過去の辛い思い出は、良いものに変えられる。 ケガに苦しんだバスケ人生を経て、見つけた光。

元バスケットボール日本代表選手の中川さん。中学生のときから日本代表に選出され、華々しく活躍するものの、実業団入団後の9年間は、ケガと戦う苦しい時期を送りました。トンネルの中にいたようだったと話す中川さんが、暗闇の先に見つけたものとは。お話を伺いました。

中川 聴乃

なかがわ あきの|バスケットボール解説者、リポーター
1987年生まれ。小学生の頃からバスケを始め、中学で全国大会出場。高校で全国大会優勝。中学時代から年代別日本代表選手に選ばれ、2006年アジア大会では銅メダルを獲得。シャンソン化粧品、デンソーアイリスに所属し、2015年現役引退。現在、バスケに関わるメディアの仕事を中心に活躍中。2021年より靴ブランド「JB AKINO」を立ち上げ。

勝てば、周りが喜んでくれる


長崎県長崎市に生まれました。出産のとき、息をしていなくて、仮死状態で生まれたんです。母子ともに危ない状態で、生まれたとしても99%助からないだろうと言われていました。残り1%の確率で無事に育ちましたが、体調を壊しやすく、小学生の間はずっと病院に通っていました。運動会に出られないこともありましたね。

それでも動くことはすごく好きで、何でもやってみたいタイプ。かけっこは絶対一番になりたいし、男の子にも負けたくない。男の子たちに交じってサッカーをしたり、年上の子に縄跳びの勝負を挑んだり。勝てば親から褒めてもらえるし、周りに「すごい」と言ってもらえます。勝つことが嬉しいというより、周囲の人に喜んでもらえるのが嬉しかったですね。

小学校のクラスでも、自ら学級委員をやり、先生の質問には真っ先に手を挙げて答えていました。通知表も、オール5を取るためにはどうすればいいか、一生懸命考えていましたね。「頑張ったね」と喜んでもらいたい一心でした。

小学校4年生のときにバスケ部に入りました。身長が高くて運動神経が良かったので、バスケ部顧問をしていたクラスの担任の先生から、「入らないか」と誘われたんです。仲のいい友達がみんなバスケ部に入ってしまったので、「それなら」とやってみることにしました。

参加してみると、先に入っていた周りの子達が自分より上手くて、いつもの負けたくない根性が出てきましたね。身長が高かった私は、周りのスピードにすぐ追いついて、試合のメンバーにも選ばれるように。強いチームではありませんでしたが、自分にやれることを一生懸命やるのが楽しかったです。

目標を胸に、次のステージへ


6年生のとき、チームメイトが「バスケが上手くなるには、ここに行くといいらしいよ」と、ある中高一貫校を教えてくれました。その中学校は、県内でもエリート選手が集まる有名校。地元の公立中学へ行くつもりだったのに、それを聞いたら受験したくなってしまって。ボール拾いでもいいから上手い人たちと一緒にいて、自分ももう少し上手くなれたらいいなと、進学を決めました。

入学すると、プライベートも学校生活もバスケ一色になりましたね。練習はきつかったですが、練習すればしただけ自分の身になるので、辞めたいと思ったことはなかったです。入ったばかりで下手くそだったけれど身長が高かったので、全国大会でベンチに座れることもありました。その代わり、周りからは「なんであなたが入ってるの」とかいろいろ言われましたね。それが気になって、控えめに行動しようと思うようになりました。小学生のときの積極性は失われていったんです。

私は大きい夢ではなく、小さい目標をたくさん持っていました。例えば「地方新聞に載りたい」「全国紙に載りたい」「バスケット雑誌に載りたい」など。バスケットの技術以外でもどうやったらクリアできるか、目標から逆算して考え、それを確実に一つ一つクリアしていきました。中学2年生のときには、全国大会を経験。日本代表には一歩届かなかったのですが「来年は必ず」と目標を立てたんです。

そして、3年生のときにその目標を達成。U-15日本代表に選ばれました。目標を立てて動いていくと、また違った世界にたどり着けて、選手としてのステージが一段ずつ上がっていくのを実感できました。

進学先を選ぶ頃には、いくつかの高校からオファーを頂くようになりました。でも、高校1年生になる年のインターハイが長崎での開催だったので、周囲からの「当然地元に残るよね」という空気を感じて。そのままエスカレーター式で高校へ進学したんです。

しかし、インターハイや国体でトップレベルの戦いを目の当たりにしたとき、私の中に「日本一になりたい」という大きな目標が生まれました。そしてそれは、長崎では実現できないと感じたんです。もっと強くなれる環境でバスケをやりたい。一旦そう思うと、今の環境が全く面白いと思えなくなってしまいました。

この頃バスケットが生活のすべてになっていた私は、バスケットが面白くなくなってしまった事で、学校にも行きたくなくて、一日ずる休みをしました。母に「どうしたの?」と聞かれて、そこで正直に自分の気持ちを話したんです。もう長崎でバスケは続けられない。このままやっても熱が入らないから、バスケを辞めるか転校したい、と。

結局、両親が理解してくれて、希望の学校を2校見学することになりました。最初に行ったのが、愛知県の強豪校です。練習内容も環境も超一流。全国優勝しているチームだったので、選手がまとっているオーラも違います。見た瞬間、痺れましたね。うわーって。バスケ界の「本物」を見て、「もうここに行くしかない」と思いました。2校目を見学するのはやめて、1年生の冬に転校することを決めました。

トップクラスの人達との練習は面白かったですね。監督が練習メニューを言うのですが、まずその内容が理解できなくて。もう付いていくのに必死でした。余裕がなくて必死な毎日が、でも楽しかったんです。地元にいたときは、自分中心にプレーしていましたが、転校してからは上手い人がたくさんいて、周りとの息の合わせ方、周りに合わせたスピードの上げ方を意識するようになりました。「これでいいや」ではなく、まだ足りないからもっともっとやらなければいけない。もっと学びたいという想いが膨らんでいきましたね。

そして2年生のときにインターハイに出場。念願の全国優勝を果たしたんです。長崎で描いた「日本一になりたい」という目標を、達成できました。

ケガをした自分を責め、追い込んだ


卒業後は、静岡の実業団へ入団。入団後すぐ、5月の日本代表合宿に参加しました。しかし、その合宿中に突然、ひざが腫れてきたんです。病院へ行くと、今までの積み重ねによる慢性的なものだと言われました。そこから、病院で手当を受けながら練習と休養、リハビリを繰り返す日々が始まりました。

最初は、どうにか治って上手くいくだろうとモチベーションを保っていたんです。しかしそのうちに、リハビリに専念する期間が何年も続くようになりました。試合には当然出られないし、練習にも参加できない。自分を責めましたね。こうなってしまったのは自分が悪いんだ、と。もっと頑張らなきゃいけないと、自分を追い込むこともありました。

中には、私のケガを喜ぶ人達もいました。高校を卒業してすぐ日本代表になったこともあって、周りに敵が多かったんです。孤独でしたね。相手が「大丈夫?」と言いながらも、心の中では喜んでいるのが分かって、人を信用できなくなってしまって。そして、他人に対してそんな風に考えてしまうことも、また自分を責める要因になりました。感情をコントロールできなくなっていました。

部屋に帰っても、笑えないんです。鏡を見て笑う練習をしようとするけど、涙しか出てこなくて。苦しくて苦しくて、口に枕を当てて一人で毎日泣いていました。鬱のような状態にもなり、病院にも通いました。でもその時近くには、理解してくれる人は誰一人いませんでした。毎日孤独と戦う日々。もう限界でした。

その暗闇の中で、良い状態のときには見えなかったものが、見えるようになりました。ケガをしたことで離れていく人もいれば、変わらず親身に支えてくれる人もいた。それは、人のありがたさに気づいた時間でもありました。孤独と思っていた時間でも、実は遠くから見て応援してくれていた人が居たと気付くことができました。だから私も、誰かが良い状態にあるときだけでなく、どんな状況でも応援できる人で在りたいと思いましたね。精神的にも身体的にも限界だったけれど、家族も含め、支えて応援してくれる人は少なからずいたんです。その人達のために頑張ろうという想いでした。もし自分一人だったら、きっとつらい時間を耐え抜く事はできなかったから。

ありがとうが溢れた最後の試合


実業団に入って6年程経ち、リハビリに専念していた頃、来年新しい体育館ができるという話を聞きました。その話を聞いたとき、ふと「そこで私はプレーしていないだろうな」と思ったんです。

もうこのチームではやりきったという想いがあって。引退するには早いタイミングだったので、移籍を考えました。そして、幸運にも条件が揃って、行きたいと思うチームから声をかけてもらえたんです。

それは、これから伸びると注目していたチームで、高校の先輩や後輩も多く所属する、愛知県の実業団でした。ケガをしているという最悪な状態でありながら、行きたいチームに移籍できたのは、奇跡的としか言いようがありません。

移籍してからも、ケガで練習に出ることはなかなかできませんでしたが、監督やメンバーには恵まれました。バスケ本来のチームワークや、バスケ楽しい!と思えるようなチームの一体感があり、ずっと不安定だった心の整理ができたんです。

そして、移籍して2年目にようやく試合に出場することができました。「代表になりたい」という高い目標を持って頑張ってきたこともあるけれど、ケガをしてからの数年間、私の目標はただ「コートに立つ」ことでした。夏のキャンプでの試合でしたが、その願いが叶ったのは凄く大きいことでした。

しかし、順調に練習にも参加し、いよいよリーグ戦が始まる。そのタイミングで練習中に再びケガをしてしまいました。ケガをした箇所は、手術でも治療できないと言われて。ここからまた頑張ってリハビリする数年はないなと思いました。それで「引退だな」と。そう思った瞬間「あぁ、これでもう楽になれる」という想いが先に来ましたね。

昔は、代表でバリバリ活躍して、やり切って引退するイメージを描いていたんです。でもそれ以上に、これまでのいろいろな経験がすべて「やり切った」という実感につながりました。かつて思い描いていた姿ではないけど、本当にやり切って頑張ってきたから、ここで引退するのは納得できる、と。

最後のリーグ戦は足がもうガタガタで、練習もできないし、普通に走ることもできないくらい。きっと邪魔になるから、試合には出ないでチームのサポートに回ろうと思ったんです。でも監督が「応援してくれていた人達がいるから、その人達のためにも最後にコートに立った方がいい」と、30秒だけチャンスをくれて。

たった30秒です。以前はレギュラーになって、スタートからバリバリ出場することが当たり前で、1分コートに立てって言われたら「なんで1分しか出られないの」って思っていたんですよ。でも、そのとき感じました。30秒コートに立つのが、どれだけ難しいかって。いろいろな人達が支えてくれて、応援してくれるからコートに立てるんだ。頑張ってきた自分がいるからコートに立てるんだ。想像もしなかった感情が湧き出してきました。

その30秒の間に、パスをくれた仲間もいましたし、オフェンスとディフィンスも一回ずつして。ありがとうの気持ちが溢れて、涙が止まりませんでした。チームメイトのほとんどは、私が引退することを知らなかったんです。だから、復帰できて良かったという涙だと思われていたかもしれません。でも私の中では「これが最後だ」と。これまで、辛いバスケット人生でした。でも最後の30秒は感謝の気持ちが止まりませんでした。私のバスケット人生はこの日、全てが感謝に変わりました。

もう一度、目標を持ちたい


引退後、すぐ次の目標が見つかると思っていたのに、やりたいことはなかなか見つけられませんでした。現役中は、次のキャリアを考えることができない環境だったので、終わってから考えるしかなかったんです。今までのアスリート人生と同等のことをやろうと思ったら、プレッシャーが大きくて。当たり前ですよね。すぐにやりたい事が見つかるはずもなく。それで、とりあえず行動を起こすことにしたんです。行動すれば自ずと見えてくるものがあると信じました。

まず、東京へ行こうと決めました。情報が溢れている場所だし、行けば何かしら「本物」に出会えるだろうと。やりたいことが見つかったときに、東京にいればすぐ動けるとも思ったんです。それで、身一つで東京へ向かいました。

今までアスリートとして「こうじゃなければ」という思考にがんじがらめにされていたけれど、東京に来たことで「これもある」「あれもある」と視野が急に広がりましたね。いろいろなことを吸収したいし、やってみたい。これから新しい人生が始まるような気持ちでした。

そして自分に何が必要かを考えたとき、まずパソコンが触れないなと思ったんです。ずっとスポーツばかりしていたので、会社での業務経験がない。まずはそこを学ぼうと、グッズ制作の会社に就職しました。

会社では、経理を一人で任されました。触ったこともないパソコンの操作を教えてもらいながら、業務も覚えなければいけません。きつかったですね。パソコン教室にも通い、出社してから退社するまでずっと画面の前で葛藤して。今まで身体を動かしていたのに、頭が一杯一杯になり、パンク寸前で泣きながら仕事していました。でもそれを半年間続けたら、何とか業務を回せるようになったんです。そこで、自分の中の目標は一つ達成したなと感じました。

そうすると、またバスケに関わりたいという想いが生まれてきましたね。そのとき偶然にも、バスケット協会にグッズ提案をする機会が訪れたんです。その協会の方から「あなたはもっと他にやることがあるんじゃないの」と話をされて。Bリーグというプロバスケットボールリーグが来年からスタートする。バスケに戻るなら今がチャンスだと言われたんです。お世話になった会社でしたが、次のステップに行きたいという想いがあって、協会の方に連絡を取りました。

その方からは、チームの広報をやるか、プロダクションに所属してメディアに出るかという2つの選択肢を提示されました。もともと人見知りだし、自分がメディアに出られるのかという不安はあったんです。でも、私はケガでどん底に落ちてから、ずっと大きな目標を持てずにいました。その数年間をくつがえすためにも、もう一度大きい目標に向かってチャレンジしたい。自らのコミュニケーション能力を高めたい想いもありましたし、何よりバスケットの魅力を沢山の人達へ広めたい。そんな想いからメディアに出る道を選んだのです。

所属後、何がやりたいかを聞かれても、最初は答えられずにいました。アスリートは、用意されたレールの上で頑張るのは得意ですが、自分でビジョンを掲げて道をつくっていくことは苦手な人が多いんです。しかも、どうしても100%完璧な状態でないと、スタートできないと思ってしまう。自分に何ができるかも分からないのに、「これがやりたい」とは言えませんでした。そこでプロダクションから、バスケに限らず広く経験を積むことを提案されたんです。メディアに出る仕事をしつつ、社員として働いて、タレントのマネジメントも行うことになりました。

自分を売り出しながら、他人も売り込むというのは、矛盾や難しさを感じる場面もありました。それでも、現役のときから取り上げられているようなトップクラスの方々のマネジメントに関わることで、知名度のない私を知ってもらう機会ができましたし、所属している先輩方から学ぶことは多くありました。

約2年半働き、マネジメントの仕事量と自分自身への依頼が増えてきたのをきっかけに、退社。社員ではなく、タレントとして所属し、フリーで活動していくことを決めました。

不安の先には、良いものが待っている


今は、バスケの解説やリポーター、コメンテーターなどのメディアの仕事、それから子どものバスケ教室など、バスケを普及する活動や企業のPR活動に携わっています。

メディアの仕事では、競技のコアな部分を話すよりも、バスケを知らない人にも分かりやすく伝えることを意識していますね。現役のときに感じたのが、多くの人に知ってもらうことで、競技者にも熱が生まれるし、応援されるから頑張ろうという連鎖反応が起きるということ。そのために大切なのがメディアだと思っています。厳しいことを言うときもありますが、「バスケって面白い」と思ってもらえるように、できるだけ前向きに応援する解説を心がけていますね。

そして2021年からは、バスケ以外の活動として、大きいサイズのファッション靴ブランド「JB AKINO」をスタートさせました。もともと洋服や靴は好きで、辛いときにもお洒落をすることで、救われたことがあったんです。悩んでいるとき、ちょっと違うところへマインドを切り換えることで、心が和らぐし、前向きになれる。靴も、そのきっかけの一つだと思います。この靴を履くことで気分が上がって「また次頑張ろう」と思ってもらえたら嬉しいですね。

今後は、女性や子どもに関わる活動をして、みんなに豊かな気持ちを提供できたらいいなと思っています。スポーツやファッション。美にこだわることだったり、安らぎだったり、子ども達の可能性を広げたりする活動です。昔から、自分が成功することより、誰かが喜んでくれるのを見る方が、何十倍も何百倍も嬉しかったんですよね。日本代表になりたいと思ったのも、家族が喜んでくれるから。だから、みんなで一緒に喜びを分かち合えるようなものを、提供していきたいんです。

ケガと戦った9年間は、私にとって真っ暗なトンネルの中にいた時間でした。光が見えなかったんです。でも今になって思うのは、少しずつでも前に進んでいけば、やがて出口に近づき、光が見えてくるということ。だから、前進することは大事にしています。

ただ、前進するためには、限界が来たときにリセットすることも必要です。今、コロナ禍で苦しい思いをしている人がたくさんいると思います。そういう人達はきっともう充分頑張っていますよね。だから、周りよりも自分の声に耳を傾ける勇気を持って欲しいです。例えば休憩や一旦リセットすることも、前進につながると思います。

私は、どん底はチャンスじゃないかと思っています。後はもう上がっていくしかないからです。苦しかったからこそ、少しでも良くなったときの喜びは大きい。そこに感謝することもできる。これまでの経験から、不安の先には絶対に良いものが待っていると、実感していますね。頑張った分だけ、神様はご褒美をくれる。こうやって靴の事業にチャレンジできることも、そうです。

自分自身を信じる力、自分自身を好きになること。きっとその想いこそが、無限大の可能性を広げてくれます。

今は、これからの人生が楽しみですね。苦しい時期はあったけど、それが財産になっている。過去の辛い思いは、良いものに変えられます。苦しみを財産にできた、その実体験を形にして、伝えていきたい。そして、最後に「ありがたい人生だったな」と思える生き方をしたいです。

2021.02.22

インタビュー・ライティング | 塩井 典子
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