服づくりで、着る人も作る人も豊かな世界を。 流され続けた人生で見つけた想い。

アパレルブランド「10YC」の代表を務め、作り手とユーザーの両方に寄り添った服づくりに尽力する下田さん。少年時代から、いつも誰かの誘いや勧めのままに生きてきたという下田さんは、自分がアパレルの業界に入ることも全く想像していなかったのだそう。では、どんなきっかけでものづくりを始め、どんな思いで自らブランドを立ち上げるに至ったのか。お話を伺います。

下田 将太

しもだ しょうた|アパレルブランド「10YC」代表
1991年東京生まれ。大学卒業後、アパレル商品の生産会社に入社。その後、合併に伴い大手アパレル企業に転籍し、新卒5年目に退職。仲間とともに自分たちの作りたい服を追求し、全国の生産現場を訪れる。大量生産ではないモノ作りの豊かさを学び、広めていきたいという想いから2017年9月、アパレルブランド「10YC」を立ち上げる。「作る人も着る人も豊かに」なる社会の実現を目指している。

ビビリで周りに流され続けた少年時代


東京都西東京市で生まれました。家族のことが好きな甘えん坊で、人見知りが激しい子どもでしたね。幼稚園に行きたくなくて泣いたり、家の近くのお墓が怖くて全速力で通り過ぎたりしていました(笑)。新しい環境や未知のものへの恐怖心が強い、ビビリな性格だったんです。

幼稚園からサッカークラブに入っていましたが、小学校に入ると先輩が怖くて行けなくなりました。少し年上なだけでも、すごく身体が大きく見えて。サッカーの代わりに、近所に住んでいた友人に誘われて野球を始めたんです。基本的に、誰かに誘われないとクラブにも行けませんでしたね。

中学でも週末だけ野球のクラブチームに所属し、学校の教室ではなるべく目をつけられないように静かに生活していました。いじめられないように、たまに強いヤツにゴマすったりして(笑)。その後、好きな子が行くからという理由で都立の高校を受験しました。

高校でも野球部に入り、3年生の時、キャプテンで四番になりました。今までは先輩にペコペコして、可愛がられるためなら何でもするというスタンスでしたが、3年でそのポジションを手に入れると「なんだ、楽勝だわ」って思ってしまったんですよね。自信がついて、なんでもできるじゃんと感じて。それからは、後輩に対しても厳しい態度を取るようになりました。

引退後は、仲の良い友人に誘われるままに予備校に入りました。超難関私立大学を目指すような友達ばかりで、とりあえず僕も勉強していましたが、結果はほぼ不合格。たまたまいいかんじの私立大学の経済学部に受かり、高校の先生には「まじか、これは奇跡だ」と言われましたね(笑)。そのまま進学することになりました。

思い切り鼻をへし折られた4年間


大学に入学する時、家族から「何か目的を持って通ってほしい」と言われました。その方が安心するからと。「あんた野球うまいんだから、野球部入りなよ」と両親に乗せられて、大学でも体育会の野球部に入りました。正直、高校時代の「キャプテンで四番」という経験があったので、あまり考えずに入部してしまったのですが、思い切り鼻をへし折られましたね。同級生には甲子園優勝校のピッチャー、先輩にも過去の優勝校の四番がいるような部活で、完全についていけなかったんです。

球拾いや練習用のキャッチャーをやるものの、球がめちゃくちゃ速く、取れないとものすごく怒られて。入学するまでは「なんでもできる、なんでも一番」と思っていたけれど、自分は普通の人間だったと思い知ったんです。

朝早くから練習して、授業を受け、夕方からまた自主練。寮生活だったので門限も早いし、先輩後輩の上下関係も厳しいし、辛いことも多かったですね。何度も辞めようと思ったけれど、辞められなかったんです。ずっと人の意見に流されて生きてきたから、入った以上、自分で辞めるという決断ができなかった。だから、そのまま四年間を過ごしました。

でも、18歳から22歳までの4年間をこの厳しい環境に捧げたことで、かなりメンタルが鍛えられましたね。辛いことがあっても、並大抵のことでは挫けなくなりました。

その後、世の中は就職氷河期と言われる中で就職活動を始めました。グローバルな仕事に憧れて、商社を志望。「体育会は就活に有利だから、面接にたどり着けば大丈夫」というウワサを聞いていたのに、実際は学力が足りずに面接までも行けず、内定をもらえなくて苦労しました(笑)。

ようやく内定をもらえた食品系の専門商社に決めるか迷っていた時に、体育会学生向けの就職活支援をしている会社から「面白い会社がある」と勧められました。アパレルの生産管理を行うベンチャー企業で、ためしに受けてみたら内定をいただけたんです。正直、アパレルへの興味は全くありませんでした。でも、まだ創業8年目という新しい会社だったし、何か面白いことができるかもしれないと思い、入社を決めました。

中国で感じた「5000枚」の重み


入社した会社では、製品の生産量や素材、価格、納期などの工程をまとめて管理していました。働き始めて1年4カ月ほど経った頃、「現場を知るために半年間中国に行ってこい」と言われ、提携している中国の工場へ行くことになりました。日本から発注している商品のクオリティチェックをしつつ、スケジュール通りに生産が進んでいるかを確認するんです。

ものづくりの現場をきちんと見たのは初めてでした。中国の工場はめちゃくちゃ大きくて、工員さんが何百台もあるミシンの前で膨大な数の洋服をひたすら縫っている。何もかもが驚きでした。

僕らは、ブランド側から5000枚の発注が来ると、それを中国などの工場に依頼します。そこで作った服が日本の倉庫に届き、全国の店舗に運ばれ店頭に並んでお客さんの元に届くわけです。でも、僕はその「5000枚」をそれまで一度も見たことがなかったんですよね。数千枚という服をただの「数字」としてしか見ていなかったんです。

現場で服が作られていく過程を実際に見てはじめて、時間がかかって大変な部分や金額の妥当性を理解できるようになりました。今までその過程を見たことがなかったから、その5000枚の重みを想像できなかったんですよね。そうすると、作り手に対して平気で無理難題を言えてしまう。実際に自分の目で見たことで、作り手に思いを馳せられるようになり、過度に安さを求める現状に課題感を持ちました。

日本に帰ったら、自分の目で見たことをブランド側の人たちに伝えることで、無理なコスト交渉を減らしていきたいと思っていました。すると、僕の会社と大手アパレル企業との合併が決定。帰国と同時に、ブランド直轄の生産部門に行くことになりました。

自分なりに何かできることはないかと思いましたが、世の中の仕組みは、服を売上と利益で評価します。大きな会社の中でその仕組みを変えることは難しく、ただ仕事をこなすことしかできませんでした。

きっかけは友人の一言だった


そんなある日。ルームシェアをしていた仲間の一人が、最近1万円弱で買ったというTシャツを手にして言ったんです。「これ1回洗っただけでよれちゃったんだけど、お前の業界どういう仕事してんの?」と。「何でこんなに怒ってるんだろう」と思いつつ、自分の中にあった売れた後のことを考えないものづくりの実態に対するモヤモヤと、どこか重なる部分がありました。僕が作っているブランドではなかったにせよ、自分が扱う商品の在り方について今一度考えるようになりました。

彼のその一言がきっかけで、「だったら、自分たちが本当にいいと思うTシャツを作ろう」という話が持ち上がりました。もともと、仲間同士で何か事業をやってみたいと話していたので、いいチャンスだなと思ったんです。そこに会社の同僚だった仲間も加わって、よれなくて、かつ着心地のいいTシャツ作りを3人で始めることにしました。

仕事のない休日に、旅行を兼ねて全国の服作りの現場を巡りました。作り手の方とフランクにものづくりについて話せることが、すごく楽しかったですね。「どうやって作っているんですか?」とか「どこにこだわっているんですか?」と直に聞いて、熱い思いに触れることで、日本でのものづくり本来の豊かさを学んだんです。これはもっと広めなければと思いました。

そんな休日を過ごしながら平日に仕事に戻ると、業界に対する疑問や違和感がより浮き彫りになっていく感覚がありました。僕らが工場の方たちに無理をお願いして10円や20円のコストを下げてもらう一方で、販売側ではすぐにセールで1000円、2000円の値引きをしてしまう。それでも売れずに大量の在庫が処分されていく。しかも、その服が売れたあと、お客さんにどれくらい着てもらえているのかもわからなかった。

「売る」ことがすべての販売主義のようなファッション業界の在り方に不信感を持ち、着る人と作る人、両方のことを考えたものづくりを目指そうと決めました。

全国の職人さんを訪ねながら試作を始めて1年が経った頃、Tシャツのサンプルが完成しました。感動しましたね。空気を含ませながら生地を編んでいるから、厚手でもやわらかくてよれにくく、毛玉もできにくい。さらに、縫い代が肌に当たらないようになっているのでストレスを感じない。毎日着たくなる着心地と、毎日着ても簡単にはへこたれない丈夫さを兼ね備えたTシャツができあがったんです。

資金はクラウドファンディングで集めることにし、会社に在籍しながら準備を進めていました。そんな中、仲間のひとりである同僚が我慢できなくなって辞表を提出したんです。

それを聞いて「おい、待てよ!」って(笑)。あくまで「真剣な遊び」として始めたTシャツ作り。起業するのもありかもと考えつつ、僕ははっきり答えを出してしまうのが怖いタイプなので、今後どうするかを決めるのはTシャツづくりがもう少し軌道に乗ってからでいいと思っていたんです。でもそんな同僚を見て、悩んだ末に僕も退職を決意。「これは起業するしかない」と腹をくくりました。

試行錯誤だらけのブランド運営


退職後、1カ月間の有給消化中にクラウドファンディングを行いました。目標をはるかに上回るご支援をいただいて、成功することができました。僕らの取り組みを面白がって、応援してくださる方がたくさんいることに驚きましたね。

それとほぼ同時に、「着る人も作る人も豊かに」というコンセプトのもと、3人で「10YC(テンワイシー)」を創業しました。名前の由来は、“10 Years Clothing”。「10年後も着続けたい服」の意味を込めて名付けました。工場さんと直接取引することで仲介にかかる費用を削減し、そのぶん品質のいい、長く着続けられる製品を作れるようにしたんです。

しかし、9月に創業したはいいものの、冬に入っていくのに売るものがTシャツしかないということに気づきました。さらに「店舗を持たない」ブランドとして立ち上げたにも関わらず、ウェブサイトすら作っていないという計画性のなさ…(笑)。とりあえず2カ月を費やしてサイトを作りましたが、オープン直後は全く売れず大変でしたね。

地道にプレスリリースを送り続け、有名な媒体に取り上げてもらえたことでようやく少しずつ売れるようになりました。創業から1~2年間は失敗ばかりだったし、もっとしっかりやっておけばよかったと思うことの連続でした。

そんな時期を経て、幅広く物事を考えるようになりました。前職にいた頃は、ひとつのブランドの中で「販売」や「PR」など業務が区切られているので、その一部分しか担当しなかった。けれど、自分で会社を始めてみるとそうもいかないですよね。一応各々の役割は決めているけれど、どこかがきつくなったら全員総出でそこにあたる。そうするといろんなことに挑戦できますし、やれることの幅が広がっていく面白さを感じますね。

もともとウェブ販売に特化して始めたブランドですが、ポップアップストアやイベントにも出店するようになりました。創業2年目に入った時、初めて東京を出て大阪で出店しました。すると、ウェブサイトで買ってくれていたけれど顔を見たことがなかった人たち、10YCを知っているけれど買ったことない人たちと直接触れ合うことができて、めちゃくちゃ楽しかったんです。僕らのもともとの知り合いではないお客さんが、Webで得た情報をもとに実際に足を運んでくれるのがうれしかった。それから毎週のように地方を回るようになりました。

土地によってお客さんの層も変わるので面白いんです。例えば東京は、私服で働くIT系の人が多かったりするので、ちょっといい普段着として着てくれる人が多いけど、大阪は「10年着れるんやろ?コスパええやん!」っていう人もいる(笑)。神戸にはクリエイティブ界隈の人が多いので、10YCのものづくりの部分に興味を持ってくれて広がっていく感覚がありました。

卸しをやっていないぶん、僕ら自身が店頭に立つので、お客さんとがっつりものづくりの話ができるんです。10YCについて伝えることができるし、僕らもお客さんからいろいろなフィードバックや情報をいただける。温度のあるコミュニケーションを交わす場所として楽しんでくださるお客さんが多かったです。こうした活動を経て、共感して応援してくれるお客さんがジワジワと増えていきました。

関わる人を豊かにできるものづくりを


現在は、引き続き代表として仲間とともに10YCを運営しています。販促のためのイベント企画などを担当することが多いですね。創業時のメンバーは一緒にTシャツ作りをした前職の同僚と高校時代の同級生の3人でしたが、今はスタッフも増え、社外で関わってくれる仲間も増えました。

新型コロナウイルス感染症の影響で、直接お客さんとコミュニケーションを交わす機会は減ってしまいましたが、メールや手紙でいただくコメントに励まされていますね。やっぱり着てもらってナンボだと思っているので、「めっちゃ着てます」とか「毎日重宝しています」という声がうれしいんです。10YCが一人一人の生活に馴染んでいる様子を見聞きすると幸せですね。

売るためではなくて、ちゃんと着続けてもらうために作るというところは、創業時から変わらず常に意識しています。「着る人も作る人も豊かに」という理念を壊すことはしたくないので、セールもしません。価格としては少し高いかもしれないけれど、結果的に買ってよかったなと思ってもらえることが一番いいと思っているので、長く着続けてもらえるように魅力をきちんと伝えていこうと思っています。

10YCの規模はまだまだ小さいので、今はどちらかと言うと、工場さん側に応援してもらっている状態なんですよね。だから、今後は少しずつ工場さんを支えていけるような状態を作っていくのがまず第1のステップ。僕らが適正な工賃を支払うことができれば、人材育成や新しい技術への投資もできますし、ものづくりを志す若者ももっと増えて、現場に入りやすくなると思うんです。だから着続けてもらえる服を作りつつ、目に見えて作り手が「豊か」な状態を作っていくことが当面の目標ですね。

それに加えて、最近は服を循環させていく仕組みを作りたいと思っています。好みや体型が変わって、着ずにクローゼットに眠る服はどうしても出てきてしまう。それが一番もったいないなと思うので、また他の誰かに受け継いで長く着てもらえるようにできたらいいなと。これからは、ひとりで10年着るというところから、みんなでひとつの洋服を10年着ていくという形に変わっていくと思います。「自分が着てた洋服は今この人が着ています」というのを可視化する企画ができたら面白いなって。

もちろん1枚のTシャツを何度も着て変化を楽しむのもいいし、僕らが提供している色を染め直すサービス「IROHEN(イロヘン)」を使って気分を変えるのもいい。お客さんがそれぞれ楽しめるサービスを作っておくことで、一つの街みたいに10YCにいろいろな人が出入りするようになって、きっと面白くなるなって。僕らが作った服をより長く着続けてもらえるし、持続可能なものづくりのサイクルをいい形で回していけるんじゃないかと思っています。

ゆくゆくは、実際に街を作りたいんですよね。10YCの理念を生かして「住む人も来る人も豊かに」というコンセプトで街を面白くできたらなって。今、頭の中でいろいろな妄想をしています。

2021.04.26

インタビュー・ライティング | むらやまあき
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