「もしも」に備える「いつも」。 防災の門戸広げ、高める人間力。

宮城、熊本での2度の大災害の経験を活かし、防災啓発活動に取り組む柳原さん。防災は単に災害から身を守る知識ではなく、人間力を高めるツールだと言います。被災体験を通じて気づいた防災の重要性とは?お話を伺いました。

柳原 志保

やなぎはら しほ|歌うママ防災士
宮城県多賀城市生まれ。大学時代にミュージカルに打ち込み、卒業後は芸能スクールで働く。結婚を機に退職し、2児のママに。離婚後、東日本大震災で被災。熊本県和水町に移住し、防災啓発活動をスタート。熊本地震を機に依頼が激増し、2019年6月より、「歌うママ防災士」としてフリーで講演活動等を行っている。

口から生まれた娘


宮城県多賀城市に生まれました。とにかくおしゃべりが大好きで、話し始めたら止まらない子どもでした。親戚で集まると、母が私を「口から生まれた娘」と紹介していましたね(笑)。

小学校でも自分からガンガン話していましたが、高学年になると、騒がしすぎて女子に冷ややかな目で見られ始めました。すぐに周りの変化に気づいて、大人しくするようにしましたが、しゃべりたい気持ちを心に閉じ込めていたので、あまり居心地が良くなかったです。そのため、地元の公立ではなく、私立の中学に行って環境を変えようと考えました。

6年生のときは、友達とほぼ遊ばず勉強に打ち込み、大学までエスカレーター式に進学できる仙台市の女子校に合格しました。自由な校風で、県内外の幅広い地域から生徒が集まっていました。自由な考え方の人が多く、よくしゃべる私を受け入れてくれたので、とても楽しかったです。調子に乗ってみんなの前でものまねを披露すると、それもみんな笑ってくれて。気を使わなくていい女の園で、元気なキャラクターとして思いっきり自分を解放していましたね。

ミュージカルに打ち込む


高校生になると、周りに比べて背が伸びたので、かっこいい先輩として後輩からキャーキャー言われていました(笑)。お手紙をもらったり、バレンタインデーではチョコをもらったり。

高校3年生の時、たまたまテレビで宝塚歌劇団の舞台を見ました。男役がすごくかっこよくて、すぐに舞台の世界の虜になりました。男役と自分のキャラが重なったので、強く憧れたんです。すぐにバレエと声楽を習い、宝塚歌劇団を受験しました。もちろん落ちましたが(笑)

舞台の世界を諦めきれず、大学ではミュージカルに没頭しました。観客の前で成果を見せる舞台が欲しいと思いましたが、大学に劇団がなかったので、友達を誘って劇団を立ち上げることにしました。ゼロからのスタートなので、脚本、演出を自分たちで考え、音楽も衣装も道具も全て手作りし、舞台を作り上げていきました。

練習を重ね、迎えた舞台本番。演じながら、お客さんが湧いたり、笑顔になったりするのが感じられて、すごく気持ちよかったです。たくさんのお客さんの前で表現することの楽しさを知りました。

表舞台は大学の4年間でやり尽くした気持ちが強かったので、裏方に回ろうと思い、ダンスの専門学校のスタッフに就職を決めました。

専門学校では生徒育成に携わりました。業務量が多く体力的にはつらかったですが、夢を追いかける20歳前後の生徒のキラキラした目を見ると、頑張ろうと思えました。人の成長を支える仕事はとてもやりがいがあって、毎日が楽しかったです。

順風満帆に仕事を続けていた3年目、会社が倒産。全国にチェーン展開している大きな会社だっただけに、ものすごく驚きましたし、ショックでした。学ぶ環境が急に失われた生徒たちは、私たちスタッフ以上に辛いだろうと思いました。その後、ある東京の芸能スクールが、生徒の受け入れ先に決まりました。しかし、そのスクールは小中学生の指導がメインであり、20歳前後の生徒を指導した実績がなかったんです。移籍してくる生徒たちのために、新たに指導カリキュラムを作成する必要がありました。

生徒の面倒を見るのは義務ではありません。ただ、ダンサーを目指して頑張ってきた生徒たちを絶対に見捨てたくない。夢を繋ぎたいと思い、そのスクールでボランティアの形で働かせてもらうことにしました。まずは倒産した全国チェーンの専門学校の生徒約500人の受け入れ窓口として、電話一本で様々な相談に乗る役割を担いました。新たな土地での生活に関する相談や、カリキュラムの紹介、親御さんへの説明など、生徒たちが不安を解消し、夢を追い続けられるようサポートに徹する日々。すると、私の働く姿を見た社長が、「生徒担当のスタッフとして働いてみないか」と誘ってくださったんです。正式に社員として働き始めました。前職の経験を活かし、20歳前後の青年ダンサー対象のカリキュラムを作成し、生徒指導に努めました。

2年後、ハードな仕事に追われて体調を壊し、入院したのをきっかけに退職。その後、類似の芸能スクールで静岡、仙台でのスクール立ち上げから関わることになりました。特にふるさと仙台で子どもたちを育成できるのが嬉しかったですね。しかし、仙台をオープンさせて数か月後、またしても運営会社がつぶれてしまいました。

時を同じくして、父が病に倒れました。再就職は一旦後回しにして、看病を続けましたが、しばらくして父は亡くなりました。再就職について考えましたが、再び不安定な芸能界で仕事を続けていくのは厳しいと感じ、とりあえずパートの仕事を始めました。1年半ほど働きながらこれからの人生についてゆっくり考えた結果、付き合っていた彼と結婚し、家庭に入ることにしました。

母の代わりはいない


その後、2人の息子を出産し、長男が保育園に通い始めた時期から派遣社員として働き始めました。結婚8年目に離婚し、子どもたちを引き取り、生活していくために再就職先を探しました。30代後半のシングルマザーが正社員として働ける会社は、仙台ではあまり多くありません。厳しい就職活動を経て、やっと大手ビジネスホテルチェーンの仙台店の支配人として働けることになりました。まずは知識ゼロなので、関東で基礎研修。その後、福島店舗に移り、先輩支配人の傍で学ぶ日々がスタートしました。

2011年3月11日、長男は小学校、次男を保育園に預け送り、車で大学時代の同級生とランチに行きました。久々の再会を楽しんだ後、保育園に次男を迎えに行く道中。2車線道路の信号が赤になり車を止めたとき、とてつもない震動に襲われました。激しい横揺れが続いた3分間。隣の車線の大型トラックが自分の車側に倒れてこないかが一番の恐怖でした。揺れが収まった後、ラジオをつけて情報をキャッチしつつ、急いで保育園に車を走らせました。車窓から見える建物が壊れていなかったので、安堵しましたね。次男を引き取り家に帰ると、母も長男も無事でした。家も大きく壊れていなかったのでひとまず安心したのですが、自宅待機しようと考えていたところ、「津波が来ます!避難所へ逃げてください」という消防サイレンが響いてきたんです。状況が何もわかっていなかったので、指示されるがままに、子どもを連れて歩いて丘の上の避難所へ向かいました。

避難所である小学校の体育館に着いたのは夕方ごろ。まだ明るかったので自宅方面を見渡すと、特に津波がきているようには見えません。危機感はありませんでしたね。だんだん暗くなっていきましたが、一向に避難所の電気がつきません。インフラが絶たれたことがわかって、ようやく不安を感じ始めました。夜になり再び外を見渡すと、海岸のコンビナートが炎上し、街が赤く染まっているように見えました。火災が唯一の灯りだったので、ものすごく不気味でした。また、ラジオから被害状況の続報が入り、犠牲者の数がすごい勢いで増えていくのがわかりました。徐々に目の前に現れてゆく恐ろしい現実。なぜこんな恐ろしいことが起きているんだろう。しかし、考えても何もわからないから、どうしようもありません。とりあえず避難所の職員の指示を待ちました。

雪が振っていたので体育館の中も寒く、身体を寄せ合ってしのぎました。食料はありません。何かモノをもらえると思っていた自分の考えの甘さを痛感しましたね。3日後から、1家族に1人分の食料が支給されるようになりました。また、避難所運営の方の指示に従い、物資の配分作業やトイレ掃除などを避難所にいる人たちで手分けして行いました。被災者は大勢いましたが、中には作業を手伝わない人もいました。「どうしてあの人は何もしないのかな」と思いながらも、その日を生きることで精一杯で他人に構っていられなかったので、自分ができる作業を続けました。

地震発生から2週間後、ホテルから「早く仕事に戻って欲しい。研修途中ではあるが支配人として着任してほしい」と連絡がきました。家はまだ掃除もできていないし、子どももいる中で、仕事に戻るのは早いと思いました。しかし一方で、せっかく手に入れた正社員の仕事を手放したくないという強い想いがありました。年齢を考えても、やめたら後がない。それこそ子どもたちを路頭に迷わせることになる。今が正念場なんだと思い、小学2年生の長男は熊本県に住む妹家族、保育園児の次男は母にお願いしてホテルに戻ることを決意しました。

交通インフラが途絶えているので、ホテルに住み込みで働き始めました。支配人とは名ばかりで、スタッフのほうがベテランなので、その都度教わりながら必死で働く毎日。余震が続いていた影響で頻繫に不具合が起きていたので、寝るときも携帯を枕元に置いて、常に駆けつけられるように準備していましたね。

心が折れそうな毎日の中、芸能スクールで面倒を見ていた生徒たちから連名でお金が届きました。かつて自分が救った生徒たちが、10年以上経った後、被災を知って動いてくれたことが、すごく嬉しかったです。人と真摯に向き合ってきたことが報われた瞬間でした。深くつながっている人の存在のありがたみを噛み締めました。

1年間、死に物狂いで働き続けた結果、ホテルの復旧が進み、業務が落ち着いてきました。しかしその頃、子どもは、不安と寂しさ、余震で精神的に参ってしまっていたんです。ある日仕事から帰ると、母に「仕事の代わりはいるけど、母親の代わりはあんたしかいない」と言われました。心にずしんと響きました。

母として、子どもたちに向き合ってなかった。母の言葉にが強い後押しになり、会社をやめて子どもとの時間をつくる決心がつきました。親子でゆっくり心のケアをするために、仙台ではなく、長男がお世話になった妹家族が住んでいる熊本県和水町に移住することにしました。

語るべきは、被災ではなく防災


言葉も食べ物も自然も、東北とは全然違う熊本県の田舎町。辺り一面田畑が広がり、ゆったりと流れる時間に癒されました。失業手当をもらいながらのんびり過ごそうと思っていた矢先、総務省が推奨する「地域おこし協力隊」の募集を妹が教えてくれました。移住してきた人たちをスパイスに地域おこしを進めていく制度で、3年間の任期で報酬がもらえるお仕事です。長男がお世話になった和水町に恩返しができるチャンスと思い、3年間働くことにしました。

地域おこしの活動に取り組んでいると、地元の方に被災体験を話してくれとお願いされるようになりました。自分の体験が誰かのためになるならばと思い、震災に直面して困ったことや辛かったことを赤裸々に語りました。講演中、話を聞きながら涙を流してくれる人々。終了後、「柳原さんを元気づけよう」と言って募金活動をしてくれる人々。熊本の人々の温かい行動に、胸を打たれましたね。しかし、講演をするたび、心の隅に残る一抹の違和感。聴衆の反応がしっくりこないんです。ただ、なぜそう思うのか、違和感の正体はわかりませんでした。

とはいえ講演は好評で、町外からも依頼が来るようになりました。聴衆の中には震災時に支援にきてくれた自治体職員やボランティアの方々もいました。その人たちと話す中で、震災時に避難所を運営していた行政職員や地域の役員、小学校の先生たちが寝ずに働いていたことを知りました。話を聞いていくうちに、避難所を運営する方々は、支援者である以前に被災者だと気づきました。その人たちの気持ちを思うと、当時の自分の行動を反省しました。あの時、私自身が受け身でなく、もっとできたことがあったのではないか、被災者でも一人ひとりが小さな役割をもって動けていれば、運営はもっとスムーズにいったのではないかと。

被災体験でもっと話せることないかと思い、改めて当時を振り返りながら、なんでこんなに辛かったんだろうと考えました。地震が起きたことが辛いのは当たり前ですが、それ以前に地震に備えていなかったことがより辛さを重く感じた理由だと気づいたんです。ハッと我に返りました。「わたしは今も何も備えてない」と。

震災の体験を次に活かせていない。被災講演をストーリーとして消費し、震災を「自分ごと」として今後の糧にしようと考えていない空気こそが、違和感の正体だったんです。私が伝えるべきことは被災ではなく防災だ。講演の内容を大きく変えるために、防災の勉強を始めました。

講演できるレベルの知識を身に着けるため、防災士という防災意識・知識・技能の民間資格に沿って学びましたが、活断層や災害の歴史、プレートの構造など難しい項目が多く、すぐ行動できる内容は少ないと感じました。資格は取れたものの、防災の硬い内容をそのまま話したところで、誰にも伝わらないだろうなと思いましたね。実際に人前で講演を始めても、あまり手ごたえを感じられません。防災を自分の経験とセットでどういう風に伝えれば、人に興味を持ってもらえるかすごく悩みました。

防災術を習慣に


どんな伝え方がいいか模索しているとき、「シングルマザーで地域おこしを頑張っている柳原さんにぴったりだよ」と知人に薦められ、熊本県が主催する男女共同参画社会づくりのリーダー育成研修に参加しました。いろんな研修プログラムをこなしていく中で、「男女共同参画と防災」というテーマの写真展のポスターが目に留まったんです。プログラム対象外でしたが、防災という言葉に惹かれ、立ち寄ることにしました。そこに置いてあった災害時に女性が困ったことの事例集に目を通すと、避難所における授乳ルームや更衣室の不足など、女性目線で見た災害の辛さが浮き彫りになっていました。自分もシングルマザーとして、事例に共感しましたね。同時に、自分の体験を「女性目線の防災」という形で伝えられるのではないかと思いました。

それから女性目線の防災についていろいろ調べて、女性特有の困難が増えるのは避難所だとわかりました。しかし、避難所に行けるのは生き延びれた人だけ。まずは命を守れる人を増やさないといけないと思いました。とはいえ、防災知識をそのまま伝えても相手に響きません。講演を聞いた人には防災術を自分ごとととし、災害が起きてからではなく、明日から実践してもらいたい。そのためには防災と日々の暮らしと結び付けて伝える必要がある。「もしも」に備える「いつも」が重要だと思ったんです。

防災を日々の習慣に落とし込めるように突き詰めて考えた結果、危険箇所に気づいたり、役に立つものに気づいたりすること、例えばホテルで非常口のマークを見つけたり、町で公衆電話を見つけたりと、情報にアンテナを張ることが大事だと思い至りました。街にあるポスターや地域の広報誌やチラシ、ハザートマップも全て情報です。情報に敏感になっていれば、準備する時間が作れたり、災害時にも冷静に行動できる。そして何より、情報にアンテナを張ることは、普段の暮らしや仕事にも役に立ちますから、人々が習慣化しやすいんです。

防災術をテクニックとしてではなく、習慣や意識付けとして伝えようと考えてからは、講演内容のアイデアが次々に浮かんでくるようになりましたね。意識までさかのぼって考えれば、どんな分野にも応用が利くんです。地域おこし協力隊の任期が終わってからは、婚活センターのスタッフとして働きつつ、月1回ぐらいのペースで防災の講演会を続けました。

そんなとき、熊本地震が起きました。和水町は被害が比較的小さかったことや、防災対策をきっちりしていたことによって冷静に行動できました。

熊本地震は、仕事に大きな影響をもたらしました。地域の人々の防災意識が高まり、講演依頼が増えたんです。試行錯誤し続けてきた講演は大好評で、「防災を面白く話せる人がいる」「柳原さんの話はわかりやすい」といった口コミが熊本県、九州全域へと広がっていきました。自分なりにアレンジした講演が人々に受け入れられてすごく嬉しかったですね。その後、講演は口コミをベースに年100本ペースまで増えていき、パラレルワークが厳しくなったので、2019年6月で婚活センターをやめ、防災啓発活動1本に絞りました。

防災で育てる人間力


現在は、「歌うママ防災士」として講演や防災イベントに呼ばれたりと九州から全国に活動が拡がっています。参加者の口コミをきっかけにお仕事の依頼をいただくことがほとんどで、女性やママだけでなく、お年寄り、小中学生、障がいのある方向けなど、災害時に弱いといわれている立場に人にも防災の重要性を伝えています。

講演内容はターゲットに合わせて毎回アレンジします。例えば、婚活×防災のイベントであれば、「防災の考え方は婚活に役立ちます。アンテナを張ることで相手の魅力を見つけられるようになりますよ」という具合に、婚活と絡めて、防災への入口をつくるんです。防災を身近に感じてもらうために、依頼元の特性に合わせた「オーダーメイド防災」を届けています。講演の終わりには、必ず東日本大震災の復興ソング「花は咲く」を参加者全員で大合唱。みんなで歌うことで、気持ちが前向きになります。また、歌は記憶に残りやすいので、今日の防災講演を忘れないようにという、「忘災」の想いも込めています。

人前で防災をプレゼンすることは、おしゃべりが好きな私にとって最高の時間なんです。話を真剣に聞いてくれる人、講演が進むにつれて目の色が変わっていく人、最初寝ていたのに、いつのまにか起きて聞いてくれる人など、いろいろな表情、リアクションのどれもが新鮮で。ミュージカルに打ち込んできたときと同じで、人前で表現することを楽しんでいます。

最近では「歌うママ防災士」として認知が広がったことで、テレビ番組のコメンテーターや防災コーナーのゲスト、ラジオ番組のパーソナリティのお仕事もするようになりました。また、講演だけなく、お祭りやイベントでの防災ステージなどいろいろな媒体で自分の好きな表現活動ができるようになったので、人生は不思議なものだなと思いましたね。

今後も、防災啓発活動を広げていきたいです。防災はボランティアでやるものというイメージがありますが、仕事としても成り立つ分野にしていけたらと思っています。防災の担い手が増えれば、より多くの人にとって防災の考え方が浸透するからです。防災啓発活動を仕事として確立し、次の世代のロールモデルになりたいです。

防災とは、災害に備えること。備えることはすなわち、1人1人が自分のできることにきちんと取り組むことだと思うんです。人任せにせず、自立した行動を取る。それで足りない部分を、他人と支え合っていく。こうした自立や支え合いの精神は、防災に限らず生きていく上で必要な「人間力」だと思います。防災は、人間力を高めるツールなんです。防災を伝える活動を通じて、人間力を育てていきたいです。

2020.02.10

インタビュー・ライティング | 伊藤 祐己
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