左手の指がなくても何でもできるんだよ。 障がいある子にスポーツの楽しさを伝えたい。

障害者スキーの選手としてトリノ、バンクーバー、ソチと3大会連続でパラリンピックに出場した太田さん。生まれつき左手の指がない中で、理解者に恵まれスポーツの面白さを実感してきたと言います。2020年東京大会では、競技をパラテコンドーに変え出場。4度目のパラリンピックに挑む太田さんが、競技で伝えたいこととは?

太田 渉子

おおた しょうこ|ソフトバンク株式会社人事総務統括CSR統括部/パラテコンドー選手
ソフトバンク株式会社人事総務統括CSR統括部/パラテコンドー選手 山形県生まれ。生まれつき、左手の指がない「先天性左手全指欠損」という障がいがある。小学校3年生から地域のスキークラブに入り、中学入学後には日本障害者スキー連盟の強化選手に。トリノ、バンクーバー、ソチと3大会連続でパラリンピックに出場。14年にスキー引退。2020年東京大会にはパラテコンドーの日本代表として出場する。

恥ずかしさ取り除いてくれた先生の言葉


山形県尾花沢市で生まれました。豪雪地帯で、クロスカントリースキーが盛んな地域です。

生まれたときから左手の指がありません。右手と左手が違うということは、小学校に入る前から気付いていました。いろいろなものを左手で持てないので、結束バンドを使って太鼓のばちを持つなど、工夫しながら過ごしていました。両親からはヒントを教えてもらいながらも、「工夫しながら何でもするように」と教えられました。日常生活ではほとんど不便を感じませんでしたね。

おとなしい性格で、人前で目立とうとか、リーダーをやろうとかいうタイプではありませんでした。ただ、身体を動かすのは好きで、近所の友達と活発に遊んでいました。

しかし、小学校に入学すると、違う幼稚園からきた子たちが私の手のことを気にして、他のクラスから見に来るようになったんです。すごく見せたくなくて、自分の教室から出られなくなりました。すると、担任の先生が「渉子ちゃん、なんで左手を見せたくないの? 左手を見せて、友だちじゃなくなった人がいるの?」と声をかけてくれたんです。

言われてみると、自分の手が人と違うからという理由で友だちを失ったことはありませんでした。なんとなく、自分の中でみんなと容姿が違うことに対するコンプレックスがあって、恥ずかしかったんです。先生の言葉はその恥ずかしさを取り除いてくれました。

それからは他のクラスの子にも手を見せるようになりましたし、逆に手を見せることで友だちになれた子もいました。

最初に出合った「壁」


雪深い土地柄、小学校1年生のときから体育の授業の一環でスキーをやっていました。幼いながらに、スキーを担いで登校していましたね。ただ、ボートを右だけのオールで漕ぐとくるくる回ってしまうのと同じで、ストック一本だと、どうしても真っすぐに進めないのです。自分だけが上手くできず、すごく悔しい思いをしました。

これまで、水泳ではクロールや背泳ぎ、平泳ぎなどもすんなりとできましたし、ピアノの演奏にもそんなに苦労しませんでした。他にも、跳び箱や鉄棒も、なんとなく周りの子の真似をしながらできたんです。スキーは、最初に出合った壁でした。

ただ、雪深い尾花沢市では、スキーができないと体育の授業についていけません。負けず嫌いな性格もあって、友人に誘われて地元のクロスカントリースキーのスポーツ少年団に入りました。小学校3年生のときです。毎日練習を繰り返すと少しずつ速くなっていき、スキーが楽しくなっていきました。自分だけ特別扱いされる訳でなく、友だちと一緒にスキーができ、同じメニューをこなし、同じ時間だけ練習ができたことがとても嬉しかったです。

高学年のとき、各クラスの代表5、6人だけが出場できる、校内スキー大会のリレーの選手に選ばれました。初めて代表になって、すごく緊張しましたね。でも、クラスメイトからたくさんの応援を受けて、無事にタスキをつなぐことができたんです。頑張れたことが、強く心に残りました。

パラリンピックで金メダルを取ろう


中学校では陸上部とスキー部に入部しました。大会に出場した中学1年の夏、全日本クロスカントリースキーのチーム監督と出会いました。「パラリンピックを目指してみないか」「一緒にパラリンピックで金メダルを取ろう」とスカウトされたのです。しかし、私は一般の学校に通い、スキーでも健常者に混じって全国大会を目指していました。ですので、スカウトされても、「私には関係のない世界だな」と感じて困惑しました。そこに自分が出場することが全く想像できなかったのです。

パラスポーツは「障がい者の方がやっているリハビリ」というイメージを持っていました。それに比べて、私はもっと上を目指しているんだという気持ちがあったので、自分よりも下に見ていたのかもしれません。

ところが、実際にパラスポーツの大会に出てみると、自分が勝手に持っていた「障がい者スポーツ」の概念が崩れました。視覚障がいがある方や車いすの方がスキーをしている姿は格好良かったし、すごく速かったんです。視覚障がいがある選手が、ガイドの声を頼りに坂を滑り、車いすの方が、腕力だけで私がひーひー言って登る坂を上っていました。自分が想像もできなかった世界が、そこにはあったんです。それまで取り組んできたスポーツ以上にハイレベルだな、と感じました。そういう世界で「金メダルを取ろう」という話だとわかり、とてもワクワクしましたね。

日本障害者スキー連盟の強化指定選手に選ばれたのはその翌年。パラスキーの競技人口が多い訳ではなかったので、中学生でしたが、すでに国内女子の中ではトップクラスでした。

中学2年のゴールデンウィークには全日本の合宿に参加しました。それまではせいぜい県内に合宿に行ったくらいでしたが、新潟や北海道へ行き、初めて飛行機にも乗りました。2年生の冬には、カナダのワールドカップに出場。クロスカントリーと、クロスカントリーと射撃を組み合わせたバイアスロンです。スキー漬けの生活の始まりでした。

仲間と喜びを分かち合う


中学3年の時にはアメリカで開催されたワールドカップに出場しました。ただ、大会が中学の卒業式と日程が重なってしまいました。卒業式にはどうしても出たくて、式が終わった後にアメリカに向かいました。参加できたのは最終日に行われたリレーだけ。個人の種目は全部終わっていました。

リレーに出た経験はあまりありませんでした。チームの中では、私がタイムを稼いで次の人にバトンを渡す計画。ところが、すごく緊張しましたし、転んだか何かで全然時間を稼げませんでした。アンカーにバトンが渡ったところで、3位争いをしていたアメリカとは時間差がなく、「越されるな」と思ってしまいました。

ゴール地点で他の仲間と一緒にアンカーの到着を待っていたところ、選手の姿が見えました。アメリカと日本のユニフォームは同じ色だったので、最初はアメリカかと思いました。しかし、先にやってきたのは日本の選手だったのです。一生懸命頑張っている選手を、全員で目一杯応援しました。

接戦をものにして、銅メダルを取れたのがとにかくうれしくて。それまではメダルが取れなかったら自分のせいだって思っていましたが、アンカーの方が頑張ってくれた。大喜びしました。リレーは仲間がいるから頑張れるし、喜びも大きくなるんだ、と強く感じました。

パラ選手仲間から受けた刺激


競技者となると、スキーのチームメイトとは家族以上に時間を一緒に過ごします。そこでの時間はかけがえのないものでした。一緒にいて楽しくて、障がいを感じさせない。困ったらお互いが助け合います。「素の自分でいられる」という居心地の良さがありました。もちろん、みんなトップアスリートですので、成長できる場所でもありました。

国際大会にも出るようになって、国外の選手と知り合いになり、交友を深めていくのも楽しかったです。その中で、2歳年上のロシアの女性選手と出会いました。角刈りのショートヘアで、身長も高くて男まさり。最初に見たときは怖く感じました。

それまで、自分は片腕だから健常者のなかでスキーをやっても勝てなくて当然だと考えていました。ところが、彼女は健常者の大会に出ても、上位にいけるタイムで走っていました。彼女の姿を見て、「全然もっと上を目指せるんだ」と教わりました。

3回のパラリンピックで「出し切った」


16歳で初めて、パラリンピックのトリノ大会に臨みました。競技の直前には、私の前に出場した選手が金メダルを取って、周囲はみんな大喜び。しかし私は、自分のレースでもういっぱいいっぱいで、緊張していました。

たぶん誰も私がメダルを取るとは思っていなかったと思います。ただ、日本チームに勢いがあったからか、親せきや日本選手の応援を受けて、3位でゴールできたんです。私自身は「本当に私が取ったの?」っていう感じで、何回も結果を確認しました。信じられない私の側で、チームメイトや観客席の人はすごく喜んでくれて。メダルを取るとこんなに人が喜んでくれるんだ、と感じました。

その後、パラリンピック2大会目のバンクーバーではクロスカントリースキーに出場し、銀メダルを獲得。3大会目のソチでは、日本選手団の旗手をやらせてもらいました。一方で、スキーをやり尽くした感じがあり、「この大会を最後にしよう」と決めていました。メダルこそ取れませんでしたが、バイアスロンの射撃では20発中全てを命中させることができ、自分の中では「もう出し切った」という想いで引退を決意しました。

競技やめたはずが、テコンドーへ


スキーをやめた後、トライアスロンをはじめとして他のパラスポーツの関係者から声をかけてもらいました。しかし、全てお断りしたんです。スポーツ選手の後の人生のほうが長いと思っていたので、とりあえずスポーツ以外のことをやりたい、早く社会に出たい、仕事を覚えたいという気持ちでした。

スキーをしながら所属していた会社で、総務として働きました。主な仕事は採用や社員の教育。同僚から「ありがとう」って言ってもらえるのが一番のやりがいでした。障がい者スポーツの選手と社員との、橋渡し的な役割もさせてもらいましたね。

働きながらも体を動かしたい思いはあって、趣味で他のスポーツをはじめました。その中で、知人からテコンドーを紹介されたんです。始める前は「痛いし怖い」というイメージがありました。それが、練習用のミットを蹴ってみると、パーンと音がして爽快感があって。声を出すことも含めて、ストレスの発散になりました。スキーを辞めてから、ヨガやダンスもしましたがちょっと物足りなかったんです。なんとなくの趣味の一環から始めて、いつからか大会にも出るようになりました。

その中で、テコンドーが東京パラリンピックの種目になり、強化選手に選ばれたんです。そのとき、もう一度パラリンピックに出る覚悟を決めました。テコンドーも、もし競技者として声を掛けられていたら、やらなかったかもしれません。本当にタイミングがよかったんです。練習により一層打ち込むためにと、自分の中で区切りをつける意味で会社も変えることにしました。

障がいある子にスポーツの楽しさを発信したい


今はテコンドーの選手としてパラリンピックに向けて練習をしながら、会社のCSR部門で働いています。100人ほどが所属しており、それぞれのチームが円滑にコミュニケーションをとれるよう補助したり、社内向けに取り組みを発信したりしています。午前9時から午後5時ごろまで勤務して、夜は2時間ほど練習する毎日ですね。

それに加えて、パラスポーツを広く知ってもらうため、講演活動もしています。私自身、偶然の出会いがなければ、今こうやって活動していませんでした。「パラリンピック」は聞いたことがあるけど、実際にどんな競技があって、どういう人が出ているのか。まだ知られていないことがたくさんあると感じます。特に、パラテコンドーは東京大会で初めて採用された競技。テコンドー自体、マイナーな競技ですし、まずはテコンドーを知ってもらうのもやりがいです。

学校に講演に行くと、子どもが私の手に純粋に興味を持ってくれるんですよね。周りに障がい者がいないのかも知れません。私は、出会う人たちに「何でもできるんだよ」って伝えています。もっともっと私たちが社会に出ていくことで、障がいがあってもなくても、みんなと変わらず普通に生活も仕事もできる、と知ってもらいたいですね。

目前に控えている東京パラリンピックでは、選手としてやっぱり最高の試合をしたいです。やるからには出場するだけではなく、ナンバーワンを目指したい。同時に、私が楽しんでいる姿も多くの人に見せたいと考えています。それによって、障がいある子どもたちに、挑戦する楽しさ、身体を動かす楽しさを伝えていきたいです。

2020.03.05

インタビュー・ライティング | 辻本 志郎
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