「まずはやる!思いついたらやる!」岐阜県職員の私が、シンガポールで学んだ姿勢。

岐阜県の県庁職員として、「まずやる、思いついたらやる」という姿勢で、すさまじいスピードで新しいプロジェクトに挑戦を続ける都竹さん。仕事に対するアグレッシブさや、現場に足を運ぶことを大切にする背景について、お話を伺いました。

都竹 淳也

つづく じゅんや|岐阜県庁職員
岐阜県職員。
健康福祉部 地域医療推進課 障がい児者医療推進室長を務める。

地元で働きたい


大学時代、筑波大学で法律の勉強をしていました。全国から学生が集まっていて、毎日がお国自慢のようなものだったんですよ。

私は、高校生までを過ごしていた地元の飛騨が大好きなのですが、地元から離れている土地で、自分の生まれた地域の魅力を伝えているうちに、「岐阜に帰って、故郷のために何かをやりたい」と思い、地元で就職をすることにしたんです。

実際に岐阜県に帰って働くにあたり、学校教員か県庁職員の2つの選択肢で迷っていましたが、「より多くの幅広い仕事に関わりたい」という思いから、大学卒業後は岐阜県の県庁職員として働くことにしました。

まず最初は、飛騨県税事務所に配属され、税金を課税したり、滞納している方に税金を納めてもらうための徴収業務を行ったりしていました。

実際に行ってみると、当然のように相手は嫌がり、「なんでこんなものを払わなければいけないんだ?」や、「なんでこんな金額を納めなければならんのだ!?」といった対応をされるんですよ。最初の頃は「そういうルール・決まりだから払ってください」といった対応をしていました。

でも、仕事を続けていくうちに、それでは人は納得してくれないと気付いたんです。それからは自分でしっかりと各税金の成り立ちや、どういった理由で金額が設定されているのかを勉強して、きちんと相手に伝えるようになりました。

すると、相手の反応も変わってくるんですよね。この仕事で、公務員は、自分が作っていない世の中のルールであってもきちんと勉強をして、わかりやすく住民に伝えていくことが大切だ、ということを学びました。

シンガポールで受けた衝撃


飛騨県税事務所で3年間仕事をしたあとは、県庁の税務課に移り各地域の県税事務所を取りまとめる仕事をしていました。

基本的に公務員は3年周期で異動になるのですが税務課で2年半弱働いた頃に、突然人事課に呼び出されて、「君、2年間シンガポールへ行ってくれないか?」と言われたんですよ。

正直英語もできなかったですし、今まで海外で働くことなんて考えたこともなかったので、最初は戸惑いました。

でも、外国人向けの日本語教師である妻の希望や、海外経験のある県庁の先輩などの話を聞いて、県庁の職員として海外で働くことなんてめったにない機会だと思い、最終的にシンガポールに行くことにしたんです。

でも当時は全く英語がわからなかったので、渡航前に1年間東京で研修を行った後、シンガポールへ向かいました。まあ、研修とは名ばかりで当たり前のように仕事が山ほどあったんですけどね。(笑)

現地では英語がわからないながらも必死に仕事をして、国際会議の企画運営なども担当しました。

そんな中で何より印象的だったのはシンガポールの政府職員の仕事に対する姿勢でした。当時、シンガポールの産業政策についての論文を書いていて、色々と調査をしていくうちに、シンガポール政府というのは子供のころから選び抜かれた超エリートが集まった組織なんだということがわかりました。

でも、そのトップレベルの官僚たちが自国の政策をより良いものにするために、積極的に自分の足を使って様々な場所へ赴き、必死に現場の声を吸い上げて政策を立案する、という泥臭い働き方をしていたんですね。

トップレベルのエリートの官僚たちの「まずは現場に行く、まずはやる」という姿勢があまりに衝撃的だったのと同時に、「この泥臭さを岐阜県に持ち帰って、自分の仕事に取り入れよう」と強く思いました。

秘書で身につけた高い視点


2年間のシンガポール駐在を終え、帰国してから1年ほどは県のITの拠点施設に勤務し、その後、突然秘書課に配属されることになったんです。

ここでは、内勤秘書として岐阜県知事の日程調整や資料の作成などの業務を担当した後、朝のお迎えから帰りのお見送りまでを常に知事と共に生活をする随行秘書となり、計7年間知事の秘書としての生活を送りました。

秘書という職種は常に大量の業務を抱えているため、情報量が途轍もなく、一日一日がとにかく過酷でした。そして、知事と一緒にいる時間が長いため、時には「君はどう思う?」というように意見を聞かれ、そこで自分が述べた内容が知事の発言に盛り込まれたりもするんですね。

そんな中で仕事をしていたので、知事からも、常日頃から「自分が知事だったらどうするか考えなさい」と厳しく仕込まれました。

この7年間の秘書の活動のおかげで視座が上がり、今まででは気づくことができなかった課題にも気づけるようになった気がします。”本っ当に”大変でしたが、とても勉強になる、素敵な7年間でしたね。

「まずはやる!」という姿勢


その後は岐阜県長期構想という県政全体のビジョンを策定する仕事に携わった後、商工政策課という部署に配属され、政策企画という新しい事業をする仕事を担当することになりました。

各部にも政策課というのがあるんですが、本来新しい企画をするセクションのはずなのに、ほとんどは部署間の細かい調整の仕事に終始しているんです。まるでみんなが「新しい企画なんてできない」と思っているような感じでした。

でも必要なのは、シンガポールの政府職員のように泥臭く現場を這い回って課題を見つけ、 「気づいたなら、まずはやる」という姿勢なんですね。

そんなことを思っているうちに、ひょんなきっかけで、新しい企画としてネットショップの支援事業を立ち上げることになりました。その後、「まずはやる!思い立ったらやる!」という姿勢で仕事を進めていった結果、企画の立案から3か月たらずという異例の早さで大手ネットモールとの提携を実現することができたんです。

新しい企画を通すときは、 通常なら企画を練るのに3か月、予算を練って通すまでに半年、・・・という具合に1年ほども時間がかかってしまいます。でも、このネットショップ支援事業のケースで 「まずはやる!」 というやり方で実績を作ることができ、たとえ役所でもスピード感を持って仕事ができるということを証明することができました。

そしてその事業は、後に県の重点政策へと大きく拡大していきました。

本当に困っている人を助けたい


商工政策課で4年間働いて、そろそろ異動という時に、自分の希望を聞かれました。 その時に私は「障がい者の支援をやりたい」と答えたんです。

医療や福祉の分野は、私自身も初めてで、しかも、これまで携わってきた企画やビジネス支援とは大きく異なる分野だったので、周りの人からは意外な印象を持たれました。

でも、今まで県庁職員として様々な仕事に関わってきて、役所として本当にやらなくてはいけないのは 「自分の力だけでは克服できない困難を持つ人たちの支援だ」という思いを強く持つようになっていました。

特に私自身の子どもが障がい児だということもあって、障がいのある人たちが抱える問題と本気で向き合いたいと考えたんですね。

幸いに希望をかなえてもらい、健康福祉部地域医療推進課という部署に配属され、障がい児の施設を整備する仕事を担当することになりました。でも、着任した最初の週に現場を訪れたときに「福祉と医療の間に壁がある」という別の問題を見つけたんです。

一般には障がい者の支援は福祉の仕事です。でも、壁があるんだったら、逆に医療から障がい児者を手助けする流れを作ればいいと考え、新しく「障がい児者医療」という政策を始めることにしました。

今は、障がい児者医療に携わる医師や看護師の育成、自宅で生活している重度の障がい児者の支援など、沢山の新しいプロジェクトを走らせています。

今でも常に心がけていることは 「まずはやってみる、そして現場に足を運ぶ」 ということです。

ずっと県庁の建物で働いていると、徐々に現場感が無くなってきてしまい、細かい定義づけのようなことばかりやってしまいがちなんです。ですが、それでは本当の問題がどこにあるのかが見極められないので、まずは現場に赴き、自らの目と耳と体で直接問題を把握することを大切にしています。

将来的には、人が知らない世の中の埋もれている課題に気づき、そこに日を当てて、県の課題として取り組んでいくことで、もっと多くの本当に困っている人たちを助けていきたいですね。

そして「まずはやる、現場に足を運ぶ」そして「自分事として考える」ことはずっと大切にしていきたいです。

2014.07.04

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