好きなことをやって生きられる社会へ。 越境者として、新しい学びを世に広めたい。

高機能化学素材に携わりながら、最先端の学びの情報などを発信している山本さん。自身のアイデンティティに悩んだルーツを持ち、境界線に捉われない生き方を実践してきました。学びに関わりながら、山本さんが実現したい世界とは。お話を伺いました。

山本 秀樹

やまもと ひでき|AMS合同会社代表、Dream Project School主催
1975年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。大学卒業後、東レ株式会社にて高機能繊維の新規用途開発を担当。2008年ケンブリッジ大学経営管理学修士(MBA)。その後、ブーズ・アンド・カンパニー(現PwC Strategy&)を経て、住友スリーエム株式会社(現スリーエムジャパン)へ。2014年独立。2015年から2017年までミネルバ大学日本連絡事務所代表を務める。

フランスも日本も安心できない


東京都杉並区で生まれました。両親の仕事の都合で、生後すぐアメリカに引越し、2年過ごした後、横浜へ。そして小学校2年生のときに、今度はフランスへ引っ越すことになりました。

フランスでは友達もたくさんできましたが、アジア人だという理由で、分かりやすく差別を受けることもありました。お使いに行ってもレジでおつりをもらえなかったり、通りすがりの大人に唾を吐かれたり。その頃のヨーロッパは不況で、アジア系の移住者に対する風当りが強かったんです。友達はいても、本当に分かり合うことは難しいと感じていましたね。心から安心できる空間ではありませんでした。

小学校5年生のときに、日本への帰国しました。同じ日本人だから、もうこんな差別を受けることはないだろう。あぁよかった、と思ったんです。ところが今度は「帰国子女だ」という理由で、距離を取られてしまいました。

あるとき、先生が授業でフランス国旗の意味を説明しました。しかし、その解説が間違っていたので「違います」と指摘したんです。私はフランスで、自分の意見を言わない子は存在しないのと同じだと教わってきました。ところが日本では、先生に黙って従うのが良い子。「俺は教師だぞ」とめちゃくちゃ怒られたんです。クラスメイトからも「先生に歯向かうやつ」とレッテルを貼られたのか、嫌がらせを受けたりしもました。

そんな日々の中で、心の拠り所になったのは読書でした。そのときに読んだのが島崎藤村の『破戒』です。日本の部落差別を題材にした小説でした。それを読んで「なんだ、日本も安心できないじゃないか」と気づいたんです。日本人同士でも差別はある。フランスで差別を受けたときよりも、日本も油断できないぞ、と気づいたときの衝撃は大きかったですね。

それ以来、周りに気を配り、社会と調和しながら生きていく方法を模索するようになり、同時に何となく、自分はどこにも所属しない人になりそうだという予感が生まれました。

「日本人」らしく在るために


フランスで「自分は日本人だ」というアイデンティティを大事にしていた私は、自分が「日本人らしくない」ことに気づいて、まずいぞと焦りました。そこで日本社会に適応しようと、テストで良い点を取り、偏差値の高い高校へ行くことを目指したんです。日本の中で良い子でいるには、周りの言うことを聞いて、周りが期待する答えを出せばいい。そのときの私からみて、社会で評価されているのは、素直に受験勉強を頑張る子たちでした。

こうして勉強を頑張った結果、世間が認める「いい」高校、大学へ。これで、少なくとも勉強は大丈夫と思われているのだから、大学では運動をやろうと思い立ちました。入部したのは、ラクロス部です。全国優勝もしている強豪チームで、試合よりも練習の方が厳しいような部活でしたね。良い結果を残したかったら努力するのが当たり前。みんな影で練習していました。自分に足りないものは自分にしか分からないので、人から教えてもらうのではなく、自ら練習するんです。大学3年生のときに自ら試合に出て優勝する経験をさせていただき、結果を出すために頑張ることを学びました。

また、大学で出会った友人達は、自分をしっかり持つ人が多かったです。独立自尊です。そうした人たちと関わる中で、どこかに所属できないことを、悩むのも馬鹿馬鹿しいなと思うようになりました。心から安心できる環境は手に入らなくても、諦めと共にその現状を受け入れ、これからどうやって生きていこうかと考えたんです。そして次第に「周りに影響されて生きるよりも、こちらから働きかけて生きてみたらどうだろう」という想いが芽生えました。

業界を越えて、新規用途を開拓


私が就職活動を始めたのは、まさに就職氷河期と呼ばれる時代でした。100社ぐらい受けましたが、どんどん落ちましたね。部活の先輩の紹介もあって、運よく採用してくれた一社が、化学素材を扱う大手メーカーでした。

文系出身で化学素材の知識はありませんでしたが、入社後はアラミド繊維という高機能繊維に関わることに。アラミド繊維は、アメリカで防弾チョッキに使われている素材です。日本国内での新規用途を開拓するのが、私の仕事でした。

私は、専門知識がないので、むしろ素人の視点を活かし、業界の常識を無視した営業をして、用途を開拓していました。例えば、衝突安全性を向上させる車の部品向けに取ったデータを、高層道路に使われているコンクリート構造物の耐震補強のデータに結び合わせて提案したり。最初は取引先から「業界が全然違うじゃないか。素人が!」と怒られました。でも、一歩立ち止まって、化学素材に求められる特性という視点から見れば、そのデータでも問題ないと、少なくとも一部の新しいことを本気でやりたいと思っている人たちには、納得してもらえるんです。

そうやって提案を重ねるうちに、専門知識がなくても、考え方の工夫で勝負できることに気づきました。どれだけ詳しく知っているかではなく、業界を超えて知識と知識をつなげることが大事なんだなと。こういうものができたら面白いんじゃないか、この新しい素材をどう使えるだろうか。考えていくと、いろいろな知恵が生まれていきます。簡単に理解してもらえなかった過去があるからこそ、どう話せば相手に理解されるかを考えられるようになっていました。

時には、大企業よりも小さな会社がすごく面白いアイデアを持っていることもあります。そういう人達とつながって、新しいものを世に出せたときは嬉しかったですね。素材は見えないところに使われるものなので、陰でこっそり、ウシシと笑う感じです。

しかし、高機能素材の面白さに気づく一方で、会社には「いかに楽に仕事をこなそうか」と考える人がいたことには違和感を持ちました。大学時代のラクロス部で、結果を出すために頑張る姿勢を学んでいたので「なんで、もっと世の中に面白いことを提案できるのにやらないんだろう」と感じたんです。良い大学を出て、大きい会社に就職することがゴールになり、就職したら出世以外の分野でさらなる高みを目指すのをやめてしまう。その空気感が嫌でしたね。

好きなことをやって生きられるんだ


あるとき、大学時代の同級生がアメリカの大学でMBA(経営管理学修士)を学んでいるというので、授業に参加させてもらったんです。そこでは、20代の若者達が会社の経営について議論していました。それなりのトップ校で有名だったのですが、その若者たちが自分が想像していたよりも大した事を言ってないなと感じたんですね。

授業の最後10分、議論の題材になった会社の社長がゲストで登場するのですが、ある学生が「時間の無駄だよ」と言ったんです。その態度を見て、怒りが湧いてきました。大した事も言っていないくせに、わざわざ時間を割いてくれる社長に対して生意気だな、と。でも、こうやって有名大学で経営学を学んだ人たちが世間ではもてはやされ、大企業の経営陣になっていく。そして、将来自分の上司になるかもしれないと考えたら、このままじゃ駄目だと思いました。

こんな人たちには任せておけない。同級生がやっているんだから、自分にもできるだろうと、会社を辞め、留学することにしました。行き先に選んだのは、化学素材分野で実績のある、イギリスの大学です。どちらかといえばMBAよりも他の分野が有名で、大学時代あまり勉強しなかった私にとって、そこには、世界中から私が想像した以上に面白い人達が集まっていました。

彼らは自己肯定感の塊で、世界がどうなっても自分は生きていけると考える人たち。そして、好きなことをやり続けるためには、どうしたらいいかを追求していました。その人たちから言われたのが「努力なんてするもんじゃない」という言葉です。衝撃でしたね。好きなことをやるために課題を乗り越えるのは、努力じゃない。苦手なことでも、好きな方法でやれば、辛くないだろう?好きなことをやり続けるには、努力よりも、努力の仕方が大事。その方が、早く自分の目的地にたどり着けると言うんです。

それまで私は、得意なことも不得意なことも平均的に取り組んできました。やりたいことだけをやる生き方があるのは知っていても、どこかでそれは上手くいかないだろうと思っていたんです。でも、好きなことをやって、好きなことで熟練し、社会貢献できる生き方もある。しかも、好きでやることには終わりがありません。それで自分も社会も嬉しい状態になるなら、そうやって生きていく方が楽じゃないか?って。社会人10年目にして、自分が確立しつつある、「頑張れば報われる」という価値観がいい意味で壊されたような感覚でした。

部門の壁を越えて動く


留学を終えて帰国する際、金融危機で、欧州の会社から留学前にいただいていた内定の約束がなくなってしまいました。困っていたのですが、たまたまある外資系コンサルティング会社が、化学素材分野の知見を欲していたことから、そこに就職することになりました。メーカーとは全く異なる仕事でしたが、コンサルティングをやりながら、経営者に対して、どのような方法で意思決定を導けばよいのか、その一部を学ぶことができましたね。また、頭の回転が早いだけでなく、常に考え抜き、努力を努力と思わない同僚達に刺激を受けました。

印象的だったのは、あるパートナーから「生き残るのも立派な戦略だ」と言われたこと。日本の受験戦争に影響を受けていた私は、無意識に、業界でナンバーワンになることが良いことだと思い込んでいたんです。でも、これって、好きなことをやって社会と折り合いを付けていくのであれば、必ずしも一位を目指す必要はないよね、ということと繋がるな、と思いました。

学びの多い環境でしたが、コンサルティングはとにかく報告書をたくさん書き、クライアントが失敗しないよう支援する仕事。言葉より実践が好きな自分には、合わない部分がありました。会社には、3年で昇進か退社かというルールがあり選択することになり、退社を決めたんです。

転職したのは、以前から注目していた外資系のメーカーでした。アイデアを組み合わせて新しい商品をつくり、売り上げを伸ばしている世界的な会社です。クレイジーなことを言っても誰も否定しないし、アイデアで勝負するので、仕事は面白かったですね。

最初はマーケティングを担当しましたが、部門の壁が原因で売上を伸ばせていないことに気づき、部門を越えたプロジェクトを立ち上げるようになりました。技術、営業、マーケティングの各部門の人達を所属から解き放って、開発・用途開拓プロジェクトを10個くらいつくったんです。前例がなくても結果を出せばいいんだと。境界線に捉われず動くことで、価値を生み出していきました。

志ある人が挑戦できる環境を


外資系メーカーでの仕事は楽しかったですが、上に行けば行くほど現場から離れていく感覚がありました。管理よりも現場での仕事に喜びを感じていた私は、サラリーマンとして出世するのは自分に合っていないな、と納得しました。子どもが1歳になるタイミングで、独立して自由になろうと決めたんです。ちょうど、化学素材を扱うイギリスのベンチャー企業から、日本の代表をしないか、というお誘いがあり、その仕事をきっかけに独立を果たしました。

独立して自分の時間を自分で管理できるようになり、以前から思い描いていた、イギリスの大学のように学生が一緒に暮らし、学び合うスタイルを日本でも実現できないかと考えました。そんなときに知ったのが、ミネルバ大学です。ミネルバ大学はキャンパスを持たず、全寮制で、世界7都市を移動しながら学ぶ大学でした。最初に大学が提唱する思考法をしっかり身に付け、それから専門分野の知識を得て、プロジェクトを通じて知識を実践していくのです。

ある場所で上手くいくことが、別の場所では上手くいかない。それをインプットとアウトプットを繰り返しながら学んでいくのが、ミネルバ大学のやり方です。これは私がメーカー時代に、業界を越えて知識を応用してきた思考法とも通じるものでした。

これは面白い!と感動したのですが、ミネルバ大学は日本では全く知られていない。そこで、ぜひ日本にも来てくれないかと、大学にコンタクトを取ったんです。結局その話は断られてしまいましたが、大学のアジア担当者と会うことができました。そして、ボランティアでいいならと、ミネルバ大学の日本連絡事務所代表を務めることになったんです。

仕事というより趣味の領域で始めた活動でしたが、やってみると想像した以上に、日本の教育や学習環境に問題があることが分かりました。テストで良い点を取るために詰め込み型の教育をすること、社会と接続できていない大学の教育など、現状の課題が見えてきたんです。

また、活動を通じて知り合った若者達は、どこかで希望を持てていないとも感じましたね。大人は挑戦しろと言うけど、実際に挑戦しているような人は少ないし、挑戦しても結局叩かれている。私も、転職は35歳までだとか、コンサルからメーカーに行ったら給料が下がるとか、いろいろ言われました。でも実際にやってみたら、それは全部嘘だったんですね。世間で言われる「一般的な事例」よりも、自分で形成していくキャリアの方が、幅広い可能性があるんだと痛いほど分かったんです。だから、やっぱり志を持つ人を受け入れる環境をつくらなくてはと思いました。

そのために、まずは夢を持つことを大事にしたい。志のある人が学びを育める環境を創るプロジェクトをつくっていこうと「Dream Project School」と称して学びの活動を始めることにしたのです。

越境し、新しいものを世に広めていく


現在は、AMS合同会社の代表を務め、高機能化学素材を世に広める活動をしています。具体的な内容は、海外企業の日本市場開拓や日本企業の新規事業拡大のサポートです。高機能化学素材の新規用途開発は、お客様の次世代商品に用いられることが多いので、世の中でまだ誰も見たことのないものを、世間の人より先に見られる領域。「それはできない」と思われているアイディア、常識の外側をつくっていくのが面白いですね。好きだからこそ、関わっている領域です。

同時に学びの活動「Dream Project School」も進めています。新しい化学素材を世に広めるのと同じように、これも、新しい学びを世に広める取り組みですね。学びに関する最先端事例の発信と、自分の人生を切り拓くためのキャリア構築支援を行うとともに、学びに必要なスキルを提供する、「学育」機関を増やす取り組みもしています。意欲のある学校や人を応援することで、新しい学びを世に広める活動をしたいと考えています。

Dream Project Schoolが目指すのは、従来の「教育」をやめて、「学育」を始めること。教育は、教え育むという意味で、教える側の都合でつくられたものだと考えています。一方学育は、学ぶ側の学びを育むもの。学育できる環境をつくることが大切です。

学育を突き詰めていくと「あなたはどう生きたいか?」という問いに行き着きます。自分がどう生きたいか、仮定でもいいので一度答えを出してみると、そのためにどんなスキルが必要なのかが見えてくるからです。そして、そのスキルを得るためにどんな学びを、どのように得たいかが明らかになる。これが、テストで良い点を取ることよりも重要な、本当の学びです。

自分がどう生きたいか。私自身のこの問いに対する今の答えは、「越境者で在りたい」です。越境者とはつまり、境界線を越える人。業界を越え、部門を越え、価値を生み出すことができる人です。日本人にもフランス人にもなりきれなかった過去があるからこそ、自分には越境能力が育まれたと思っています。越境者として生きることで、「宙ぶらりんでも平気だよ」と伝えられるサンプルになりたいですね。どちらにも行けない人の悩みもよく分かるつもりなので、同じような存在が一人でもいれば、助かる人もいるんじゃないかと。

「高機能素材」と「学び」も、一見関係のない領域なので「どっちなの?」と聞かれることもあります。でも、どちらかに決める必要はないと思っているんです。両方本気ですから。越境者として、違う分野との橋渡し役を担いながら、新しいことを世に広めていきたい。そして、志ある人が、自分のやりたいことに向かって挑戦できる社会になって欲しいと願っています。

2021.03.16

インタビュー・ライティング | 塩井 典子
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