地元らしさをつくる「生活景」を守りたい。 三浦のために、目の前の課題へ向き合い続ける。

マグロ漁をはじめとした漁業で栄えていった町、神奈川県三浦市で生まれ育った菊地さん。大学で建築や都市計画について学ぶなかで、三浦らしさを彩ってきた建物を残す大切さに気づいていきます。菊地さんが、移住相談、創業相談、空き家の利活用事業などを手掛けるようになった経緯とは。お話を伺いました。

菊地 未来

きくち みく|合同会社MISAKI STAYLE代表
神奈川県三浦市出身。大学・大学院にて建築、ランドスケープ、都市計画を学ぶ。卒業後は鎌倉ゲストハウスで宿泊業を経験した後、横須賀市役所で専門職として勤務。2018年に合同会社MISAKI STAYLE(ミサキステイル)を設立。移住相談、創業相談、空き家の利活用をメインに活動中。地元の食材を使った朝食を出す食堂「朝めし あるべ」の店主も務める。

誰もやりたがらないことをやってきた


神奈川県三浦市で生まれました。両親はそれぞれ勤め人として魚の運送業をしていて、保育園から帰ってくると、家の近くにある祖父母の家に行くことが多かったです。祖父は金目鯛を獲る漁師で、船の様子を見がてら散歩をする祖父について浜に行ってみたり、磯で小魚を獲って遊んだりしていましたね。夕方になると浜に集まってくる他の漁師たちにお菓子をもらえることもあり、よく可愛がってもらっていました。毎日のように食卓には金目鯛が登場していて、特に煮付けをよく食べていました。祖母の料理を食べることが多かったですね。おやつに作ってくれるお団子が好きでした。

小学生の頃は、あまり目立たないタイプでした。ただ背が低かったため、背の順が前だったり、組体操のタワーでてっぺんを担当したりという意味では目につくポジションでしたね。身体を動かすのが好きで、友達の影響を受けて小5からミニバスケットを始めました。練習で走り込みをするために体力がつき、小6の持久走大会では女子の部で1位に。中長距離が得意になり、中学生ではバスケ部員にも関わらず、陸上部の試合に呼ばれて走る羽目になったこともありました。

高校は、工業、商業、普通科が統合されたばかりの総合学科の学校に進学。入学してすぐに、学級委員を決めるホームルームがありました。誰も挙手をしないので、「さっさと決めて早く帰りたい」一心から立候補。誰もやりたがらないことを、つい引き受けてしまう性格をしているんです。

率先して学級委員を引き受けた結果、度胸があると思われたのか、なぜかクラスメイトたちからヤンキーだと勘違いを受け、敬遠されてしまう事態に。実際にはまったくヤンキータイプではありません。ほどなくして誤解が溶け、無事に仲良くなることができました。私は昔から広く浅くクラス全員と喋るタイプ。中には深く仲良くなる子もいましたが、基本的にはみんなと接するタイプでした。

総合学科は2年生から授業が選択制で、高1の段階で選択のための二者面談が行われました。担任は元工業高校の先生だったため、面談が行われたのは製図室。そこには図面を描くドラフターという機械が置かれていて、その機械に興味を抱いたことから建築について学ぶ道を選ぶことに。もともと、建物などものづくり自体に関心があったことも関係しています。

ノートを取って綺麗にまとめることは好きでしたが、コツコツ勉強をするのは好きではなく、大学は指定校推薦枠で進学。建築学科に進みました。

違和感から知ったまちづくりの裏側


大学の建築学科では、「施工・材料」「建築設計・計画」「設備」「構造」と大きく4つのジャンルに研究室が分かれていました。私はその中で設計や計画を専攻することに。その中でも、公園や造園なども含まれる、ランドスケープを専門とする先生の研究室で、建築や都市計画について学びました。

大学2年生のとき、週に一度、3コマあるフィールドワークの授業を受けていました。まちに出て、そのまちの潜在的な魅力を調べてプレゼンテーション資料を作り、毎回授業で発表するんです。まちを歩き、プレゼンの準備をしての繰り返しは、他の授業に支障が出るほどハードで、履修メンバーが最終的に半数まで減ってしまうほどでした。

私はまちを歩きながら抱く“違和感”を大切にし、その感覚をもたらす理由について調べていく方法を採っていました。坂道の多い上大岡を歩いたときには、道路が分かれているとき、人はどの道を選びやすいかを観察。たとえば、坂道がどれだけ急になったら、坂のままにせず階段を作るかなど、自然の地形を人工的に操作することで、人の動きを誘導できることが面白かったですね。半年間のフィールドワークで、まちをじっくり見ることを学びました。

その後就職活動の時期になりましたが、みんなが就活する様子を見て、面白くなさそうだなと感じました。それぞれもっとやりたいことがあるはずなのに、なぜ100社も採用試験を受けているのか理解できなかったんです。そのため、自分は就活をせず、卒業後は三浦で働くか大学院に行くかの二択に。受験をせずに院に進めたため、進学を選びました。大学受験も指定校推薦でしたし、相変わらずノートをまとめる以外の勉強があまり好きではなかったんです。

学部時代の卒業設計では、生まれ育った三浦に何があったらいいのかを研究。題材に選んだのは城ヶ島です。模型を作りたいと思っていたため、島であれば全体像を模型化できると考えての選択でした。島内には漁村、工業地帯、山や海、商店街がありますが、ただぶらぶら回遊するだけでは観光になりません。そこで、島の地形を感じながらの移動や、山や海で獲れたものを調理して食べられる場所の設置によって、観光体験にできるのではと提案しました。

しかし、卒業制作の展示会は、3月11日に東日本大震災が起きたことで取りやめになってしまいました。震災を通じて、今当たり前だと思っているものがなくなる可能性があること、だからこそ何を今大切にすべきか、自分の町の風景や町並みについて考えなければと思うようになりました。

価値ある建物への想い


大学院では、どういった町づくりをしていくべきか、考えていました。そこに住まう人たちの生活の営みが色濃くにじみ出た景観を「生活景」と呼びます。生活景を守るためには建物を保全する必要がありますが、とはいえ何でもかんでも残すべきというわけではありません。私の判断基準は、まずその建物に価値があると思えるかどうか。また、生活景を守れる建物だとしても、修繕レベルによって残すかどうかの判断は変わり、特に骨組みの状態を判断基準に置いていましたが、個人的には、機能としては不要でも、大工さんのこだわりや美しさを意識した仕上げなどが見られると「残したい」と思いましたね。

三浦はマグロ漁によって発展していった町です。多くの町は鉄道の駅ができることで栄えていくため、港により発展した背景を持つ町はそう多くはありません。そこが三浦のポテンシャルであり、面白いところだと思っています。町のなりたち、建物の作りに唯一無二の価値があるんです。

三浦の特徴に、漁で儲けた人が町にお金を落とすことで建てられた、いわゆる“マグロ御殿”があります。マグロ漁による発展が高度経済成長と重なったこともあり、凝りに凝っている点が特徴なんです。建物の正面、ファサードにお金をかけて贅沢なデザインにしたり、高級な材料を使ったり、生活する際には必要のない大工の趣向が凝らされていました。外壁や塀には千葉の房総半島で採れる房州石が使われているのも特徴で、大工さんも千葉から呼び寄せていたそうです。

しかしあるとき、立派な蔵づくりの建物が壊され、その跡地に建売が建ってしまいました。その蔵づくりの建物は、元は2棟の蔵を木造が繋ぐという、他でも滅多に見かけない珍しい造りをした建物でした。唯一無二のその建築的価値から、学生ながらにどうにかしたいと相続した人に連絡を取らせてもらい、建物に価値があることを伝え「今は買えないけど、この建物を残したいと思っているので売ってほしい」と話したんですが、やはり学生の戯れ言とあっけなく壊されてしまいました。そのことがキッカケで、想いだけでは空き家の解決は出来ないことを学び、自分は価値があると思っていても、所有者さんは全くそうは思っていない「価値観の違い」というものをすごく感じました。
その上で、空き家が個人の所有ではあるものの「地域にとっての資源」であることを伝えていく必要性があると考えさせられる出来事でした。

壊されたことはとても残念ではありましたが、今ではまたそのエリアに新たなコミュニティ・生活景が生まれているので、独りよがりだったに過ぎませんが。

経験を積み「ミサキステイル」を設立


大学院修了に向けても、町に対する提案を考えました。今度は地元の下町エリアを題材に、生活景を守るための空き家の活用も含めました。空き家をゲストハウスにすることで、日帰り中心の観光から滞在時間を伸ばし、観光の形を変えられるのではと考えたのです。

院修了後、鎌倉ゲストハウスでは、通い、住み込みスタッフ、住み込みのマネージャと、段階的に運営について学びました。ゲストハウスを作れば三浦の観光も変わると思っていたためです。2年ほど働き、ある程度理解できた後は、実際にゲストハウスを作ってみようと友達のおばあちゃんが持っていた空き家を借りることに。ゲストハウスにするためには改装が必須だったのですが、途中で「やっぱり改装はしないでくれ」と言われてしまい、話が中断してしまいました。

どうしようと思っていた矢先、横須賀市役所から声を掛けてもらい、公共建築科という部署で専門職の非常勤として勤務することになりました。ここでは、保育園や消防分団、公園トイレ、市民センターなどの改修工事の設計を担当。キャンプ場のバンガローの設計にも携わりました。当初はログハウスを輸入して建てる計画が持ち上がっていたのですが、市の将来のためには見直しが必要だと感じたため、再考を訴えるなどしていましたね。

結果が売上に直結する民間企業とは異なり、行政は計画さえ決まれば途中で頓挫することなく実現していきます。そのため、仕事の目的が計画の完遂にならないよう「その仕事の先に何があるか」の視点を持つことが大切だと感じました。行政の仕事だからこそ、作るものが本当に市民にとって使い勝手のよいものなのか、価値があるものなのかを、より意識していなければいけないと思ったんです。

2年ほど非常勤で働いたあと、役所を退職。三浦市で携わり始めたトライアルステイ事業を委託される予定があったことが、退職理由のひとつでした。トライアルステイ事業とは、お試しで一定期間移住体験をするものです。当時の役所は副業が禁止されていたため、退職して委託を受けられる会社を設立することにしたんです。

会社の名前は、MISAKI STAYLE(ミサキステイル)。「ステイル」は、「ステイ」と「スタイル」を掛けてつくった造語です。住んでいる人、遊びに来る人、移住してくる人のみなさんへ、新しい滞在の在り方を提案するという想いを込めました。

その後トライアルステイに関しては、民間で行うことで事業の可能性が広がると考え、行政からそのまま引き継ぐのではなく、自分たちで計画から練って取り組むことにしました。

「みんなが楽しい町」をつくりたい


現在は、引き続きミサキステイルの代表として、三浦への移住支援、創業支援、空き家の利活用などの事業を行っています。

まず、空き家の利活用の事例を示す活動として、「朝めし あるべ」を店主として運営しています。三浦には三浦野菜を食べられる店がないという実態があったため、あるべでは、三浦野菜など地元にゆかりのある食べものを提供するようにしているんです。

さらに、移住体験ができる「トライアルステイ」、お試しで店を開ける「トライアルキッチン」も展開。解体されそうな空き家を同等の価格で片付け・改修して物件化する活動も行っています。

活動をする際には、三浦で生まれ育った地元のことがわかる人間として、地元をおざなりにしないことを重視しています。移住者と地元民の間に立ち、きちんと橋渡しができるように、と思っているんです。

移住相談や創業相談、空き家活用といったミサキステイルの活動は、正直どれもお金にならないものです。だから、誰もやりたがらない。三浦のためにも、あえてそういった誰も手を付けない部分を行うようにしています。それは町に必要なことだと思うからです。

これまで、何か目標を持って取り組むことは、あまりしてきませんでした。結局、重要なのは課題の解決です。そのため、何が問題になっていて、それに対してどう動いていくのかを考えてきました。現在の課題は、ありがたいことに、あるべの来客数が増えすぎてしまったこと。やりたい人にバトンタッチすることも含め、人材育成の必要性を感じています。また、地元事業者から頼られることも増えてきたため、事業のコンサルティングやアドバイスを行うことも考えていますね。

あとは、最近になって「終活アドバイザー」資格の必要性を感じ、取得を目指しています。空き家問題を解決するため、所有者に建物のエンディングも考えてもらい、必要であれば我々に任せるという判断をしてもらいたいと思ったんです。所有している物件を手放すタイミングも含め、アドバイスできる存在になれたらと思っています。

住む人も、来る人も「みんなが楽しい町であればいいよね」というのが、私たちの基本理念です。三浦のことを考えるのはもちろん、これからは、全国に活動を広げて何か面白いことをしていきたいと思っています。

2021.07.29

インタビュー | 伊東 真尚ライティング | 卯岡 若菜
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