確定拠出年金を、わかりやすく伝える。 定年後もキラキラ輝く人を増やすために。

定年退職をしたサラリーマンが安心してセカンドライフを送れるよう、確定拠出年金の専門家として活動する大江さん。もともと3年ほどで寿退社するつもりで大手証券会社に入社したという大江さんは、結果22年間勤め、退職した今も同じ分野で仕事をしています。そこまで仕事にのめり込んだきっかけは何だったのか。そして、定年後もキラキラ輝く人を増やしたいと思うようになった理由とは。お話を伺います。

大江 加代

おおえ かよ|確定拠出年金アナリスト
1967年、愛知県生まれ。大学卒業後、大手証券会社にて22年間勤務。その後、夫で経済コラムニストの大江英樹氏が設立した株式会社オフィス・リベルタスを共に経営。主に確定拠出年金を専門分野として、セミナーや研修での講演、執筆等を行う。近著に、「『サラリーマン女子』、定年後に備える。」がある。

寿退社する気満々で、証券会社へ


愛知県愛西市で生まれました。年の離れた兄が2人いる末っ子で、泣き虫な子どもでしたね。小学校の入学式では、名前を呼ばれて返事をした時の声が小さかったため、先生に怒られてしまって。それがきっかけで、1日で3回泣いてしまうほど(笑)。

でも入学後、母が長期の入院をすることになったんです。母は教師だったので、もともといつも家にいるわけではなかったけれど、入院だと全然甘えられないですよね。一緒に暮らしていた祖母から家の中で役割をもらって、自分でできることは自分でやろうと思うようになりました。幼いながらに「自分がちゃんとしなきゃ」というスイッチが入ったんですよね。頑張ってやったことが褒められるのも嬉しくて。母の入院で、泣き虫ちゃんから少ししっかり者の女の子へ変わりました。

中学ではバレーボール部、高校ではバドミントン部に所属して、どちらも部長を務めました。ぐいぐい引っ張るリーダータイプではなかったのですが、頼まれたり押されたりすると「じゃあ…」とやる感じでしたね。一生懸命に練習していたので、熱中しすぎて気が付いたら倒れていることもありました。

勉強にも真面目に取り組んでいて、分かりやすく答えがパンと出る理系科目の方が好きでしたね。受験勉強を経て、東京の女子大学の数学科に入学しました。

女子大に入った頃は、それまで共学だったぶん、女子しかいない環境に戸惑いましたね。わたしは男女関係なく仲良くしていたけれど、ずっと女子校育ちの子にとっては「男子と仲良くする=付き合う」という感覚が強くて。曖昧な関係を許さない感じが、新鮮で面白かったです(笑)。友人たちはわたしが住んでいたアパートによく遊びに来て、一緒にお鍋を囲むこともありました。ゆるいサークルに入って、みんなでワイワイしながら楽しく大学生活を送りましたね。

数学科の人たちは、卒業後、メーカーでコンピュータ関係の仕事に就くか、教師になることが多かったのですが、自分には向いていないなと感じていました。周囲の友人からも「加代さんは人相手の仕事の方が向いているんじゃない?」と言われてましたね。ちょうどその時、結婚を見据えて親にも会わせていた人がいて、その人が銀行員だったんです。だからわたしも金融系の仕事をわかっていたほうがいいかなと思って。名古屋に支社のある大手証券会社の一般職で内定をもらい、3年経ったら寿会社をする気満々で就職を決めました。

試行錯誤しながら仕事の楽しさを知る


のんきな気持ちで証券会社の名古屋支店に入社し、財形貯蓄などを扱う新しくて小さいセクションに配属されました。サラリーマンが積立で資産を作るような制度を扱うところだったので、一般家庭出身のわたしにとっても身近で、ちゃんと実感を持てる仕事だったんですよね。あまりに莫大なお金を扱うところだと、全然想像もつかないし実感も湧かないので。

ただ、新しくできた部門だったので、前例もなければ先輩もいませんでした。同じく四大卒で入った女性の仲間たちと5人で試行錯誤しながら仕事を進めていました。失敗したり、飛び込み営業で怒鳴られたりすることもあって、みんなでよく泣いていたし、何度も辞めたいと思いました。でも、仲間がいて一人じゃなかったおかげで頑張れていたんです。ゼロから仕事を作ったり、前例がないところから結果を残したり、貴重な経験をさせてもらったなと思いますし、耐性と度胸がつきましたね。プライベートでも、その後、最初の結婚を経験しました。

入社10年目の頃に、日本にも確定拠出年金の制度ができるかもしれない、そして、担当している大手自動車メーカーが、いち早くその導入を本格的に検討しているという情報をつかみました。8万人を対象にしたかなり大規模な仕事だったので、「こんな機会ないし、どうしても関わりたい」と思って。一般職では難しかったので、それまでは頑なに受けようとしなかった職種転換の試験を初めて受けました。入社10年目にして受ける人はかなり珍しかったんだと思います(笑)。でも上司も推薦状を書いてくれて、無事試験を通過。それからは、確定拠出年金関係の仕事に大きくシフトしていくことになりました。

社内でも大変重要な案件で、一緒に働く方々はみんな優秀でした。習うのではないけれど、横で見て学ぶことがたくさんあって、本当に面白かったです。やりがいもあって、深夜遅くまで仕事をするのも全然苦ではありませんでした。相当アドレナリンが出ていましたね。

再婚と同時に感じた定年後の不安


アドレナリン全開で2年ほど頑張っていましたが、ひと段落したところで、気づけば笑い方がわからなくなっていました。「これはオフの時間をつくらないとまずい」と思ってどこへいくかと考えた時、昔、仲間の一人から、インドは若くて体力があるうちに行ったほうがいいと聞いたことを思い出しました。

そこで、自分を休ませるために休暇を取って、一週間インドに一人旅へ。当時は靴を履いているのは首都デリーぐらいで、学校も少し田舎の小学校では、地面に数字を書いて算数を勉強していました。気候も厳しく、生きていくこと自体がとても大変な状況を目の当たりにして、「日本での暮らしを当たり前だと思ってはいけないな」と感じました。お金にまつわる仕事をしていることもあって、生きていく上で何が大切なのか、幸せとは何かを考えるきっかけになりましたね。

帰国後は引き続き確定拠出年金の仕事をしていましたが、家では子供に恵まれないまま、40歳を目前に離婚をしました。小さい頃から祖母も一緒に暮らしていたので、自分も歳を取れば孫がいるんだろうなと、ぼんやりイメージしていたのですが、「おひとりさま老後になっちゃう? どうしよう」と思って。40歳を過ぎてからはずっと「定年を迎えて、会社を辞めたその先は、どうしたらいいのだろう」という不安を抱えていました。

その後しばらくしてから、同じ部門の隣の部署の上司と再婚することに。彼には仕事で困った時に、よく相談にのってもらっていたんです。ただ、わたしたちは15歳離れていたので、再婚時に彼は58歳。「定年」が身近な課題になりました。夫は会社を離れて起業することも考えていて、自分も定年を迎えた先の将来を考えると、会社以外に世の中に居場所を作っておかないと困ると思ったんです。

わたしは会社での仕事が好きでしたし、充実感もありました。でも夫とは年の差があるぶん、一緒にいられる時間は短く、だからこそ苦労は一緒にして濃い人生を過ごさなければ、という想いが強くなり、会社を辞めて起業の手伝いをしようと決意したんです。職場では評価していただいていたこともあり、周囲の方たちからは「もったいない!」と反対や心配をされました。でも気持ちは変わらず、22年間勤めた証券会社を退社。夫を手伝いつつ、自分の居場所を探す活動を始めることにしました。

苦労した居場所作り


野菜や料理を作ることが好きだったので、はじめは「食」に関する仕事をしたいなと考えていました。失敗してもいいから、50歳ぐらいまでに何か居場所を見つけられたらなって。

それで、自分ができることからやろうと思って、野菜ソムリエの資格を取ったり、パン屋さんで働いたりしましたね。野菜ソムリエのほうは、共通の趣味がある仲間ができて楽しかったのですが、仕事としてはなかなか上手くいかず。資格を取っただけで軌道に乗るほど世の中は甘くなくて、顧客がいないと仕事にならないことを痛感しました。「自分ができること」「好きなこと」に「世の中に必要とされていること」の3つ目が揃うことが仕事として不可欠、としみじみ感じました。

日々の暮らしでは、20年以上、サラリーマンの働き方に浸かってきたぶん、会社のように、毎日必ずやらなきゃいけないタスクがないことへの戸惑いもありました。高校時代の旧友に会っても、今までは「証券会社で変わらず働いているよ」と言えば済んだけれど、今の状況を上手く説明できないことにストレスを感じてしまって。「定年後どころか、今すでに世の中に自分の居場所がない」という不安で、調子を崩してしまったんです。

そんなとき、以前確定拠出年金の仕事で繋がりがあった方から連絡が来ました。「お仕事を手伝ってもらえませんか?」と声を掛けていただいて。ちょうど普通の人の資産形成制度として確定拠出年金が広がっていく時期で、その分野に長く携わっていて、現場のことを知っている人材が必要とされていたんですね。確定拠出年金は、わたしが以前の職場ですごくやりがいを感じてやっていた分野だったので、求められていた人材と上手く重なって、お仕事を受けることにしました。

それをきっかけに、お手伝いで始めた仕事が軌道に乗って、活動の幅が広がっていきました。確定拠出年金の専門家として、ライフプランやお金周りのセミナーをするようになったんです。

わたしは準備をしないまま会社を辞めてしまった分、ここに辿り着くまでにかなり苦労しました。今なら副業も認められるようになるなど、労働環境が変わり、もっと上手なやり方ができると思います。

自分の好きなことは、仕事にできるのかどうか。定年後を見据えつつ、会社にいるうちから、アンテナを立てて動いた方が得策だと思います。

定年後もキラキラ輝く人を増やしたい


現在は、夫と一緒に立ち上げた株式会社オフィス・リベルタスで、サラリーマンが退職後に幸せに暮らしていけるような情報発信をしています。引き続き、確定拠出年金の専門家としてセミナーをしたり、いろいろな媒体に寄稿したりしています。書籍の仕事をすることもあって、先日も「『サラリーマン女子』、定年後に備える。」を出版しました。

わたしが社会人になりたての頃は寿退社も多かったですし、定年退職する女性はかなり珍しかったんです。でも今は、定年まで働く女性もたくさんいますし、結婚しても共働きが当たり前じゃないですか。働きながら家庭のことも頑張っている女性たちは、仕事や家庭優先にならざるを得ず、定年を迎えた時、どうしたらいいかわからなくなってしまいがち。わたし自身、退職直後に準備不足で苦労した経験があるので、これから定年を迎える女性たちが、なるべくきちんと準備とセルフプランニングができるようお手伝いがしたいなと。お金や医療や介護にまつわる不安を何となく感じている人が多いのですが、本の中では「棚卸して現状把握すれば、意外と大丈夫ですよ」ということを書いています。

お金や制度にまつわる話は、やっぱりどうしても難しくて敬遠されがちです。だけど、知らないままで済むかというと、そういうわけでもないですよね。だから、それを理解して上手く付き合ってもらうために、できるだけ「わかりやすく、正しく」伝わるように心掛けています。

これから先のことについては、まだしっかりと描けていない部分もあるので、あらためてしっかりしないとな、と気を引き締めています。ただひとつだけ思うのは、今までやってきたことや今頑張っていることは、決して無駄にはならないということ。とことん自分と向き合ってやり切れば、必ずその先に活きていくと思うんですね。未来の自分は、今の自分の延長線上にしかないから。

「定年後も楽しく生きる60代や70代の女性が増えてほしい」。今は、そんな想いを胸に、日々活動中です。そして、自分もその年代になった時に、キラキラしている女性の一人でありたいなと思っています。

2021.08.12

インタビュー | 伊東 真尚ライティング | むらやま あき
ライフストーリーをさがす
fbtw

お気に入りを利用するにはログインしてください

another life.にログイン(無料)すると、お気に入りの記事を保存して、マイページからいつでも見ることができます。

※携帯電話キャリアのアドレスの場合メールが届かない場合がございます

感想メッセージはanother life.編集部で確認いたします。掲載者の方に内容をお伝えする場合もございます。誹謗中傷や営業、勧誘、個人への問い合わせ等はお送りいたしませんのでご了承ください。また、返信をお約束するものでもございません。

共感や応援の気持ちをSNSでシェアしませんか?