他者の課題解決に没頭する。 黒子として、遠州地域をブランディング。

静岡県西部にあたる、遠州地域のブランディングを手がける外山さん。中学生のころから、自分が生きたいような人生を歩めているかを常に自問自答していたといいます。そんな外山さんが大事にする生き方とは。お話を伺いました。

外山 佳邦

とやま よしくに|株式会社55634代表
静岡県湖西市新居町出身。株式会社55634代表。自動車メーカーの営業部門、百貨店のコピーライターを経て、中小企業に特化したブランディング会社を設立。中小企業のブランディングについて経営者から直接相談を受け、商品企画・デザイン・販路開拓に携わる。

熱く生きるってどういうこと?


静岡県湖西市に生まれました。3人兄弟の次男で、要領よく立ち回るのが生活の中で自然と身につきました。2歳年上の兄が全く人の影響を受けない変わった性格で、実力テストの日には「実力なんか測ってくれなくていい」といって学校を休んでいました。自分の生きたいように生きる兄を見て、決まりに従わない生き方もあるんだと気づかされました。

一方で自分は、友達と遊ぶのが楽しみで、毎日ちゃんと学校に通っていました(笑)。遊びを考えるのが好きで、いつも新しい遊びの言い出しっぺでしたね。田舎の漁師町だったので、ゲームセンターなどの人工的な遊び場は充実していないんですよ。自分たちでルールを決めて靴飛ばしをしたり、浜で見つけた流木に乗って遊んだり、釣りをしたりしていましたね。釣りをしていて餌がなくなったときは、再び釣り具屋に買いに行くのではなく、海に入って岩場の貝を拾って使うんです。遊びは選択肢から「選ぶ」ものではなく、自分で「創る」ものでしたね。

小中学校と勉強は割とするほうで、友達にも恵まれたので、毎日がとても楽しかったです。中学生のとき、近所の図書館でたまたま、アーサー・L・ウィリアムズ・ジュニアの『人生、熱く生きなければ価値がない!』という自己啓発本を見つけました。「熱く生きる」というタイトルが全く思いもよらない表現で、興味をそそられたんです。自分にとっての人生は、学校で授業を受けて、家に帰って宿題を済ませ、公園で友達とドッジボールをし、暗くなったら帰って寝る、の繰り返し。ドッジボールの時に瞬間的に熱くなることはあっても、ルーティンの人生に熱くなるイメージは湧かなかったんです。

熱く生きるという価値観がどんなものか知りたくて、毎日図書館に通い、少しずつ読み進めました。全て読み終えたとき、熱く生きるとは、自分で自分の人生を決めることなんだと理解しました。友達と遊ぶときのルールなど、大抵の物事を自分で決めてきたので、そんなの当たり前じゃんと思いました。でも、当たり前のように思える考え方が書いてあるということは、大人になるにつれて周りのペースに巻き込まれて、自分を見失っていくんだろうと思いましたね。自分の意志を持って、悔いのない選択をし、日々納得がいく人生を歩もうと決意しました。

道を決めたら、即行動


高校は地域でトップクラスの公立の進学校に進みました。最初の定期テストの成績は、学年420人ほどの中、390位ぐらいでした。世の中には頭の良い人がいっぱいいるんだなと気づきましたね。その後も、成績はずっと横ばい。しかし、全く落ち込んだりはしません。勉強は自分の勝負する道ではないと思い、大学受験では比較的得意な英語を活かした受験戦略を練ることにしました。

そんなとき、高校を卒業した兄が「日本は自分に合わん」と言って渡米しました。両親は「自分の人生は自分で決めな」というスタンスなので止めません。常に自分で考え、自分で道をつくっていく兄はやはり変わっているなと思いつつ、自分の進路も納得のいく決断をしようと思いました。

大学はじっくり勉強できる貴重な機会なので、商学や経営学などの就職後も学べそうな学問ではなく、仕事とは関係なさそうな分野を学びたいと思いました。本を読んだり、いろんな考え方を知ったりするのが好きだったこともあって、選んだのは文学部。得意な英語の配点が高い2つの大学に絞って受験し、関西の私立大学の文学部に合格しました。

1、2年生のときは、全員共通の授業が多く、友達数人で一緒に受けていました。3年からは専攻するゼミに分かれていきます。私は、授業が面白かった、ある先生のゼミに進むことにしました。すると、それまで一緒に授業を取っていた友人たちに「なんで誰にも相談せずにゼミを選んだんだ」と突っ込まれたんです。友人たちはお互い示し合わせて、同じゼミを選んでいたようでした。心底、驚きました。ゼミを相談して決めようなんて全く頭をよぎらなかったので、考え方がすごく新鮮に感じたんです。自分で決めることは案外当たり前じゃないんだなと自覚しましたね。

周囲に流されることなく、自分は自分で生き方を決めようと思い、20歳のとき、武者小路実篤の『人生論』とスティーブン・R・コヴィーの『7つの習慣』を熟読しました。この2冊は簡単に言うと「人生一度きりだから、悔いなく生きろ」と書いてあって。後々後悔しないように、今のうちから自分の判断軸となる人生設計をしておこうと思い立ったんです。

考えた結果、とりあえず体が一番動く40歳までの20年間は自分の実力をつける働き方をして、自分が納得いく一流のビジネスマンになると決意しました。具体的な分野も決めていませんでしたが、世間的な評価ではなく、自己評価でビジネスの場でやり切ったなと思えるぐらいの能力を身に着けたいと思いました。

仕事に必要な能力は大学以外の場で身に着けようと思い、専門学校のガイド本をパラパラめくっていたとき、ファイナンシャルプランナーという資格を知りました。住宅や税、保険など汎用性の高い知識が身に着けられそうだと思いました。すぐに専門学校に通って勉強し、ファイナンシャルプランニング技能士2級を取得しました。資格を活かせる仕事として、銀行員を目指すことにしました。

アメリカにいる兄に銀行に行くと伝えると、「ものづくりの会社のほうがエキサイティングだろ」と一言。兄のほうが知識が豊富で、いろんな世界を知っているため、自分が見えていない部分が見えているんだろうと思い、兄の言葉を信じることにしました。

ものづくりなら大きいものを扱いたいと思い、自動車メーカーや住宅メーカーを中心に就活しました。その結果、自動車メーカーの営業職に内定をもらいました。友人に「銀行に行くのは辞めて、自動車メーカーにした」と報告すると、「専門学校に通ってまで資格を取ったのにもったいない」と言われましたね(笑)。自分の経験よりも、「熱く生きる」兄のアドバイスに絶大な信頼を寄せていたので、周りの声は全く気にならず、自動車メーカーに就職しました。

自分で決められない仕事


配属されたのは神戸の営業部。半年ほど働く中で、仕事に慣れ、会社の組織風土も見えてきます。大企業で年功序列の評価制度だったので、部長クラスは50歳以上の社員でした。自分の将来はどうなるのかと思い、イメージしやすい10個年上の社員に目を向けると、どんなにスピード出世している社員も、何かをやろうとするときは何人もの上役にお伺いを立てていました。

決裁権を持てるまでには、どんなに頑張っても30年かかるのか…。今までずっと自分の人生は自分で決めてきたのに、30年も誰かに決められて働くのは嫌だと思いました。40歳までに自分が納得いく一流のビジネスマンになるためには、この環境では成長スピードが遅いとも思ったんです。ずっと働き続けるイメージは崩れましたが、しばらくは営業を学ぼうと思い、ひとまず会社に残ることにしました。

ある休日、自動車のショールームのキャッチコピーを考えるために、本屋に立ち寄りました。いろんな本を読む中で、「コピーライター」という職業の存在を初めて知りました。「愛情一本」や「バザールでござーる」など、ちょっとしたフレーズで世の中の消費が動いていると知り、すごく感動したんです。自分もコピーライターになりたいと思い、次の休日に神戸から東京の青山まで日帰りで、広告業界への転職相談に行きました。すると、「コピーライターの正社員は無理です。ましてやあなたは未経験ですし、もう25歳にもなりますし厳しいでしょう」と言われたんです。

1ミリも心に響きませんでした。あくまで専門家の見解の1つに過ぎず、自分の努力次第で可能性はいくらでも広がると思いましたね。むしろその人を驚かせたいと思い、帰りの新幹線で、コピーライターになることを強く決意しました。

未来を見据え、マルチスキルを磨く


誰にも相談せず会社を辞め、コピーライター養成講座に通うため実家に戻りました。突然実家に帰ってきたことに驚いた父に「大丈夫か」と心配されましたが、「転職したことがない親父にはわからないよ」と一蹴。毎週土曜日に大阪で開かれる講座に、静岡から鈍行列車で往復9時間かけて通い始めました。

通い始めるとすぐに、デザイン業界の仕組みに違和感を覚えました。1つの案件に対して、言葉を考えるコピーライター、ビジュアルを考えるデザイナー、それらをまとめるアートディレクターと、3人体制で分業するのが業界の習わしだったんです。でも、それ全部1人で完結できるんじゃないかと思いました。1人で全て兼ねるのは広告業界では異例でしたが、業界の常識を取り払ってフラットに考えたとき、言葉を考える人がビジュアルも考えられたほうがデザインに統一感が出て、かつ効率的だからです。

また、コピーライター職は飽和気味で、不景気が続くであろう中で言葉単体で仕事をもらえる時代は終わるのではないかとも思いました。そして何より、肩書きに囚われたくない。コピーライターだから言葉だけを考えるのではなく、いろんな手段で人の心を動かすデザインを作れるようになりたい。そう思い、近所の職業訓練校で、ビジュアルデザインの勉強を始めたんです。

月〜金までビジュアルデザイン、週末はコピーライティングを学ぶ日々。特にコピーライティングはセンスが求められ、勉強すれば誰でも一流になれるわけではありません。勉強を続ける中で、当初イメージしていた独創的なコピーのセンスはないと気づきました。変化球の表現は苦手でしたが、シンプルに言葉を置き換えるのは得意だったので、シンプルなコピーが活かせる場所で働こうと思いました。

半年間で講座を修了し、一目散に東京に仕事を探しにいこうと思いました。そんな矢先、ビジュアルデザインの専門学校の先生に、浜松の百貨店のコピーライティングを行うデザイン会社を紹介されたんです。東京に行く気満々で、その会社に行くつもりは全くありませんでしたが、先生には恩があったので面接だけ受けることにしました。

話を聞いてみると、そのデザイン会社は社長が全てのコピーライティングを行っており、今後社長業に専念するために後釜を探しているそうでした。百貨店の垂れ幕やポスター、チラシまで全てのコピーライティングを任してもらえると思うと、だんだん悪い話ではない気がしてきました。もし東京で仕事を探した場合、未経験の私はアルバイトや広告営業から下積みを始めることになるだろう。その場合と天秤にかけたとき、未経験でいろいろ書かせてもらえるのは千載一遇のチャンスだと思い、その会社でお世話になることを決めました。

課題解決のため、前言撤回


デザイン会社で働き始めてしばらく経ったある年の11月、ファッション売り場の冬のコートのキャッチコピーを考える案件を依頼されました。11月なので、秋から冬への移ろいをシンプルな言葉で表現しようと考え、試行錯誤を繰り返しました。

コピー掲載から数日後、百貨店のファッション売り場担当の社員が、折込チラシを持って私の元へ。そしてキャッチコピーを見せながら、開口一番「感動しました」と伝えてくれたんです。悩んだ末つくったのは、外国人のモデルさんがコートを着ている写真に「冬の息吹に包まれる」というコピーでした。1000本以上のキャッチコピーを手がけてきた中で、そんな言葉をかけられたのは初めてだったので、胸にジーンときましたね。

その後、徐々に取引先の会社からコピーだけでなく、ブランディング全般の相談を受けるようになってきました。そこで、勉強してきたビジュアルデザインの知識を活かし、自社ブランドの立ち上げや商品企画など、広範に渡ってサポートするように。周りからは「独立しないの?」という声も上がり始めましたが、百貨店の仕事が十分楽しかったので「独立はしません」ときっぱりと言い切っていました。

しかし、その後も若手経営者の方を中心に、ブランディングに関する相談が後を絶ちません。人材が豊富で分業制が進んでいる東京と違い、地方の中小企業は社長が経営だけでなく、、広報やPRもやっているケースが多いんですよ。そうした業務を全て手探りで進めていくので、悩みも出てきて当然でした。

そんな経営者の方々の悩みを、自分が勉強してきたコピーやビジュアルなどの「伝える力」で助けられるかもしれない。地元の中小企業をブランディングという形で支援したいと思い、前言撤回し起業を決意しました。百貨店で働き始めて7年目の冬、32歳のときでした。

黒子として、遠州地域をブランディング


現在は、浜松を拠点に、静岡県西部にあたる遠州地域の中小企業のブランディングを支援する会社を経営しています。ブランディングとは、人、技術、背景、思いなど、目に見えない会社のブランド資産をわかりやすい形にデザインして発信し、会社のファンを増やしていく仕事。地方の中小企業は人手不足で、経営者がブランディング業務も担うことが多いです。しかし、経営者は日々様々な業務に追われ、目に見えない資産を生み出すブランディングはついつい後回しになりがちなんです。私たちはその点を課題と捉え、支援させていただいています。

具体的には、経営戦略や商品企画などを経営者と一緒に考える「価値をつくる」業務から、ホームページ制作やロゴデザイン、採用パンフレットなど、会社の持っている「価値を伝える」業務まで、クライアントの要望に応じて、ワンストップで支援しています。客観的な視点が入ることで、自社では当たり前だと思っていた常識が、他者の価値になることに気づき、戦略拡大のきっかけになることもあります。

今後も、遠州地域の中小企業の価値を見つけ、1社1社の個性をわかりやすく伝えていきたいです。遠州地域は東京、名古屋、大阪をつなぐ交通の要衝ですが、人々の往来の通過点に過ぎないことが多いのが永年の課題でした。立地条件は良いだけに、価値をつくってきちんと伝えていけば、人が集まってくることは間違いありません。だからこそ、遠州地域の魅力を発信し続けることで、人が足を止めるような地域をつくりたいです。

そのために、各企業を縁の下で支えていくのが私の役割。他人に影響されないから、フラットな目を持つことができ、人が気づいていない価値に気がつくことができます。自己顕示欲も承認欲求も全くないので、この役割が性に合っています。黒子として、遠州地域の地場企業の価値づくりに貢献したいですね。

ただ、明日にはやっていることが進化して新たな分野に挑戦しているかもしれません。具体的な目標を立てるよりも、その時点で持ち合わせている能力と周りの状況を見て行動を決めるからです。今は目の前に、遠州地域の中小企業のブランディングという課題があり、自分にデザインスキルがあるから解決に動く。行動だけ見ると変わっているように見えて、周囲に驚かれることもありますが、目の前の課題の解決が重要だと思っています。

ただ、自分の軸はぶらさないよう、自分で決める人生を歩めているかは常に自問自答してきました。20歳のときに立てた、自分で納得いく一流プレイヤーになるという将来設計。一貫してブランディングを請け負えるようになった今は、自分の存在価値に納得できています。それは、能力も行動も評価も、全て自分で決めるという判断軸をブラさなかったから。これからも、その時々の自分の感覚を信じ、納得のいく判断のもとに人生を歩んでいきたいです。

2020.02.27

インタビュー・ライティング | 伊藤 祐己
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