コロナで再認識した「生ライブ」の良さ。 出る人・見る人・働く人が楽しいライブハウスを

バンド「ミートザホープス」でボーカルを務める一方、下北沢のライブハウスBASEMENT BAR、THREEの店長としても活動するクックさん。音楽活動では自分が「いい」と思える音楽をぶれずに届けることを、店長としてはみんなが「楽しい」と思える場づくりを大切にしていると言います。クックさんの価値観を作り上げた出来事とは。お話を伺いました。

クック ヨシザワ

くっく よしざわ|ミートザホープス、下北沢BASEMENT BAR/THREE店長
東京都調布市生まれ。幼少期より音楽に慣れ親しみ、中学生で友人とバンドを結成、高校生でライブハウスでのライブ演奏を初経験。音楽の専門学校を卒業後、ミートザホープスのボーカルとして活動。2017年、20代後半からスタッフとして働いていたBASEMENT BARの店長に就任し、2020年にはTHREEの店長も兼任。観客・演者・スタッフ全員が楽しめる場づくりに取り組む。

人前で演奏する楽しさ


東京都調布市で次男として生まれ、1歳で神奈川県川崎市に引っ越しました。幼稚園の頃、母と一緒に太鼓や民舞を習うことに。人前に出るのが好きで、覚えた太鼓や民舞を発表会で披露するたび、親や観客に喜んでもらえるのがとにかく楽しかったですね。母は僕と一緒に演奏する側として参加し、父は観客席から指笛を吹くなどして大いに場を盛り上げてくれていました。

サッカーも習い始めます。やりたいことをやらせてもらえる環境で、のびのびと過ごしていましたね。

中学でもサッカーを続ける一方で、友達とバンドを組むことに。軽音楽部はなかったのですが、「好きな曲をギターで弾いてみたい」といった面々が自然と集まり結成したんです。僕は人前に出たり歌ったりするのが好きだったので、ボーカルに。ギターも少しだけ弾いていました。

高校は普通科に進学。サッカー部と軽音楽部を掛け持ちし、サッカー部の練習を終えてから軽音部の部室に駆け込み、バンド演奏を合わせるといった日々を過ごしていました。演奏していたのは、モテそうな流行りのJポップス、パンクやメロコア、青春パンクと呼ばれるジャンルなど。「ミスチルが上手く歌えるやつはモテる」という狙い通り、モテていました(笑)。

初めてライブハウスにも足を運びました。友達と一緒に行ったのですが、大人の世界に足を踏み入れるような感覚にドキドキしましたね。ちょっといけないことをしているような気持ちを味わうのも楽しかった。1人でさまざまなライブハウスに出向くようになりました。

あるとき、ブルースやソウルミュージックというジャンルに出会いました。きっかけは好きなバンドのインタビュー記事に出てきたアーティスト。自分で情報を調べ、CDを聴き始めたんです。高円寺の老舗ブルースバーに行って4、50代のバンドマンたちが演奏しているのを聴いた時は、「これがブルースなんだ、ソウルなんだ!」と感激しました。

ただ、演奏しているのも聞いているのも4、50代が中心で、10代の僕が1人だけ混じっていました。学校にもブルースやソウルを聴いている友達はおらず、当たり障りのないポップスの話をしていましたね。

「全員が楽しい」を実現する難しさ


高校では、行事が何かと盛り上がる校風もあり、部活動の掛け持ちとアルバイトの他、漫才、コント、アカペラコーラスグループ、ダンスなど、さまざまな活動をしていました。

2年生の終わりのことです。「3年生を送る会」の出し物で、2年生から有志を募り、ミュージカル映画の人気コーラス曲で「学年みんなでコーラスをしよう」という話になりました。募ってみたら本当にたくさんの人が集まり、僕は「指揮をするから、君はダンスをして」と中心に立ち、メンバーを取り仕切っていきました。みんなのまとめ役を担うことに対して自信満々だったんです。

しかし、そんなある日の練習終わり。友達2人が意を決した表情で僕の元にやってきました。そして「みんなの前に立ってやってくれているのはすごく嬉しいんだけど、もっとみんなが主役になれるような環境を作ったほうがいいんじゃない?」と言ったんです。衝撃でしたね。

でも、「ヨシザワが前に出ないと、まとまらない」とも言われて。「俺はどうしたらいいんだろう」と迷いが生まれました。次の練習では、「この100人の中に、『ヨシザワくんだけが前に出ている』と不満に思っている人がいるんだ」という思いが頭をよぎりました。でも、それは誰かわからない。みんなが僕のことをどう思っているのか気になりました。

この出来事は、教室での過ごし方にも変化をもたらしました。普段から前に出るタイプだったのですが、みんなが笑う一言を発したときにも、笑っていない人がいると気になってしまって。休み時間に、その人が笑ってくれるまで何かをやるようになったんです。

不安を乗り越え、一人ひとりに「今、どう思っているか」「楽しめているか」とコミュニケーションを取りながら練習を進めていきました。痛感したのは、全員が楽しむのは難しい、ということ。一種の悟りでしたね。ただ、何とかみんなが楽しめるよう工夫を重ねて迎えた本番は、無事に成功。その後も、「お笑いライブやろう」「コーラスやろうぜ!」と旗振り役であり続けました。

卒業間近になった時、指摘してくれた友達2人から「ヨシザワと一緒の高校で良かった」と言ってもらえました。全員が楽しむなんて不可能だと痛感しながらも、最後まで試行錯誤を重ねた学年みんなでコーラス。僕の対応や工夫が正解だったのかわからないままでしたが、「あれで良かったんだな」と思えましたね。嬉しかったです。

ロックは学ぶものじゃない


高校卒業後、推薦で音楽の専門学校に進学。受験勉強をするのが嫌だったというのが大きな理由です。入学後、ほどなくして全員が革ジャンを着て演奏するロックンロールバンドを結成、ライブハウスでの演奏活動をスタートさせました。

初ライブを行ったのは、川崎の小さなライブハウス。ステージに立ったとき、「学ぶべきことはここに全部ある」と実感しました。

学校では譜面の書き方やパソコンでの音作りを教わっていたのですが、ステージでの演奏や、観客とやり取りするコール&レスポンスでの盛り上がり、他のバンドの演奏を聴く体験は、ライブハウスでしか得られないものでした。スタッフや他のバンドメンバーとのつながりも生まれました。

ロック好きの人間が専門学校に通っていることに、何となくカッコ悪さを感じるようになっていきましたね。結局、2年間の専門学校生活で僕が1番学んだことは、「ロックは学んではいけないもの」だということでした。

ライブで目指したい方向を見つけた


専門学校を卒業するタイミングで、バンドは解散。僕の中には「革ジャン+ロックンロール」スタイルを続ける違和感が生まれていました。卒業後は、下北沢のお好み焼き屋でアルバイトをしながら、新しいバンド活動を開始。特に下北沢のBASEMENT BARでは、ライブをしたり、バイト上がりに飲みに行ったりして、スタッフとも仲良くなっていきました。

20歳頃、代々木公園で行われる、デビュー35周年を迎える忌野清志郎のライブを見に行くことにしました。忌野清志郎は知っていましたが、生のライブを見るのは初めて。ステージでは、トランペットやサックスといった管楽器でソウルミュージックを演奏していて、「俺も管楽器メンバーとバンドを組んで、ソウルをやりたい!」と衝撃を受けました。

衝撃的だったのは、ライブ演出もです。「ファンクの帝王」と呼ばれるアメリカ人歌手、ジェームズ・ブラウンのやっていた有名なライブパフォーマンスを、忌野清志郎がアレンジしていました。ステージを去っては観客に呼ばれて戻ってくる、というパフォーマンスなのですが、忌野清志郎はステージ上に布団を敷き、寝込んでは「清志郎!」と呼ばれ起き上がり、繰り返すうちに完全に寝込んでしまう…といった突拍子もないアレンジをしていたんですよね。ステージに布団を敷いたアーティストなんて、彼くらいしかいないでしょう。「ここまで自由にやっていいんだ!」と思いました。

22歳、父が60歳を前にして亡くなりました。葬儀では、同じく音楽活動をしていた兄と一緒に歌を歌って見送ったんです。葬儀に集まってきた親戚に「定職に就かずフラフラし続けてどうするんだ」などと言われたのですが、僕は定職に就いてバンド活動を抑えざるを得なくなるのはどうしても嫌で。バンド優先の生活を続けることに、母は何も言わずにいてくれました。父の死を機に、地元の空気感から離れたところで暮らしてみようと思い立ち、東京に拠点を移しました。

ぶれずに、自分の音楽を


忌野清志郎のライブで強く感じた「管楽器奏者とバンドを組んでソウルミュージックをやりたい」を実現するため、管楽器奏者を探しながらバンド・ミートザホープスを結成。メンバーを入れ替えながら、少しずつ僕が「やりたい」と感じたことを実現できる形に近づけていきました。

活動を続けていた2011年3月11日、東日本大震災が発生。バンドメンバーの友達が石巻出身だったことから、彼の実家に滞在させてもらい、泥かきなどの震災ボランティアに行くことに。

避難所である体育館に炊き出しに行ったとき、余興として体育館の舞台で歌を披露することになりました。ギターの弾き語りをしようと舞台に上がったものの、壇上から見えるのは段ボールの仕切りだけ。中で炊き出しを食べている人の気配があるだけで、いつものライブのように、僕の演奏を待っていてくれる歓迎ムードがあるわけではありません。

僕はみんなが知っているような有名アーティストではありませんし、老若男女に広く知られる代表曲があるわけでもない。これまでの自分は、需要と供給が合っている場所でしか歌ってこなかったのだと痛感しました。

「みんなが知っているおなじみの曲を歌ったほうがいいのでは」とギリギリまで迷ったのですが、「僕はバンドマンなのだから」と思い切って自分の歌を歌うことにしたんです。歌い出しは本当に緊張しましたね。段ボールの仕切りに向かって歌っているうちに、子どもたちが舞台の前に集まってきてくれました。歌い始めると緊張がほどけて夢中になり、30分で、5、6曲を披露しました。段ボールの壁の上から手を出してくれているのが見えたり、拍手が聞こえてきたり、場の雰囲気が変わっていくのを体感しました。

演奏後には「良かったよ!」「また来てね」と声をかけていただけて。ぶれずに自分の音楽を演奏して良かったと思いましたね。この後、東京のバンド仲間や演劇関係者と石巻の仲間達でライブイベントを企画する話が持ち上がり、「10年はやろう」と目標を立てて、年に数回ずつのペースで不定期イベントを開催していきました。

理想のライブハウスを目指して


20代後半、生活のためにやっていたお好み焼き屋でのバイトも8年ほどになり、「俺、お好み焼き屋をずっと続けるのか?」と思うようになっていました。でも、就職しようとは思いませんでした。バンド活動が自由にできて、休みたいときに休める仕事であれば何でも良かったんですが、そんな理想を叶えられる仕事はそうはありませんから。

あるとき、ずっとライブをしたり飲みに言ったりと関わり続けていたBASEMENT BARの運営者から「24時間マラソンに参加しない?」と声を掛けられたんです。系列店舗のアニバーサリーで24時間イベントを企画しており、その中で24時間マラソンをするという話でした。ゴールであるライブハウスに到達したあとにライブをするというハードな内容でしたが、「いいっすよ」と軽く応じて100キロほどの長距離マラソンに参加したんです。

そんな体験をする中で、店との縁が切っても切り離せない段階になってきていると感じました。折良く「働かない?」と声をかけられ、BASEMENT BARで働き始めることにしたんです。これまで、ステージの裏側で働くことには抵抗感がありましたが、お好み焼き屋で働き続けるより、音楽に関わる仕事をしながらバンド活動を続けるほうが楽しいだろうと感じたんですよね。

3年ほど経った32歳のとき、店長が異動することに。他の人が次の店長になるだろうという流れのなか、正式決定の直前にふと「店長をやってみたい」と思ったんです。30歳を超えたタイミングで、これまでと何かを変えたら面白いかもしれないという直感でした。

立候補をし、話し合いの末に店長を任せてもらえることに。僕が目指したいと思ったのは、関係者みんなが立場に関係なく、バンドメンバーに関わってきてくれるようなライブハウス。演者も裏方もお客さんも関係なく、みんなが楽しんでいるライブハウスでした。

ただ、スタッフに「僕はこういうライブハウスを目指していきます!」と宣言することはありませんでした。口にするのは、何だか野暮だなと。また、「店長が言うからやらなければ」とスタッフに思わせるのも嫌だったんです。そのため、直接指示をするのではなく、スタッフ一人ひとりときちんとコミュニケーションを取って、自然と空気をつくることを大切にしていきました。

店長になって2年間は、イベント企画やふだんの仕事をこなすことでいっぱいいっぱい。面白さを感じられるようになったのは、ようやく全体を俯瞰して見渡せるようになった3年目のことでした。そのタイミングで、系列店のTHREEの店長も掛け持ちすることになりました。

今できることに取り組んだコロナ禍


店長になる数年前から、店は存続の危機に立たされていました。入居しているビルとの契約が継続できず、2021年3月の期日を持って退去となる可能性があったんです。何とかライブハウスを守るため、オーナーと契約継続の交渉を続ける中での店長就任でした。

「よし、THREEも盛り上げていくぞ」と思っていた矢先、新型コロナウイルス感染症の流行が始まったんです。ライブハウスでクラスターが発生したことが報道されると、ライブハウス全体が厳しい状況に立たされました。世の中の流れが大きく変わり、思うように活動できない状況に追い込まれたんです。

2つのライブハウスを「なくさない、守る」ことだけが自分のやるべきことだと考え、今できる活動を続けていきました。電子チケット制ライブストリーミングサービス「Qumomee(クモミー)」を会社のみんなで作り、オンラインライブができるようにするなど、それでも前向きに取り組みましたね。

年が明けた2021年1月、条件を満たせばビルの契約を継続してもらえることになりました。条件を満たすには費用が必要でしたが、コロナの影響もあり自分たちだけの力で賄うのは苦しくて。必要な費用を募るため、クラウドファンディングを実施することにしたんです。

マスコミで報道される不要不急の外出自粛、その「不要不急」の枠組みの中に、音楽やライブも入れられていました。そのことは、音楽を仕事にしている人たちの心に影を落としました。ただ、本当に不要不急かどうかは、人によって違うんですよね。

例えば、スポーツも不要不急とされがちでしたが、趣味でサッカーに関わっていた僕にとって、サッカーは「必要なもの」でした。プロ選手ではない僕がサッカーを必要だと思うように、ライブハウスも、仕事にしている僕ら以外の人たちが、必要としてくれるかもしれない。なくしてほしくないと思ってくれるかもしれないと思いました。

クラウドファンディングでは、最終的に1120人が支援をしてくれました。目標金額を無事に達成でき、多くの人から応援してもらえたことで元気をもらえましたね。守りたいと思ってくれている人が、これだけ多くいる。そのことは大きな支えになりました。

生ライブの良さは古今東西変わらない


今は、ライブハウスの店長とミートザホープスの活動を並行して続けています。

店長として目指しているのは、高校時代の僕が目指したのと同じく、「みんなが楽しめる場を作ること」。ライブに出る人・見る人・ライブハウスで働く人による三角形がどれも欠けることなく、みんなが楽しいと思える状態を作りたいんです。

そのために、僕は店長らしくない店長でいたいとも思っています。「店長」という肩書に対して緊張してしまうバンドマンもいるので、自分から店長だと明かさずフランクに接するようにしています。スタッフにも「店長から指示されたから」という義務感を与えないために、直接「こうしてね」とは言わないようにしていますね。

店を「クックのライブハウス」として知ってもらうことも嬉しいですが、スタッフ一人ひとりに会いたいと来てくれるお客さんが増えたらもっと嬉しいですね。さらに、主役はライブハウスではなく、その日ステージに上がるバンドだという想いが根本にあります。「あのバンドのライブを見に来て、僕も出たいと思いました」などと言ってもらえるとき、バンドが主役として輝ける場を作れているのかなと感じます。

ミートザホープスでは、ぶれずに自分たちの音楽を続けられています。無理に活動するよりも、やりたいときにやれることを大事にしていますね。みんなが、つい日常の中で鼻歌を歌ってしまうような曲を生み出したいと思っています。感染リスクが落ち着いたら、大きなライブ会場でもライブをやってみたいです。

先日、配信ライブをするために、スピーカーを通して生音を聴きました。体中に音がビリビリと響く感覚を、久しぶりに味わったんです。あらためて生の良さを感じました。耳で聴く音楽ではなく、体全体で味わえる生ライブの魅力は、きっと古今東西変わらない。だからこそ、生音の良さをみんなで共有できるライブハウスを守り続けていきたいですね。

ただ、一方で、コロナになったことで生まれた配信技術の向上も、決して無駄ではありません。生ライブができるようになっても、配信ライブはゼロにならないでしょう。技術ももっと進歩していくでしょうね。直近の未来を見ながら活動を模索する日々が続いていますが、2020年の1年を戦ってきた貴重な経験を糧にして、これからも仲間たちと貪欲に挑戦し続けていきたいです。

2021.05.03

インタビュー・ライティング | 卯岡 若菜
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