好きなことを、好きなだけ。「何者になるか分からない」人生を楽しむ。

ラクロスの元日本代表として活躍した安藤さん。高校時代からラクロスを始め、大学時代に主将としてチームを大学日本一に導きました。26歳でラクロス選手を引退後、「人の本気を増やしたい」と話す、安藤さんの思いとは。お話を伺いました。

安藤 圭祐

あんどう けいすけ|株式会社PDS総研
株式会社PDS総研勤務。ラクロス元全日本代表。慶應義塾大学在学中、ラクロス部主将として大学日本一を経験。

「楽しそう」を軸に行動する


東京都目黒区に生まれました。両親と2歳年上の姉がいて、家族が大好きでした。父はしつけに厳しい人でしたが、普段は優しく接してくれましたね。

元気で活発な子どもでした。幼稚園では仲の良い友達とどちらが早く登園するかを競って走っていたし、園内でもずっと遊んでいました。小学校ではサッカーと水泳をしていて、競走では学校で一番。さらに小学校1年生から中学受験の勉強をしていたので、成績も常にトップクラス。学校の中でもスターのような目立った存在でした。

その時その時、自分が楽しそうだと思うことを軸に行動していたので、小学校は楽しい思い出ばかりでした。僕がやりたいことに対して、両親は「ダメ」と言うことはなく、好きなことを好きなようにやらせてくれました。好きなことだから結果も出て、周りも喜んでくれる。良い循環でした。

中学受験をして私立の学校へ入ると、クラスメイトは、みんな頭がよくて身体能力も高い。自分より勉強や運動ができるクラスメイトにたくさん出会って衝撃を受けました。でも、それ自体も刺激的で楽しかったです。

サッカー部に入りましたが、なかなか試合に出られない日々が続き、3年生になっても補欠でした。でも、好きでサッカーをしていたので、悔しさよりもグラウンドに行くのが楽しかったです。

スーパースターの感覚をもう一度


付属の高校に進学し、部活動をどうしようか考えていた時、ラクロスに出会いました。サッカーは楽しかったんですが、競争相手も多く輝けない。でもラクロスならマイナースポーツで競争相手が少ないので輝けるかもしれない。そう思いラクロス部に入ることにしました。小学校の時のスーパースターの感覚をもう一度取り戻したい気持ちがあったんです。

ラクロスをするにあたって「7カ年計画」を立てました。付属の大学のラクロス部が強豪で、日本代表選手も輩出していたんです。ラクロスは、ほとんどの選手が大学から始めます。僕は高校での3年間を大学のラクロス部で輝くための準備期間と捉え、一生懸命練習しようと思いました。大学卒業までにラクロスの日本代表に選ばれることと、日本一になることを自分に誓います。

高校の3年間はラクロス漬けでした。練習は厳しい部分もありましたが、もう一度輝きたいと思ってラクロスを選んだので苦にはならず、ラクロスという競技そのものも、とても楽しかったです。

でも、心のどこかで焦っていました。高校のスポーツ部は付属の学校ということもあり、中学と同じスポーツを継続して上を目指す人が主です。僕は中学までやっていたサッカーをやめ高校からラクロスを始めています。中学時代にサッカーで結果を残していなかったことや、高校でスポーツを変えたことに対する劣等感があって、それも練習に打ち込む原動力になっていました。

目標を叶える


大学でもラクロス部に入部しました。高校3年間練習した成果もあって、1年生の時から1軍の練習に参加していました。大学2年生の時にはライバル校との定期戦にフル出場して優秀選手に選ばれました。20歳以下の関東選抜選手、さらには目標だった日本代表にも選ばれ、海外で試合もしました。劣等感や焦りはなくなり、チームを勝たせることにのめり込んでいきました。

大学4年生の時、約130人の部員を抱えるラクロス部の主将になりました。部員の満足度・幸福度の向上を目標に掲げ、部活動の見直しも図りました。

僕自身にも選手としての目標があって、幹部になるまでは自分がいかに輝くかを軸において目標を設定してきました。選手としての目標は達成できつつある中で、主将は130人分の満足や幸せについても考えないといけません。もちろん試合や大会で成果を残すべく頑張りますが、結果だけを追い求めて、試合に出れていない残りのほとんどの部員が満足しなかったら、それは目指した姿ではありません。130人分の1年間を背負った感覚でしたね。

「4年間、部活を頑張れた。ラクロス部にいて良かった」。すべての部員に最終的にそう思ってもらえるよう、尽力しました。その結果、チームは全日本大学選手権で優勝を果たすことができたんです。ラクロスを始めてから7年間、やりたいことをやりたいだけ努力して、やり尽くした結果でした。

就活を経て


通っている大学の体育会の部活のキャプテンは、有名大手企業に内定するのが当たり前でした。僕も、第1志望は有名なディベロッパー。入社して、「ラクロス頑張るやつがえらいんだ」という世界を作りたかったんです。しかし、第1志望を含めた2社に落ちて、残ったのは人材会社1社のみでした。悔しくて、自信をポキっと折られた気がしました。みんなが超一流企業の内定をもらっている中、この人材会社しか選択肢がないのが負い目で、面倒を見てくださった先輩方にも申し訳なくて就活をやめようと思いました。

その気持ちを父に相談しました。すると、父に「会社の規模に大小はあるけど、仕事に大小はない。どこでも良いから働け!」と檄を飛ばされて。ほぼ生まれて初めて受けた叱りで怖かったですが、確かにそうだなと思い、人材会社の最終面接を受けに行きました。

最終面接では担当者に「今うちに来たら、君は劣等感まみれだろう」と言われました。全部を見抜かれていたんです。その上で、「高校から7年間ラクロスをしてきて、今負い目はあるか?」と聞かれました。僕が「ちゃんとタイトルを獲得できたし、何よりも、この7年間に自分は胸を張れます」と答えると、担当者は言いました。「うちで7年間修行しなさい。そしたらその時、日本一になってるよ」。誰よりも自分を理解してくれたという感覚とその言葉で、入社を決めました。

ラクロスに失礼なことをしていた


人材会社に入社後、人事部の採用担当に配属されました。「自分よりも優秀な人を採用する」というミッションの下、応募者の良いところを探しつつ、応募者の人生を応援するつもりで業務にあたっていました。仕事自体はとても楽しかったです。

仕事をする一方で、会社の外ではラクロスの社会人クラブチームに所属し、競技は続けていました。しかし、仕事に夢中になって土日も働くことが多かったので、ラクロスに関わる時間は減っていきました。手を抜いているわけではなかったのですが、ラクロスの優先順位が一番ではなくなっていたんです。モヤモヤした日々が続く中で、「社会人はこんなもんなのかな」とも思いました。

ある日、所属していた人事部の部長がラクロスも含めた個人的な人生について面談をしてくれました。「1番は仕事、2番がラクロスです」と言うとすごく怒られて。「お前はいつも、常識とか世界がどう動いてるからとかばっかりだ。本当のお前はどうしたいんだ?」と問われたんです。僕はすかさず「ラクロスも仕事も1番です」と答えました。部長は「じゃあやりなさい」と活を入れてくれました。好きなことを好きなようにする自分を無意識に押し殺し、心の声に耳を塞いでいた自分を救ってくれました。

就職してから1年ほど、全力でラクロスに取り組んできたつもりでしたが、もっと練習やトレーニングが出来る時間はあったし、ラクロスへの姿勢が足りませんでした。結果的にラクロスに失礼なことをしていたんです。今後、ラクロスも仕事も手を抜かないと誓いました。もう一度日本代表になって、国際大会に出場するという目標を立てたんです。

悔しさを感じず…26歳で引退


朝、起床してジムでトレーニングして仕事をこなし、帰宅後はラクロスの試合動画を見て研究する。飲み会の日数も減らし、週末はなるべく時間を取って練習を続けました。そして2018年、全日本代表に選ばれ、国際大会出場を果たしました。

全日本代表に選出された瞬間はとても嬉しかったです。しかし代表になれたことにホッとしてしまっていました。これまでの練習は国際大会で活躍することではなく、もう一度国際大会に出場するためにやってきてしまったからだと思いました。国際大会の大一番の試合で自分の出番がなくても悔しさを痛感はしなかったんです。

少し前の時期からラクロス以外での、目上の方に会う機会が増えていました。みなさん努力を重ねていて、志も高い方ばかりだったので感銘を受けました。ラクロス以外の世界でも素晴らしい人がたくさんいると知りましたね。自分の可能性をより大きく飛躍させるなら引退。それを決意するなら今だなと思い、2018年末、26歳で選手生活にピリオドを打ちました。

選手をやめたタイミングで、お世話になっている方の計らいで宮崎に遊びに行く機会がありました。ラクロスをやめて週末に打ち込むものがなかったので、「よかったらサーフィンでもしよう」と誘っていただいたんです。

その場で知り合った方々にこれからの身の振り方を相談したところ、話を聞いた別の会社のオーナーさんが「君は面白いから、俺に弟子入りしなさい」と言ってくださったんです。うちで好きなことを見つけて、それを商売に独立するといいよ、と。その時、「この機会はおみくじだ」と思いました。その場での約束だし、大凶か大吉か分からないけれど、このおみくじは今逃したら一生引けない。そして引かなかったら、絶対に後悔する。たとえ大凶だったとしても、このおみくじを引かずに人生を終われないと思ったんです。「お世話になります」と言って会社をやめる決断をし、転職しました。

何者になるか分からない自分の可能性を信じて


現在は、ホテルやレストラン、ブライダル事業などを展開している会社で新規事業や企画業務をしています。オーナーのアイデアを具現化する抽象度の高い業務にも携わっていて、彼自身が持ってくる、会社の本業とは関わりの薄い事業などのタネを案件化して、収益化するのが仕事ですね。

今後は人生を賭けて「人の本気」を増やしたいと思っています。僕はこれまで、本当に好きなことを好きなだけやらせてもらってきました。本気になって、必死になって心の底から良かったと思うんです。結果がうまくいくかどうかはわかりません。でも、居酒屋で愚痴をこぼすより、夢を語るほうが絶対に楽しい世の中になると思うんです。

何か可能性を感じることがあったら、その可能性に向けて全力で向かっていく。楽しいこともしんどいこともあるけど、それも全部含めて波風立てて味わっていく。結果的に何者になるか分からない自分の可能性を切り拓き続ける。それが、僕が描きたい人生なんだと思います。

僕はこれまで、本当に人に恵まれて、たくさんのフォローやサポートを受けてきました。やりたいことをやらせてくれた両親、主将としての活動を支えてくれた130人のラクロス部員。身の丈を超えるポジションで活動できたのは、これまで僕の人生に関わってくれたみんなのおかげでした。だから、自分がしていただいた以上のことをまだ見ぬ未来に還すのが、僕の役割だと思っています。

2020.01.16

インタビュー・ライティング | 木村 公洋
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