力を入れました。夜が明ける前に築地市場(現豊洲市場)に何度も通い、仲卸の方達や市場関係者にひたすらビラを配りましたね。邪魔だと怒鳴られてラリアットされたこともあったんですが、その人にも「すみません!でも、このうにを買って欲しいんです」と食らいつき、買ってもらったこともあります。そんな努力が身を結んで、うにをはじめて2年ほどで大手の仲卸さんとも商売をできるようになりました。
2018年、ある程度の売り上げが見えてきたので、いよいよ目標としていた「世界」へ本格的に進出するため、本気で仲間づくりにも取り組みました。洋野町のうにの素晴らしさや地域への想い、世界へチャレンジする意義など、「この人は!」と思った方に、とにかく熱く語り続けました。その甲斐があって、東京で経験を積んだUターン人材や、大手企業で活躍しながら副業・兼業という形で協力してくれる人材など、心強い仲間達をつくることができました。彼ら彼女らの能力を活かしてもらうことでチャレンジの幅が格段に広がり、新たに「北三陸ファクトリー」という会社を設立。「北三陸を世界に発信する」をミッションに掲げ、世界レベルの国際規格FSSC22000認証工場も新設しました。
原風景を取り戻すため旗を振り続ける
現在は、北三陸地域の食材を使った製品の企画、製造、販売などを行っています。新工場も完成し、世界で戦える体制も整いました。しかしコロナの影響で、正直スタートラインに立ちっぱなしの状況が長く続きました。本当に苦しくて、心に闇がかかったような日々。しかし同時に、学ぶところもたくさんあったと思います。ダメなものはダメだと認めて、その上でやれることを本気で探し、目の前のことにとにかく没頭しました。
ブルーカーボンやESG投資など、海の資源や一次産業を持続させていくためのアクションについても深く考えることができましたね。世界が一時的に止まってしまったけれど、それでも美味しいものを食べたいという方に、北三陸の最高の製品を届けたいと、いま改めて感じます。以前より、もっと北三陸を発信したいという気持ちが強くなりました。
私たちは、北三陸という地域のファンを作っていきたいです。だからこそ、この活動の判断基準は、売り上げよりも「地域のためになるかならないか」。売り上げがないと活動を継続できませんが、目先のことばかり見ていては、地域が“持続可能”になりません。大切な資源である自然や人を包括的に見て、これは本当に地域のためなのかを考えることが重要です。
また、地域に昔からある自然などの財産を継承しつつ、ブランドとして磨きをかけていくことも忘れてはいけません。これまでと同じことだけやっていても、未来を良くすることはできませんから。この意識を地域全体で分かち合い、育てていきたいです。
そして自分たちだけが良いと思うのではなく、外の視点から見ても良いと思ってもらえるよう、俯瞰して捉え、発信していくことも必要です。そのために、新たに「テロワージュ」という、食・風土・人など地域の魅力を味わってもらうためのイベントなどもはじめました。
今も、世界に進出するという思いに変わりはありません。この壁を乗り越え、世界のブランドを作っていきたいですね。
自分にはできないことがたくさんあります。そこは仲間達を信じて頼ろうと、良い意味で諦められるようになりました。しかし、地域のことを深く考え、未来のための輝く旗を振り続けるのは、自分にこそできることだと思っています。洋野町を世界に愛される町にして、自分が小さかった頃のキラキラした原風景を取り戻す。それを今の、未来の子どもたちに届けていくため、できることをとにかくやり続けていきます。
2021.09.23