彼が獲った魚だから、毎日レシピを進化させる。生産者と客を繋ぐ「増幅装置」を目指すシェフ。

産直のこだわり食材を満喫できる恵比寿のレストラン「ビストロ ダルブル」のシェフ、無藤さん。食材や地域に長く思い入れのある方だろうと思ったら、関心を持ったこと自体、わずか数年前だそう。学生時代は教師を目指していたという無藤シェフの、料理や生産者さん、そして「産直」との出会いとは。お話を伺いました。

無藤 哲弥

むとう てつや|ビストロダルブル恵比寿店チーフシェフ
大学を卒業後、カフェの店長として勤めた後に調理師専門学校へ入学。複数のフランス料理店での修行を経て、現在は東京・恵比寿のレストラン「ビストロ ダルブル」でチーフシェフを務める。

「上から3番目」が定位置だった少年時代


三重県松阪市に生まれました。両親と弟、そして祖父母の6人家族。父は教師で母は会社員、祖父母は農家だったので、みんな出かけていることが多かったです。僕はとにかくやんちゃで、田んぼや川を駆け回っていましたが、一方でテレビを見るのも大好き。難しい表現や標準語など、言葉の多くをテレビから学びました。

小学校でも地域の中で遊び回っていましたが、夜は日本の歴史や世界の童話など、たくさんの本を読みました。そのおかげか、学校の成績は常に上位。活発な上に成績も良かったので、教室での立ち位置でいうと「上から3番目」くらいにいました。

中学校でも成績や立ち位置を維持して、特に勉強することなく、高校は進学校へなんとなく進みました。

高校でも麻雀やカラオケにはまって遊び歩いていましたが、成績は維持したまま。「ここでも立ち位置は上から3番目くらいだな」。そう感じたとき、“年を重ねて自分の世界は広がっているはずなのに立ち位置が変わらない”ことを、初めて疑問に思ったんです。

「もっと広い世界に出ても、上から3番目くらいの立ち位置を保っていられるのかな」と、自分の可能性にワクワクもしましたね。親元から離れて1人暮らしをしてみたいという気持ちもあったので、上京を目指すことに。父親の職業が教師なのと、ちょうど熱血教師のテレビドラマが大流行していたので、「ディスカッションしながら生徒たちを育てていく、熱血教師になりたい」と、教員免許をとれる東京の大学を受験しました。

料理との偶然の出会い


無事、東京の志望校に合格。確実に教員免許を取るため、授業のコマをしっかり埋めて勉強に取り組みました。しかし1年生の途中で「ゆとり教育」が発表され、自分が憧れていた「熱血指導」のやり方は許されなくなりました。正直がっかりしましたね。

そんな時、たまたま「まかないが出るアルバイト先」として選んだのが、近所のファミリーレストランでした。接客は面倒くさいと思い、キッチンを志望。上司になったシェフが偶然、ホテル出身の実力派だったんです。

ちょうどファミレスブームで各社がライバルとの差別化をはかり出し、僕のアルバイト先は「本格的な料理を出す」ことを重視。セントラルキッチンから運ばれてくる冷凍品を使うんじゃなく、例えばとんかつなら、塊肉を仕入れて丁寧に調理していました。社員やアルバイトのお祝い事などでシェフがご馳走を作ることもあったのですが、キラキラのコンソメジュレをぶわーっとかけた肉など、本格的なフランス料理が並んで。「うちのシェフって、かっこいい!」と純粋に思いました。

またある日、自宅でテレビを見ていたら、ある大人気料理番組の第1回目を放送していたんです。面白いなと釘付けになって、翌日、アルバイト先のシェフに「昨日テレビに出ていたシェフが凄かった」と話したら、「知り合いだよ」と返されて。そこでまた「鉄人と呼ばれるシェフと知り合いだなんて、やっぱりこの人は凄いんだ」と感動しました。そんな人に基礎から料理を教えてもらえて、本当にラッキーでしたね。

ただ、職業としてシェフを目指そうとまでは思わず。卒業したら地元に帰ってくるよう両親に言われたため、都内で開催された三重県の就職セミナーに参加。たまたま立ち寄った1社目の企業から、その場で内定をもらい、まあいいかと就職を決めてしまいました。パンのメーカーが新規事業でカフェをオープンするところで、ファミレスでのアルバイト経験をかわれて、いきなり店長を任されました。

自問自答と新たな挑戦


三重県へ戻り、1階がベーカリー、2階がカフェというお店をオープン。始めてすぐに、お店はプチブレイクしました。東京で学んだ「オシャレな見せ方」や、僕自身が考えたアイディアが次々に当たり、すごい勢いで売り上げが伸びていったんです。自分がプロデュースしたものが認められて、嬉しかったですね。

でも喜び以上に感じたのは、良心の呵責(かしゃく)でした。「素人が適当に考えたアイディアが、こんなに評価されていいのかな?」と。そして同時に「お客様達は、何をこんなに評価してくれるんだろう?」と好奇心も湧いてきたんです。

しばらくの間、お店を運営しながら自問自答を繰り返し、ついには一念発起して会社を辞め、貯金はたいて大阪にある調理師専門学校へ入りました。調理の方法や成り立ちを学ぶことで、僕の疑問が解消されるんじゃないかと思ったんです。

入学すると、周りは高校を卒業したばかりの10代ばかり。自分は24歳になっていて、この中で結果を出すには誰より努力するしかないと思い、寝る間も遊ぶ間も惜しんで勉強しました。親に支援をお願いすることもできないので、飲食店でのアルバイトを2つ掛け持ち。睡眠時間は3時間ほどで、自分で買えるご飯は1日に食パン1枚くらい。アルバイト先のまかないで、なんとか最低限の栄養をまかなっていました。

必死に勉強したため、完全に理解とはいかないものの、調理の基礎知識はしっかりと叩き込んでもらえ、1年間で専門学校を卒業。今度こそ職業「シェフ」として歩んでいこうと、就職先を探しました。本屋でたまたま手に取った雑誌に掲載されていたのが、東京のあるフレンチレストラン。内装も、料理も、とにかくかっこいい。心を奪われた僕は、そのお店に履歴書を送りました。

最初の面接は落ちてしまいましたが、その後、人手が足りなくなったタイミングでお店側から連絡をもらい、スーツケースに最低限の衣類と毛布だけ詰め込んで、再び上京しました。

初めての挫折と料理人という仕事


これまで僕は、多少の苦労はあっても何でも器用にこなせていたので、新たな職場でも何とかなるだろうと考えていました。しかし店に立った初日、天狗の鼻は思い切り折られてしまいました。みんな技術力は高いし、スピードは速いし、飛び交う言葉はフランス語。僕にできることは、邪魔にならないよう、隅っこに立っていることだけでした。食後のカフェタイムだけは、カフェの店長だった経験が活きて多少は役に立てましたが、それ以外はからきし。

そのため、現場に立つよりも、シェフの鞄持ちをする機会が増えていきます。シェフは業界の実力者で、僕が見ていた料理番組作りのサポートなどもしていました。初回から見ていた憧れの番組の現場に行けて、なんと最終回にも立ち会えました。感慨深い思いがしましたね。

また、シェフは社会奉仕活動団体にも参加し、養護施設でフランス料理を振舞う活動などもしていました。同行させてもらった際、1つ作って何銭…といった内職の仕事をしている方たちに、「本当に美味しかった。いつかきっとお金を貯めて、お店に食べに行きたい」とお手紙をいただいたんです。もう僕、号泣しちゃって。こんなにも様々な方たちに笑顔や感動を届けられるなんて、料理人て素晴らしい!と心を揺さぶられました。そこから本気で技術を身に付けたいと思うようになり、それまで以上に真剣に料理を学びました。

3年ほどシェフの下で働いたあと、シェフの後輩のフランス料理店で、引き続きフレンチの料理人として働きました。新しいお店のシェフもフランスの三つ星レストランを渡り歩いてきたすごい方で、多くを学ばせてもらいました。

「産直」とは、産地の人を知ること


30歳の時、そのお店が閉店することに。ここでまたご縁をいただき、東京・恵比寿のフレンチレストラン「ビストロ ダルブル」でセカンドシェフとして働くことになりました。

ダルブルで出会ったのが、「産直」という概念です。僕は「産直」という言葉さえ、ほとんど聞いたことがなかったのですが、社長が「産直」をすごく大切にする人だったんです。

社長はよく、「大きな市場で何でも手に入れば良いと思うな。形の悪いトマトこそが自然なんだぞ」と話していました。それに対して僕は、各地から直接送られてくる食材を美味しいとは思ったものの、正直、面倒くさいと思っていました。だって、市場に行けば好きな時間に食材が揃うのに、各地からの宅急便は、なかなか揃わないんですよ。配達が遅れることもあり、「いつ魚を捌くんだ」「休憩時間がなくなっちゃうよ」と、イライラすることも多くて。注文時の電話やFAXしか産地との繋がりもなかったので、「仕入れ先の選択肢として、産直がある」程度の感覚でした。

しかし40歳を過ぎてチーフシェフになった頃、たまたま産地へ赴く機会に恵まれたんです。お世話になっている業者さんが、宮城県への食材探しツアーを企画して。東北へ訪れたこともなかったので、軽い気持ちで参加しました。

いくつもの産地を訪れて、実際に食材を食べさせていただくなかで、特に面白かったのは、夜の飲み会でした。初めて生産者さんたちと膝を突き合わせて酒を飲み、話をすると、食材だけでなく「これからの海は、こうじゃないとダメだ」なんて、自然環境のことまで話してくれたんです。これには感心しましたね。

その後も偶然の機会が続いて、福島など複数地域の産地を訪問させてもらいました。真冬に雪の下からネギを掘り起こす農家、厳しい荒波の中を必死の思いで魚を獲ってくる漁師。そんな姿を目の当たりにするうち、「彼らの想いを、きちんと届けないといけない」と、生産者さんや産地、食材に真剣に向き合うようになっていきました。

そんな中、たまたま都内の居酒屋で「宮城県のホヤを捌く体験会」が開催されたんです。ホヤという未知の食材に好奇心が掻き立てられて、参加しました。参加者たちは居酒屋チェーンの社長や、食材メーカーの部長、料理人など。

しかし、この時の会話で上がったのが「ホヤは刺身くらいしか食べ方がない」という話でした。そんな風に言われると、料理人の存在価値がない気がしてきて。「新たなホヤの料理方法を考えてみせる!」とスイッチが入ったんです。

体験会でホヤにまつわる地域の課題を聞いたのも、大きかったですね。ホヤは東日本大震災前は韓国に生産量の8割を輸出していたのですが、震災によって輸出がストップされ、生産・加工業者さんたちが本当に困っているらしく。名物になる料理が作れたら、地域観光などの役に立てるかもしれないと思いました。

そこから試行錯誤を重ねて、30種ほどのホヤレシピを開発。生はもちろん、揚げたり蒸したり。フレンチ、イタリアン、和風にアジアンとジャンルも様々作りました。中でも代表的なのは「ホヤ殻のビスク」。本来であれば産業廃棄物となる、ホヤの殻から出汁をとるのですが、伊勢海老など甲殻類のような濃厚な旨味を味わえます。このメニュー開発をきっかけに、漁師やPRチームなど、産地のプレイヤーたちと深い関係を築けるようになり、彼らの面白さや魅力を更に学びました。

生産者と客を繋ぐ「増幅装置」


現在は、ビストロ ダルブルでチーフシェフを務めながら、生産者さんとお客さんを繋ぐ「増幅装置」を目指しています。仕入れた食材をただ調理して出すのではなく、彼らの食材を最大限に美味しく、魅力を増幅させて届けるにはどうすれば良いかを考え続けているのです。そうすることで、お客さんが自然と食材や生産者さん、地域に興味を持ってくれる形を目指しています。

そのためには、まず食材をより良い状態で届けてもらうことが重要なので、生産者さんたちとは、密に連絡を取り合っています。梱包一つとっても、詰める量や温度管理、緩衝材の入れ方などで食材の状態が変わります。魚については、獲った時点で内臓をとったり、血を抜いたりといった処理が必要です。こちらも勉強させてもらいながら、どこまで現場で手を加えてもらうかをディスカッションします。

そうすることで、実際に見た目や味も変化するので、料理を作っては写真を撮って送り、お客さんの反応も細かく伝えます。しっかりフィードバックすることで、生産者さんたちのやる気にも繋がり、より良いものを返してくれるようになります。時には、同じ食材を扱っている他の生産者さんとの比較を伝えることも。良いことも悪いことも真摯に伝えると、彼らも真摯に返してくれ、どんどん届く食材のレベルが上がっていくのが楽しいです。

もう一つ重要なのは、僕自身の進化です。彼らの食材レベルに合わせて料理方法もレベルを上げていかなくては、「増幅装置」としての役割を果たせません。そのため、3年間毎日のようにレシピをアップデートし続けています。

こうした中で、生産者さんが課題を相談してくれることも増えました。世間で知名度が低く「未利用魚」として捨てられたり、安価でしか取引されない魚介などの食材に、なんとか価値を付けられないか…といった案件が多いです。そうした課題は解決が難しいですが、大好きで尊敬できる彼らのために何とかしたいと思い、共に試行錯誤しています。

これからも生産現場の“彼ら”と一緒にアップデートし続けて、食材や生産者さん、そして地域の魅力を増幅し、伝えられる料理人でありたいです。

2020.10.26

インタビュー・ライディング | 中川めぐみ
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